旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

西大山駅(JR日本最南端の駅)

2017-03-23 09:02:53 | 鹿児島
2017年3月20日、阪急交通社の【往復新幹線利用】霧島・知覧・鹿児島3日間 南九州スペシャルでの3月19日から21日の2泊3日の旅行をしました。交通費、宿泊込みで一人3万円です。
知覧の武家屋敷群の散策の後、指宿の砂風呂体験のオプションがありましたが、こちらの西大山駅に来ました。1日に8本しかこない列車にも巡り合えました。
駅前には売店があり、西大山駅に到着しましたという証明書を有料で発行しています。
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黄色いポスト、幸せを運ぶとか



















指宿フェニックスホテル

こちらでオプション参加の方が砂風呂体験しました。ホテルの前に大きなアコウの樹があります。樹齢200年です。




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知覧の武家屋敷群(重伝地区)

2017-03-23 08:59:03 | 鹿児島
2017年3月20日、阪急交通社の【往復新幹線利用】霧島・知覧・鹿児島3日間 南九州スペシャルでの3月19日から21日の2泊3日の旅行をしました。交通費、宿泊込みで一人3万円です。
2日目、鹿児島市内のホテルタイセイアネックスを後にして、知覧観光です。少し小雨でした。7つの庭園の拝観料は500円です。リメンバー九州パスポートがあれば400円です。屋敷の庭園が史跡名勝天然記念物となっています。
南九州市知覧(重要伝統的建造物群保存地区)
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「薩摩藩政時代に113外城の一つとして、知覧島津氏の分家である佐多氏が地頭として治めていました。佐多氏には優れた当主が多く出て、薩摩藩の中でも重要な役目を果たしました。その功績によって佐多氏十六代久達の時代に、知覧の私領地化と島津姓の使用が許されました。現在残る武家屋敷群は、佐多氏十六代久達(1651~1719)の時代もしくは、佐多氏十八代久峯(1732~1772)の時代に造られたものではないかとされています。地区内は石垣で屋敷が区切られ、沖縄によく見られる石敢當(魔よけの石碑)や、屋敷入り口には屋敷内が見えないように屏風岩(沖縄のヒンプン)があります。知覧の港が江戸時代に琉球貿易の拠点であったことから、武家屋敷も琉球の影響を多く受けているようです。領主の御仮屋を中心とした道路割りが旧態をよく保持されています。」
清流溝には鯉が泳いでいます。





石積みが玉石は分家です。

案内図

佐多美舟庭園
「寛延4年(1751)に造られたといわれ、知覧庭園の中でも最も豪華で広い庭園である。枯滝を造り、築山の上部に石灯、下部の平地には、各所に巨岩による石組を設けている。門を入って右に折れ、て書院の前に出ると、本庭の主力の滝を中心とした石組みは、えんえんと流れ、訪れた人々に力強さと広さを感じさせる。」





















通りに戻ります。

佐多民子庭園
「巨石奇岩を積み重ねて深山幽谷の景をうつしだし、小舟に乗って石橋の下を潜って行くと、仙人が岩の上から手招きしているようである。麓川の上流から選んだ庭石は、凝灰岩質のもので、巨岩のため石目にそって割り、牛馬で運びやすくしたものである。」





























佐多直忠庭園
「門をくぐると切石の目隠しにつき当たる、屏風岩とも呼び、防衛を兼ねた造りで江戸時代中期の武家屋敷の風格を備えている。1741~1744年の作庭で、借景の母ケ岳を望む庭の一隅に石で組まれた築山を設け、その中心部は3.5mの立石と枯滝の石組が絶妙な趣を呈し、一幅の水墨画をそのままに現した名園である。」































通りに戻ります。











旧高城家住宅





『旧高城家住宅は、明治以前に建てられた武家住宅であり、「おとこ玄関」と「おんな玄関」の二つがある特徴をもってる。他の知覧型二ツ屋と同様に「おもて」と「なかえ」の二つの屋根の間に小棟を置いたタイプのもので、知覧だけに見られる。二つの本棟と小棟の形、そこにできる屋根の造形は実に美しく、この構造は、知覧大工の創造力と技術によって完成されたものである。」























通りに戻ります。







森重堅庭園
「森家は、亀甲城の西麓にあり、領主に重臣として仕えた家柄で、住居や土蔵は寛保初年(1741)に建てられたものである。曲線に富んだ池には、奇岩怪石を用いて近景の山や半島をあらわし、対岸には、洞窟を表現した穴石を用いて水の流動を象徴している。庭園入口の右側にある石は、庭園の要をなし、雲の上の遠山を現わしている。」































再び通りに戻ります。



知覧型二ツ家(南九州市指定文化財)

















曲がり、通りが折れ曲がっています。





稽古所跡

石敢当(南九州市指定有形民俗文化財)
『三叉路の突き当たりに建てられたこの石は、屋敷内に魔物が入ってくるのを防ぐとされる「石敢当」という魔除けである。中国発祥の信仰で、江戸時代に琉球を経由して鹿児島に伝わり、よく丁字路や三叉路に設置された。現在、知覧では十数基確認されている。」













平山亮一庭園
「石組みの一つもない大刈込み一式の庭園である。イヌマキによる延々たる遠山は、その中に三つの高い峯を見せ、前面にサツキの大苅込みが峯山のようで、母ケ岳を庭園に取り入れて極端に簡素化された借景園として、名園の名をほしいままにしている。」





















再び通りに戻ります。



平山克己庭園
「母ケ岳の優美な姿をとり入れた借景園である。北側の隅には石組みを設けて主峯となし、イヌマキの生垣は母ケ岳の分脈をかたどっている。またどこを切り取っても一つの庭園を形づくり、調和と表現にすぐれた庭園として絶賛されている。大海原には無人島が浮かび、遠くには緑の大陸が望まれ、想像とロマンの世界が楽しめる庭園である。」

















西郷恵一郎庭園
「庭の南東部の隅に枯滝の石組みを設けて高い峯とし、この峯から低く高く刈り込まれたイヌマキは遠くの連山を表現している。また鶴亀の庭園ともいわれ、一変して高い石組みは鶴となり、亀は大海にそそぐ谷川の水辺に遊ぶがごとく配され、石とさつきの組み合わせは至妙である。」





































知覧パラダイスでの山菜炊込定食です。


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霧島ロイヤルホテル

2017-03-23 08:58:28 | 温泉、旅館、ホテル
2017年3月20日、阪急交通社の【往復新幹線利用】霧島・知覧・鹿児島3日間 南九州スペシャルでの3月19日から21日の2泊3日の旅行をしました。交通費、宿泊込みで一人3万円です。2日目の宿泊ホテルです。温泉は硫化水素泉の単純泉です。大浴場に露天風呂とサウナ風呂があります。女性用露天風呂は毎日バラ湯です。
鹿児島県霧島市霧島田口2703-5
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部屋は和室です。







廊下

ロビー







夕食はバイキング































朝食バイキング

霧島神宮が少し遠くて歩いて行けないので残念でした。
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鹿児島市内散策①、城山公園・照国神社・博物館ほか

2017-03-23 08:57:37 | 鹿児島
2017年3月19日、阪急交通社の【往復新幹線利用】霧島・知覧・鹿児島3日間 南九州スペシャルでの2泊3日の旅行をしました。交通費、宿泊込みで一人3万円です。
鹿児島市内のホテルタイセイアネックスに宿泊で、プランに夜の食事がついていないので、外食します。
ホテルを出て、道路向かいにふるさと屋台村がありますので、そこであてをつまみながらビールを飲みに行きます。
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夜の8時前でしたが、どの店も満席で、料理の選択はできないため、とりあえずあいている席に座りました。
さつま揚げ、鰹のたたきのしらす盛り、ブリ大根そして生ビール

3月20日、朝食後、出発まで時間がありましたので、少し駅まで散策しました。
ホテル前の市電の駅

左の黒っぽいのが鹿児島中央駅です。

鎖国時代の留学生、駅前の広場の銅像です。



市電

















高見橋

大久保利通銅像

旅の駅・魔猿城
こちらでは鹿児島の御菓子のかるかんを販売しています。













2階が製造工場です。



21日に市内散策です。施設は火曜日ですが連休の翌日のため、休館でした。
城山公園
「この城山は14世紀の南北朝時代豪族上山氏の山城の跡で、明治10年の西南戦争の最後の激戦地となったところです。また、樹齢約400年にもなるクスの大木やシロヤマシダ、シロヤマゼンマイなどのシダ類等、約600種余りの植物が密生しています。市街地にあって南九州特有の照葉樹林を保ち、数多くの野鳥や昆虫が生息する自然の宝庫です。このため、約10.9haが史跡・天然記念物として国の文化財指定を受けています。」
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駐車場前の売店

















桜島が残念ながら雲がかかっています。

鹿児島市内











照国神社
「御祭神は文化6年(1809)薩摩藩主島津齋興公の御嫡男として江戸で誕生になりました。幼少の頃曾祖父島津重豪公や母賢章院の薫陶を受けられ、学問を好まれ、広く世界に眼を向けた開明的な考え方と科学的な知識を身につけられました。公は嘉永4年(1851)43歳で藩主に就任されるや、幕末の内外多事踏まえて日本を強く豊かな国にするため、積極的に西洋の科学技術の導入に努力されました。」

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島津齋彬公像







護国神社頓宮



幼年学校跡





島津忠義公像





太平洋戦争戦士之墓



島津久光公像



鹿児島県立博物館考古資料館(登録有形文化財)
「明治16年(1883)建築、石造2階建,建築面積337㎡。興業館として建設され、鹿児島県の産業振興に大きな役割を果たした。石造アーチ橋の文化圏にある鹿児島ならではの石造建築で、洋風を基調としながら、随所に和風モチーフの細部を混在させた特異な建造物として知られる。」
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鹿児島県立博物館<旧鹿児島県立図書館>(登録有形文化財)
「昭和2年(1927)建築、鉄筋コンクリート造3階建、建築面積671㎡、塔屋付。照国神社前交差点の角地に建つ。鉄筋コンクリート造3階建塔屋付で、鹿児島県建築課の設計による。担当は地元出身の岩下松雄。丸くした隅部に正面玄関を配し、階段室や塔屋に曲面を用いてダイナミックな構成とするなどに岩下松雄の作風がよく示されている。」
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博物館の前の道路に沿って北向きに進みます。
鹿児島市中央公民館(登録有形文化財)
「昭和2年(1927)建築、鉄筋コンクリート造地上3階地下1階建、建築面積1126㎡。建物周囲にドライエリアを設け、ラーメン構造のRC造、地下1階地上3階建とする。正面立面及び平面をほぼ左右対称とし、玄関両脇に階段室塔屋を配し、その間に4本のピラスター、イスラム風尖頭アーチの窓を設置するなど、中央重視の特徴ある意匠とする。」



西郷隆盛銅像





















鶴丸城石垣



























鹿児島市内散策②へ続きます。
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鹿児島市内散策②、西南戦争の銃弾跡・県政記念館・鹿児島市庁舎本館・南日本銀行本店・山形屋・商店街など

2017-03-23 08:56:14 | 鹿児島
2017年3月19日、阪急交通社の【往復新幹線利用】霧島・知覧・鹿児島3日間 南九州スペシャルでの2泊3日の旅行をしました。交通費、宿泊込みで一人3万円です。
鹿児島市内散策①から続きます。照国神社を起点に博物館、鶴丸城跡と時計回りに市内散策です。
西南戦争の銃弾跡
「明治10年(1877)5月から、鹿児島の争奪をめぐり、政府軍と西郷軍の間に激しい攻防が繰り広げられました。特に、この私学校周辺では同年9月に、政府軍によって放たれた銃弾の跡が今でも生々しく残っています。」









ウィリス 高木に西洋医学を説く



県政記念館<旧鹿児島県庁舎本館>(登録有形文化財)
「大正14年(1925)/平成12移築改修、鉄筋コンクリート造3階建、建築面積334㎡。曽禰中條建築事務所設計によるロの字型平面の県庁舎建築の正面玄関及び中央階段部分。大正期におけるネオ・ルネッサンス様式による県庁舎建築で、中央は3階建とし、玄関車寄のトスカナ式の双柱に2階のイオニア式の柱を重ね、威厳ある正面をつくりあげている。」









かごしま県民交流センター





鹿児島市庁舎本館(登録有形文化財)
「昭和12年(1937)建築、鉄筋コンクリート造3階建,建築面積2813㎡。大蔵省営繕管財局の設計になる府県庁舎スタイルを踏襲した市庁舎建築であるが、当時の岩元市長の強い意向により、ベースメント層を設けずに道路からストレートに入れるようなプランニングをとっている点に特徴がある。」





南日本銀行本店(登録有形文化財)
「昭和12年(1937)建築、鉄筋コンクリート造6階建,建築面積1333㎡。鹿児島無尽株式会社鹿児島支店として建設。3階分通しのコリント式列柱による主階層、アーチ窓を重ねたアチック層、曲面構成の塔屋との対比に妙味が感じられる。設計は元鹿児島県技師の三上昇。三面が道路に面することで格好のランドマークともなっている。」



山形屋、鹿児島のデパートです。
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中町通り

















はいから通り























グルメ通り







伊勢殿屋敷跡











天神ぴらもーるの通りのちょうちょ家です。
昼食に海鮮丼です。妻はヒレ肉しょうが焼きです。













注文から30分は少し長いですね。
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ホテルタイセイアネックス(鹿児島市)

2017-03-23 08:53:55 | 温泉、旅館、ホテル
2017年3月19日、阪急交通社の【往復新幹線利用】霧島・知覧・鹿児島3日間 南九州スペシャルでの旅行をしました。交通費、宿泊込みで一人3万円です。新幹線博多駅下車の後、バスで柳川観光し、1日目の宿泊です。鹿児島中央駅から5分程度の立地です。大浴場は男性のみでした。夜食として夜鳴きうどんを無料で提供しています。夜の食事はついていないので外食しました。
鹿児島市中央町4-32
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外観

玄関

室内です。ベッド2つ並んで、狭いですね。料金からしてしかたないのかも。

ロビー



夜鳴きうどんサービス、3分の1玉くらいです。でも美味しかったですね。



廊下

さつま健康朝食 メニュー50品以上!のバイキングです。
バイキング会場



まあ、ビジネスホテルでしょうか。駅近の立地がいいので、市内観光には便利かも。男性のみの大浴場では夫婦づれではちょっと。ユニットバスでもいいというのであれば、割り切りかな?
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福岡の柳川散策

2017-03-23 08:53:17 | 福岡
2017年3月19日、阪急交通社の【往復新幹線利用】霧島・知覧・鹿児島3日間 南九州スペシャルでの3月19日から21日の2泊3日の旅行をしました。交通費、宿泊込みで一人3万円です。
3月19日、新神戸8時32分発のぞみ99号に乗車、博多着10時47分です。博多駅からバスに乗車し、福岡の柳川、そして、鹿児島へ移動です。
柳川は、福岡県南部、筑後平野の西南端に位置しています。有明海に面する、東西11km、南北12kmの人口約6万8千人の市です。12世紀には平家の落武者が柳川市沖の端地区に落ち延び定住したと伝えられています。城下町柳川の始まりは、戦国時代に蒲池氏が柳川城を築いた時といわれ、城下町の本格的な形成は、天正15年(1587)立花宗茂が柳川城を城地に定めて以降のことと考えられます。詩人、北原白秋の故郷でもあり、生家が今日も保存されています。オプション(川下りとうなぎのせいろ蒸し)がありましたがパスして自由散策しました。
御花の前の駐車場でバスを降車し、ここを起点で時計回りに町を散策します。
柳川藩主立花邸(御花)
「明治期に設けられた屋敷建物及び庭園です。現在(御花)は立花家が経営する観光旅館となっていますが、宿泊者でなくとも観光することは可能です。」



























水路に沿って、街並みを散策します。













水路を船でめぐる観光をしています。



さげもん
「江戸末期頃より女の子が生まれると初節句のお祝いに、お雛様の代わりに古着の端切れで小物を作り飾ってお祝いしたのが始まりだといわれています。袋物には、鶴、亀、えび、三番叟といった縁起の良い物が作られてあり、一つ一つが袋ものになって物を入れることができます。竹の輪に赤布と白布を巻き、7個7列の49個、中央に柳川まりを2個さげて全部で51個、人生50年といわれていた時代に、一年でも長生きしてもらいたいという切なる親の願いが込められています。」2月11日から4月3日まで雛祭りが行われています。















沖端水天宮
「文禄3年(1594)立花宗茂公が筑後川の浅瀬を狐火に誘導されて、無事に柳川城に入城されたのは狐の加護によるものと稲荷神社(豊受姫命)を建立された。その後文化年間に京都の彌剣神社(祇園社)の御分霊を合祀され当時祭の際は各町より小舟を出して舟舞台を造り余興や囃子を奉納しました。明治2年に久留米水天宮の御分霊を合祀し、水難安産の神として崇敬の宮です。水天宮合祀と同時に文化文政時代の形式そのままの舟舞台を造り其れを六そうの舟に乗せ三神丸と名づけ歌舞伎を上演し、舟舞台囃子を奉納しました。囃子は古典的な中に異国情緒豊かなオランダ風の調子が交ざり合って別名オランダ囃子とも呼ばれて古い歴史を持つ郷土芸能で、現在は氏子の小中学生による舟舞台囃子保存会が昭和50年に結成され、毎年5月3、4、5日の大祭の時は芝居を上演し、保存会の子どもたちが囃子を演奏し、町内の若衆が三神丸に棹さし水天宮の掘割を上がったり下ったりする様は全国に類のないものです。」





















北原みやげ店



北原白秋生家(福岡県指定史跡)
「詩人北原白秋(1885年生)の生家跡で、白秋生誕当時の母屋と穀倉が現存し、文学館施設として使用されています。造り酒屋の佇まいを伝えるなまこ壁の母屋と穀倉は、幕末から明治初期の建築と推定されます。明治34年(1901)の沖端大火により被害を受けたが、耐火建築の土蔵造であったため辛うじて残りました。」

































恵比須神社

旧戸島家住宅(福岡県指定文化財)



















田中吉政公銅像













日吉神社
「社伝によると、当社の歴史の始まりは正応3年(1290)に近江の日吉大社を勧請したのに由来するそうで、明治以前は山王宮とか山王大権現といっていました。伏見院の時代に近江国山王宮を社村の農長が勧進し、社村の産土神となり、その後蒲池氏が柳川城を社村に築いた際、柳川城の鎮守となったとされています。」










拝殿











本殿

諸社



金比羅宮















太郎稲荷神社





柳川城跡(柳川市文化財史跡)



御花を起点に時計回りに街並み散策し、戻ってきました。

14時をすぎていますが、うなぎ屋さんはどこも行列ができています。





柳川の町を後にして鹿児島市内のホテルに向かいます。
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天王寺区の寺町③、愛染堂勝鬘院・大江神社・安居神社・一心寺

2017-03-17 20:21:54 | 大阪
2017年3月15日、大阪市営地下鉄谷町9丁目駅から南の下寺町を中心に散策しました。「王寺区の寺町②」に続き、地下鉄谷町線四天王寺前夕陽ケ丘駅を南に100mほど進み、西側に行くと愛染堂勝鬘院があります。
勝鬘院
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『創立年代・沿革は不明ですが、聖徳太子が四天王寺を建立した際の施薬院の後身といわれています。勝鬘院の名は、太子がこの地で勝鬘経を講じたことに由来し、その後、金堂に愛染明王が本尊として奉安されたことから、「愛染さん」として大阪市民から親しまれています。映画の「愛染かつら」の舞台にもなりました。』
山門

薬医門

案内図

大力金剛尊
「この大力金剛尊は、清王朝時代のもので、大正時代に活躍した、大阪市天王寺区出身の横綱(第26代)大錦が満州巡業の折りに、自身の守護神として気にいって中国から持ち帰られた仏様です。」



七福神

金堂(大阪府指定文化財)







多宝塔(重要文化財)
「宝塔は、推古天皇元年(593)聖徳太子の創建。慶長2年(1597)に豊臣秀吉が再建した。高さ22メートル、建坪32平方メートル、三手先造り、本瓦葺、極彩色、様式は桃山時代で当時の粋を集め、豪華雄大、彫刻壁画亦妙技を尽くしている。」











出世白龍明神と願成稲荷神社









愛染の霊水



延命地蔵尊

愛染かつら



愛染坂
「坂の下り口に愛染堂勝鬘院があるので名つけられた。」



大江神社
坂の右側に鎮座しています。
「当社は伝えるところによると、上之宮、小儀(四天王寺東門外、北側)、土塔(南門外、東側)、河掘、堀越、久保の各社と共に天王寺七宮と称し、四天王寺の鎮守として聖徳太子を祀ると伝えられている。大江の社号は、慶応3年この社地が大江岸の続きなるを以て改称したという。当社は天王寺北村の産土神にして、祭社主神に豊受大神を祀り、稲荷神と同一神にて五穀豊穣、食糧保持の神である。」













拝殿





本殿

稲荷神社









狛虎

路地を少し南に進むと清水寺がある。
本殿は傷みがひどくなり、現在建て替え中で、仮本殿でした。

案内図

説明書





玉出の滝
「清水寺の音羽の滝に倣った市内唯一の滝です。」

仮本堂

清水寺から南に120mほど歩くと天神坂に着く。安居神社の北側の谷にあたる坂道です。









安居神社













拝殿

狛犬



本殿





真田幸村碑
「大坂夏の陣(1615年)で徳川家康とで争って真田幸村が戦死した場所。」



安居の清水(かんしずめの井)



安居神社を南に道路向かいに一心寺があります。
一心寺
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「一心寺は、文治元年(1185)、浄土宗宗祖法然上人が、市天王寺の管長だった慈円の招きで、この地を訪れたことに始まる。法然は茶臼山付近に草庵を結び、日想観の行を修したという。現在の境内は、豊臣秀吉夫人高台院の寄進と伝えられ、元和元年(1615)の大坂夏の陣では、徳川家康の本陣となった。本尊は阿弥陀如来像がある。」

仁王門
「1997年に完成した山門で、ガラス屋根と鉄骨組の現代的なデザインです。」









鐘楼













手水舎

本多忠朝の墓所



本堂





開山堂

































お疲れ様でした。
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天王寺区の寺町②、金台寺・萬福寺・光明寺・心光寺・青蓮寺・吉祥寺

2017-03-17 20:20:16 | 大阪
2017年3月15日、地下鉄谷町9丁目駅から南に向かって散策しました。松屋町筋を南に進みます。町名が下寺町1丁目、2丁目と寺院が並びます。
金台寺
山門(大阪市指定文化財)
「金台寺の建築群、本堂、庫裏、書院、山門、鐘楼、観音堂、地蔵堂の7棟が大阪市指定文化財です。大阪城下には11の寺町がありましたが、そのうち金台寺が属する寺下町は、江戸時代初期の元和5年(1619)から延宝9年(1681)にかけて整えられ、現在と同じような構成となりました。上町台地の樹林を背景に本堂や庫裏などの巨大な甍が並び、落着いた寺町の景観が形づくられています。金台寺は慶長11年(1606)の創建で、明歴2年(1656)にこの地に移転してきました。本堂はこのときの創建とおもわれ、市内の浄土宗寺院の本堂としては最古のものです。柱に残された痕跡から、創建当初に内部空間をどのように使っていたかがわかります。その向かって右側(南側)に建つ庫裏は屋根が本堂と直交するように置かれていて、外観に変化をつけています。玄関が別棟とならずに、庫裏の内部に組み込むという古いつくり方で建てられています。そのほかにも境内には、鐘楼、観音堂、地蔵堂などが建ち並び、伝統的な寺町の寺院の構成がわかります。松屋町筋に面して建つ山門は豪快なつくりです。築地塀越しに各建物の瓦屋根が建ち並ぶ姿は、寺町の伝統的な景観をよく伝えています。」











本堂





庫裏









南隣の萬福寺です。
萬福寺
「新撰組が大坂旅宿としたのがこの寺院です。」

山門(登録有形文化財)
「江戸中期の1661-1750年に建造、松屋町筋に西面する一間薬医門。間口2.9m幅に本柱を建て、男梁と女梁間に大斗肘木を入れ、妻には蟇股を置く。二軒半繁垂木で、切妻造本瓦葺。地垂木や男梁、女梁の鼻先に絵様を施し、華やかな印象を与える。蟇股には植物紋様を彫る。」







本堂





南隣に進みます。
大覚寺









光明寺
山門(登録有形文化財)
「慶応2年(1866)建造、松屋町筋に西面する一間薬医門で、切妻造本瓦葺とする。間口3.2mで、潜戸付の袖塀を両脇に付ける。女梁を挿し肘木状に作り、男梁上に大斗肘木を組み、虹梁と軒桁を支持。妻は笈形付の虹梁大瓶束とし、軒は一軒繁垂木。鏡天井を張り、中備に龍の彫刻を飾る。」

本堂(登録有形文化財)
「宝永3年(1706)建造、松屋町筋の東に占める境内地の中央に位置する。入母屋造本瓦葺で、正面に一間向拝を付ける。五間堂で中央に双折両開桟唐戸をたてる。外陣及び内陣、脇陣からなる典型的な浄土宗本堂平面をもつ。建具ほかに改変が見られるものの、江戸中期の形態を伝える遺構である。」



庫裏(登録有形文化財)
「江戸末期の1830-1867年築造、本堂の北側に玄関を介して繋がる。東西棟の切妻造本瓦葺で、大棟に煙出、妻面に下屋を設け、南面西寄りに庇を付け、出入口とする。壁は白漆喰仕上げ。玄関は入母屋造妻入桟瓦葺で、妻は木連格子。本堂と庫裏が並び建ち、重厚な境内景観を呈する。」



心光寺
山門(登録有形文化財)
「江戸中期の1661-1750年建造、松屋町筋に西面する一間薬医門で、切妻造本瓦葺とする。間口2.7m幅に本柱を建て、女梁と男梁、冠木を架し、男梁上に大斗を載せ、虹梁と軒桁を支持する。妻は虹梁大瓶束。大瓶束の上方には木鼻を四方に出す。男梁鼻先や虹梁絵様などの細部意匠は秀逸。」





本堂(登録有形文化財)
「昭和4年(1929)建造、市内を南北に貫通する松屋町筋東方の寺町に位置する。火災後の再建になる鉄筋コンクリート造寺院で、住職の設計と伝える。ドーム屋根、柱上の相輪風の飾り、パラペットの宝珠柱風手摺子、多弁アーチなどによりインド風の外観を造りだす。」

南隣の宗念寺
山門



光傳寺
山門











超心寺
山門(登録有形文化財)
「江戸後期の1751-1829年建造、松屋町筋に西面する一間薬医門で、切妻造本瓦葺とする。間口3.1mで、袖塀を両脇に付ける。女梁を挿し肘木状に作り、男梁上、大斗肘木を介して、虹梁と軒桁を支持。妻や中備は流水や雲紋風に彫られた蟇股とする。軒は一軒繁垂木。たちの高い薬医門である。」







大光寺
山門(登録有形文化財)
「寛延2年(1749)建造、松屋町筋に西面する一間薬医門で、切妻造本瓦葺とする。間口2.8mで、潜戸付の袖塀を両脇に付ける。女梁を挿し肘木状に作り、男梁上、大斗肘木を介し、虹梁と軒桁を支持する。軒は一軒繁垂木。妻と中備は笈形付の虹梁大瓶束で、妻と中備の笈形の意匠を違える。」











本堂

稱名寺
山門(登録有形文化財)
「明治期の建造、松屋町筋に西面する一間高麗門。間口2.8mで、腰海鼠壁とする袖塀を両脇に付ける。妻蟇股とし、軒は一軒繁垂木。切妻造本瓦葺で、棟には龍の飾り瓦、隅蓋瓦に波紋を飾る。小規模ながら、たちの高い高麗門で、薬医門が並ぶ下寺町において印象的である。」





本堂

口縄坂
「坂の下から眺めると、道の起伏がくちなわ(蛇)に似ていることから、この名が付けられたという。」







善龍寺
山門







口縄坂を通り、谷町筋まで出ました。
太平寺
「十三まいりのお寺です。」











谷町筋を少し北に進み、2つ目の筋を西に進みます。青蓮寺です。
青蓮寺
map
「2代目竹田出雲墓所があります。出雲は近松門左衛門と並ぶ浄瑠璃作家の巨匠で、からくりの手法を取り入れるなど、今日の人形つかいの原形をつくった。代表作に「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」がある。」
山門





本堂













竹田出雲墓碑





再び谷町筋に戻り、道路を挟んだ反対側に吉祥寺があります。
吉祥寺
「赤穂義士の寺として有名で、元禄年間(1688~1704)に、播州赤穂藩の浅野長矩の祈願所となり、参勤交代の際に立ち寄ったという。ここに四十七士の墓があるのは、寺坂吉右衛門が義士の切腹後、建碑を依頼したためといわれています。」

















四十七士の墓





谷町筋に沿って50mほど南、筋を左に入ると上島鬼貫墓所がある
「鬼貫は、江戸時代を代表する俳人で、伊丹の酒造家に忌まれた。西山宗因に師事し、談林俳諧を学んだがあわず、独自の研究を重ねた。」



鳳林寺山門
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天王寺区の寺町①、生國魂神社・齢延寺・源聖寺・稱念寺

2017-03-17 20:19:30 | 大阪
2017年3月13日、地下鉄谷町9丁目駅から南へ一心寺に向かって、歩いてみました。駅を出て谷町筋を南に200mほど進み、2つ目の筋を西に曲がると生國魂神社の参道です。
生國魂神社(いくたまじんじゃ)
大阪市天王寺区生玉町13-9
map
パンフレツトより『御由緒は、社伝によれば、第一代・神武天皇が九州より日本統一の旅に出発され、難波津(大阪湾)にお着きになった際、現在の大阪城を含む一帯(のちの石山﨑)に、日本国の御霊である生島大神・足島大神を祀られたのが当社の創祀と伝えられています。そののち、相殿神として大物主大神をお祀りされています。当社について正史上の初見は、「日本書紀」孝徳天皇(7世紀中頃)の条に「生國魂社」と記されており、平安時代の「延喜式」には「難波坐生國咲魂神社」二坐と記され、御祭神は特別に生島坐によって祀られるなど、国家の祭祀「八十島祭」の社として知られています。中世には当社の神域に「石山本願寺」が建てられ、天正11年(1583)に豊臣秀吉公が大坂城築城のため、社領を寄進して社殿を造営し、同13年(1585)に現在の鎮座地に遷座しました。そののちも豊臣・徳川と時代の変遷がありましたが、両家の尊崇のもとに神域は守られ、以来「難波大社」の尊称をもって広く朝野の信仰を集め、明治には官弊大社に列せられるなど、国土の守護神・大阪の総鎮守として人々に崇敬されています。』



狛犬



境内案内図

手水舎

境内







拝殿

本殿
『本殿は、「生國魂造」と呼ばれる他に類をみない建築様式であり、本殿と弊殿は一つの巨大な流造りでふきおろし、上から千鳥破風・すがり唐破風・さらに千鳥破風の順に三破風をすえたものになっています。」社殿は明治45年の「南の大火」、昭和20年の大阪大空襲による焼失、同25年の「ジェーン台風」による倒壊など、長い歴史の中で幾度も被災しますが、その都度氏子崇敬者の赤誠により再建され、現在の社殿は昭和31年に建てられました。」

天満宮
「学問の神として菅原道真公をお祀りしています。」



住吉神社
「航路平安・航海安全の神であり、また和歌文学の神として崇敬されています。」



皇大神宮
「伊勢神宮(内宮)の天照皇大御神の御分霊をお祀りしています。」



境内社の案内図











精鎮社
「表参道蓮池(今の生玉公園)に祀られていた弁財天社(明治初年に精鎮社と改称)で、漁師や釣人、鮮魚を扱う商人から崇敬を集めています。」



城方向(しろむき)八幡宮
「大坂城鬼門の守護神として鎮祭されたことから城方向(北向)と称します。」







稲荷神社
「佐賀県の祐徳稲荷の御分霊で、鍋島藩とその蔵屋敷出入りの商家が篤く崇敬しました。」





源九郎稲荷神社
「奈良県吉野郡の源九郎稲荷神社の御分祀で、歯痛封じの神としても知られています。尚、道頓堀中座に祀られていた八兵衛大明神が合祀されており、歌舞伎役者や松竹新喜劇の人達から崇められています。」



鴫野神社
「女性の守護神として崇められ縁結・悪縁切など心願成就の霊験あらたかです。太閤秀吉夫人の淀君が篤く崇敬したと伝えられています。」





御神木
『神の使いとそれる「巳さん」の住む御神木は、鴫野神社と併せて崇められています。』



鞴神社
『「鞴」とは火起こしの道具で、製鉄・製鋼・鍛冶の守護神として、また火の用心のカマド神として崇敬されています。」



家造祖神社
「家造の祖神である手置帆負神・彦狭知神を土木建築の守護神としてお祀りしています。」



浄瑠璃神社
「近松門左衛門ほか人形浄瑠璃(文楽)の成立に功のあった「浄瑠璃七功神」をはじめ文楽および女義太夫の物故者を祭神としてお祀りしています。ちなみに近松門左衛門の「曽根崎心中」の発端は、この生國魂神社境内が舞台です。」



浄瑠璃記念塔と八雲琴の碑

米澤彦八の碑
「京都で露五郎兵衛によって始められた上方落語は、大阪では当社境内を舞台に米澤彦八が広めたと言われています。」















井原西鶴座象
『「好色一代女」や「世間胸算用」を著した井原西鶴は俳人としても有名で、延宝8年(1680)に当社境内の南坊にて一昼夜四千句の独吟矢数俳諧の新記録を達成しました。』



社務所

勤皇烈士島男也の旧宅跡
「水戸藩士、川崎孫四郎、萬延元年3月3日の水戸浪士による大老井伊直弼を天誅の桜田門外の変後、大阪挙兵を図り幕吏に追われ23日この地で自刃す。笠間藩士、島男也、大阪挙兵の謀議のため幕吏に捕われ江戸伝馬町獄にて死没。」

神社を出て南側、西側に少し歩きます。
齢延寺
「曹洞宗の寺院で、山号は生魂山です。」
仁王門



















庫裏

玄関











本堂



彫刻の素敵な寺院でした。齢延寺を出て、西に進みます。
源聖寺坂









坂を下って北側に源聖寺があります。
map
源聖寺
山門(登録有形文化)
「江戸末期の1830-1867年に建造、松屋町筋に西面する一間薬医門。間口3.2mで、潜り付の袖塀を両脇に付ける。男梁上に三斗組を置き、虹梁及び桁を高くし、鏡天井を張る。妻は虹梁蟇股、軒は二軒繁垂木で、屋根は切妻造本瓦葺とする。大型の薬医門で、蟇股や虹梁など彫りの深い絵様になる。」







本殿

庫裏(登録有形文化)
「江戸後期の1751-1829年に建造、松屋町筋東側に占める境内地の通り寄りに南面して建つ。南面入母屋造北面切妻造の本瓦葺で、大棟南寄りに切妻造の煙出を付ける。正面中央東寄りに庇を掛け、戸口とする。方柱で、柱上に舟肘木を載せ、妻は虹梁大瓶束。簡明ながら重厚な庫裏外観を構成する。」



北側隣に浄國寺があります。
浄國寺
山門

さらに北側の隣に稱念寺があります。
稱念寺
山門(登録有形文化)
「江戸中期の1661-1750年に建造、松屋町筋に西面して建つ一間薬医門。間口2.9m幅に本柱を建て、女梁、冠木、男梁を架し、妻及び中備には蟇股を置く。一軒疎垂木で、屋根を切妻造本瓦葺とする。装飾を抑えるが、木鼻など細部に、江戸中期らしい意匠を示す。」



本堂








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