2022年3月16日、お参りしました。
由緒書より「神戸で最も古い神社の一つである当社の縁起は、奈良時代の『風土記』に記載されている。『美奴売(みぬめ)とは神の名なり。神功皇后が新羅へご出兵の節、神前松原(阪急神崎川駅近く)で神集いをなされた。その時の能勢の美奴売山(今、三草山という)の神様が参られ『吾が山の杉の木で船を造りて行かれるならば幸いあり』との御教示に従い大勝利を収められた。ご帰還の節この地で船が動かなくなり再び占い問うと『神の御心なり』と。故に美奴売の神様を此の地にお祀りし船も献上した』神功皇后摂政元年(201年)の御創建となる。平安時代の『延喜式』にも汶売(みぬめ)神社の名あり。(美奴売・美奴面・見宿女・三犬女とも書かれた)延喜式に記載された神社を『式内社』といい、格式高い神社である。元の社格は県社。社殿は飛鳥・奈良時代『敏馬の埼』と呼ばれた高台にあり、東側は『敏馬(みぬめ)の泊』という神戸最初の港。都人は敏馬神様に航海安全を祈り和歌を献上して旅立って行かれた(日本最古の和歌集「万葉集」には「敏馬」を詠んだ和歌九首あり。境内に柿本人麻呂と田辺福麻呂の歌碑あり。万葉ゆかりの神社としても有名である)奈良時代中頃、港は大輪田に移るが、白砂青松の美しい『敏馬浦』は、都人に知れわたり多数の和歌が詠まれている。しかし昭和6年頃より埋立てにより『敏馬浦』は消滅した。」
神戸市灘区岩屋中町4-1-8
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社標
鳥居
略記
灯籠
手水舎
閼伽井
絵馬
参道
白玉稲荷神社
社務所
市民の森
庫
敏馬の泊・敏馬浦の変遷の説明書
「この高台は大和時代(6~7世紀)海に突き出だした敏馬埼という岬。東側は船泊りに適した入江『敏馬泊』と呼ばれた港。この一帯の地名は『津の国津守郷』。当時、都のあった大和の人々が九州や文化の高い朝鮮・中国(例えば遣隋唐使)へ旅立つとき、生駒山地を越え大阪から船出し、敏馬の泊で一泊。都から見える生駒山地を最後に遠望できる港。帰途の時なつかしい生駒の山々を最初に望める港。また『新羅の人が来朝したとき生田社で醸した酒を敏馬で給う」とあり、畿内へ入るためにけがれを祓う港でもあったようだ。このように大和の都人にとり特別の思いをもつ敏馬であったので、万葉集には大和以外の地で稀に見る多くの和歌が詠まれている。江戸時代、神社前は西国街道で往来激しく、また氏子地(大石・味泥・岩屋)に酒造業・その他を江戸へ運ぶ回船業が栄え、その財力を頼り与謝野蕪村やその弟子が訪れ、当地にもすぐれた俳人が生まれた。明治・大正時代は、海水浴場・ボートハウス、お茶屋、料亭、芝居小屋があり大いに賑わった。しかし、昭和の初め阪神電車のトンネル化の土で海岸は埋め立てられ消滅、さらに昭和20年に戦災、平成7年の大震災で往時の面影はすっかりなくなり神社と鎮守の森だけが昔を偲ぶ唯一のよすがである。」
手水舎
狛犬
拝殿
本殿
末社・松尾神社
「当社の氏子地は灘五郷の一つ西郷といわれ江戸時代中期より酒造業また江戸へ酒を船積みした回船業が大いに栄えたため守護神としてお祀りす。当社には回船業者が江戸時代に奉納した石灯籠六基をはじめ美術的価値の高い船絵馬十数面が現存している。」
后(きさい)の宮
「敏馬神社は神功皇后が御創建されたとの摂津風土記の記録に従いここにお祀りす。『神功皇后祠』と書かれた石碑は昭和13年神社西北の民家から発掘されたもので室町時代の作といわれている。石灯籠は1673(寛文13)年奉納の銘があり当社に現存する最古の石灯籠である。」
水神社・奥の宮
万葉集より(大和時代より奈良時代にかけての和歌を集めた日本最古の和歌集)
歌碑
「玉藻刈る 敏馬を過ぎて 夏草の 野島の埼に 舟近づきぬ」(柿本人麻呂)
「八代鉾の 神の御代より百船の はつる泊と 八島國 百船人の 定めてし 敏馬の浦は 朝風に浦波さわぎ 夕波に 玉藻は来寄る 白まなご 清き浜辺は 往き還り 見れどもあかず うべしこそ 見る人毎に語り継ぎ しのびけらしき 百世へて しのばえ行かむ 清き白浜」(田辺福麻呂)
「妹と来し 敏馬の埼を 帰るさに 独し見れば 涙ぐましも」(大友旅人)
勅撰和歌集より(平安時代より室町時代までの勅撰和歌集)
「ますかがみ 敏馬の浦は 名のみして おなじ影なる 秋の夜の月」[続後撰集](藤原為教・鎌倉時代)
「はま千鳥 かよふばかりの あとはあれど みぬめの浦に ねをのみぞなく」[新後撰集](順徳院・鎌倉時代)
「とはばやな みぬめの浦に 住むあまも 心のうちに 物や思ふと」[新後撰集](西園寺公経・鎌倉時代)
「頼めこし 里のしるべも 訪ひかねて 見ぬ目のよそに 帰る波かな」[新続古今集](藤原定家・鎌倉時代)
「よそにだに みぬめの浦の あま人や ただいたづらに 袖ぬらすらむ」[続千載集](藤原師光・平安時代)
私家集より(平安時代より室町時代までの個人の歌集)
「ますかがみ 今やみぬめの 浦ならむ くもるもひさし 五月雨の空」[草庵集](頓阿法師・南北朝時代)
「あま衣 なれにし友に めぐりあひて みぬめの浦に 玉藻をぞかる」[兼好法師集](吉田兼好・鎌倉時代)
「よそにだに 三犬女の浦に すむあまは 袖にたまらぬ 玉やひろはん」[壬二集](藤原家隆・平安時代)
江戸時代の和歌より
「夜もふかく みぬめのうらを 過ねれば 磯うつ浪の 音のみぞ聞」(片桐貞芳・大名)
「うちいでて むかふ浦はの たぐなひみ いかでみねめの 名にはたつらむ」(烏丸光胤・公卿)
「ますかがみ みねめの浦の 沖津洲に 舟人さわぐ 月や出づらむ」(香川景樹・国学者)
「浪の上を こぎ行く舟の 跡もなき 人を見ぬめの うらぞ悲しき」[加賀翁家集](加賀真淵・国学者)
江戸時代の俳諧より
「いわし曳く 網をはじめて 敏馬かな」(呉春)
近代の和歌より
「涛(なみ)ならぬ 自動車の爆音 背にして 敏馬神社の 石階をのぼる」(冨田砕花・詩人)
歌碑の看板がないその他のもの
「島傳ひ 敏馬の埼に 漕ぎみれば 大和恋しく 鶴さわに鳴く」(若宮年魚麻呂)
「稀にだに みぬめの浦の あま小舟 いかなる風に よるべきさだむ」(権大僧有果・鎌倉時代)
「うき人を みぬめの浦の あだ波は さのみかけても なに思ふらん」(大江忠成女・鎌倉時代)
「絶えてなと 敏馬の浦に うきみるの かひなき名さへ よる方もなし」(九条道家・鎌倉時代)
「十寸鏡 みぬめの浦の 名もしらず たがおもかげに かけてこふらむ」(親季朝臣・鎌倉時代)
「広澤は いかに敏馬の 月清し」(吉分大魯)
「名はみぬる 月はみるめの 浦の景」(福原鬢鏡)
「八重霞 涼し敏馬の 宮柱」(赤坂桃葉)