旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

転法輪寺(垂水区最古の寺)

2014-06-28 13:30:33 | 神戸市垂水区
2014年6月26日、お参りしました。
山号を龍華山といい、高野山真言宗の古刹で区内最古の寺です。平城天皇が即位の後、御病気になり、大同元年(806年)に在原行平が平癒を祈願して建てた勅願寺であるという寺伝があります。創建時には東垂水の高台にあったのが、ここに移されたようです。江戸時代の絵図には三重塔や僧坊などたくさんの建物があり、寺域も広大であったようです。本堂前の収蔵庫に祀られている春日作「木造阿弥陀如来坐像」は国の重要文化財です(※非公開)。毎年、1月7日に行われている追儺式(ついなしき)も有名で、神戸市の登録無形民俗文化財となっています。
神戸市垂水区名谷町2089
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案内図

地蔵堂

阿弥陀堂

顕彰碑
「法は人に資って弘まり、物の興廃は必ず人による」

大師堂

手洗所、龍の頭

本堂







護摩堂

鐘楼



弁財天

観音堂

燈籠、文政三辰十二月の銘が刻んでいました。

庫裏
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多井畑厄神八幡宮、鏡の井、義経腰掛の松、村風村雨の墓

2014-06-28 11:49:25 | 神戸市須磨区
2014年6月26日、お参りしました。
由来書より「多井畑厄除八幡宮は、多井畑の厄神さんの愛称で親しまれ、日本最古の厄除けの霊地と伝えられています。神護景雲4年(770)6月に疫病が大流行し、それを鎮めるために五畿内(大和、山城、河内、摂津、和泉)の国境10ヶ所に疫神を祀り、疫祓いが行われました。多井畑厄除八幡宮は古山陽道の摂津と播磨国の国境に位置していたため、その一つとして疫神が祀られたと伝えられています。」
ポーランドから来られたAleksandraさんが一人でお参りしていました。日本旅行の無事をお祈りいたします。良い旅をしてください。
神戸市須磨区多井畑字宮脇1番地
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付近案内図

鳥居


参道

鳥居

境内

手水舎

拝殿







本殿





松社

稲荷社

高良社

階段を登って

厄神祭塚由緒

厄神塚

社務所

神輿庫



鏡の井
仁和3年(886)尤孝天皇のいかりにふれて配流された在原行平は多井畑に暮らしていた村長の娘たちで、本来の名は「もしほ」と「こふじ」という名で、この二人が須磨へ塩を作るために海岸へ汐汲に通っていたところ出会い、行平は二人に「松風」「村雨」と名付け愛しました。この鏡の井は、二人が姿を写した姿見の井といわれています。」
厄神八幡宮の南の手前の路地を入ったところです。
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義経腰掛の松
「壽永3年(1184)2月7日未明、源義経一行が多井厄除八幡宮で戦勝祈願したおり、この松の木の下で休息をとった後、一の谷に向かったと伝えられています。それからのち、村人はこの場所に社をつくり「ほんがん(判官)さん」の愛称で親しみと尊敬をこめておまつりしています。」
厄神八幡宮の南の路地を入ったところです。
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横に祠と塚があります。近所の方が清掃と水をあげて世話をしていました。合掌。



村風村雨の墓
在原行平死後、二人は多井畑の地で世を終えました。
墓は一石五輪塔で作られており、左は姉松風、右は妹村雨の墓と伝えられています。
寄り添うように並ぶ2つの墓の隣には、「松風・村雨二女之碑」と彫られた石碑が建てられています。
義経腰掛の松を西に右手北側に少し行くと左手にあります。
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龍谷寺

2014-06-27 16:17:46 | 明石市
2014年6月25日、お参りしました。
「臨済宗京都妙心寺派のお寺で、山号は瑞雲山です。初代明石藩主小笠原忠真が元和五年(1619年)に母を菩提寺として境内を拡大し、壮大な寺院としたようです。1945年7月の大空襲で全焼した。長く仮本堂だったのを、1991年に再建された。境内入り口左手に黒髪塚がある。江戸末期の慶応年間(1685~68)に江戸藩邸詰めの御馬廻役として仕え、剣の名手の誉が高かった中谷八十助の死をいたみ、その父の勝助が明石の国元に届けられた愛する息子のかたみの黒髪を埋めてその霊を慰めたものである。」
明石市材木町14-12
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参道

境内に入って右手に金毘羅大権現

左の狛犬がお尻を揚げてかわいいですね。





本堂







魚鼓



境内

黒髪塚
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無量光寺と蔦の細道

2014-06-27 16:08:59 | 明石市
2014年6月25日、お参りしました。
山号は月浦山、浄土宗の寺院で本尊は阿弥陀如来です。
光源氏が月見をした寺です。境内には源氏屋敷、源氏月見の松があった。
山門の手前の路地南側に「蔦の細道」の碑があります。
光源氏が"明石の上"の住む岡辺の館(西区櫨谷)へ通った道。

明石市大観町10-11
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山門



源氏稲荷



本堂



妙見宮

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善楽寺、平清盛の五輪塔

2014-06-27 15:36:45 | 明石市
2014年6月25日、お参りしました。善楽寺とは、戒光院・実相院・円珠院の総称です。
縁起書より「善楽寺は孝徳天皇の大化年中(645-649)に天竺の高僧法道仙人が開創した。天台宗の大寺院で、明石では最も古い寺である。平清盛ゆかりの地でもあり、源氏物語の舞台にもなるほど知られたところであった。寺伝によると、平安時代中期の天喜元年(1053)10月26日に住職だった源泉法師が延暦寺第31世座主になられている。短期間の座主ではあったが、当時の勢力を物語る出来事であった。しかし、元永2年(1119)には火災で堂塔は焼失した。それから30余年のちの保元元年(1156)、播磨守に任じられた平清盛は、この地を重視し、善楽寺の堂塔伽藍を再興、念持仏であった木造の地蔵尊と寺領500石を寄進した。この付近は当津と呼ばれる庄村で、海路の要衝であったためといわれている。それ以来、ここの中心寺院として栄え、平安時代末期には17カ院を持ち、寺域も北は樽屋町、東は材木町にわたる約1㎞平方という広大なものだった。このころ当寺には、清盛の弟敦盛の子 忠快法印が寺僧としており、源平合戦の最中である養和元年(1181)になくなった清盛の供養のため、巨大な五輪塔を建てた。戦国時代の天文8年(1539)には再び戦乱のなかで本堂などを焼失、文禄2年(1593)に再建している。江戸時代には明石藩主から黒印を与えられ、数々の寄進を受けた。淡路島を前に美しい寺であったのであろう境内の美しい松にも「光源氏明石浦之浜之松」の名がつけられた。このため、全国から文人墨客が訪れ、多くの書画を残したという。昭和20年7月7日、三たびすべてを焼いた。本堂、仏像、寺宝など灰燼に帰した。同53年12月、昭和の再建がはじまり、まず十王門が復活、同63年3月30日、四度目の復興を成し遂げた。現在も明石有数の寺院として訪れる人が絶えない。」
明石市大観町11-8
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山門

縁起書

境内





六地蔵

天邪鬼



圓珠院
本堂

宮本武蔵作庭の庭園
「宮本武蔵は、1618(元和4)年明石藩主小笠原忠真の客分として明石に迎えられ、同年、明石城の築城が始まると、明石城下の町割を担当するとともに、作庭にもその才を発揮し、明石城の樹木屋敷やこの圓珠院の庭園の作庭に当たったと伝えられています。本堂の前方に位置する枯池枯山水庭園です。全体的に見て、小規模ではあるが、石組を中心として立面構成を重視し、視点による庭景の変化と遠近感を取入れ、水墨画を思わせるような造りとなっています。浅い枯池を穿ち切石橋が架け、軽い築山を東西2か所に築く。また築山にはそれぞれ大小2つの枯滝を大滝・小滝として組み変化をもたらしている。池泉は瓢箪型で、降雨の時のみ水が溜まる枯池である。」

戒光院本堂





宝篋印塔、明石入道の碑

牧場の朝の歌碑

「平清盛の五輪塔」(明石市指定文化財)
高さ3.36m、花崗岩製で鎌倉時代の作です。

實相院
山門

鐘楼堂

境内にて



大黒天堂






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正徳寺

2014-06-27 11:45:24 | 明石市
2014年6月25日、お参りしました。
浄土真宗本願寺派、山号は縁光山です。
縁起書より「寺伝によると、当山は室町幕府が滅亡した天正元年(1573年)、に創建されたとある。開基空圓法師については、二階堂出羽守入道三代の嫡流であったとも伝えられている。宮本武蔵が町割りをしたとされる明石城下の町屋の中心に堂宇を構え、寛永18年(1641年)に焼失するも後に再建。創建以来、江戸時代以前から平成年間を通じ約450年に亘り営々と念仏弘宣の場としてこの明石の街にその歴史を刻んでいる。」
明石市大観町12-5
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伊弉冊神社(いざなみじんじゃ)

2014-06-27 11:21:09 | 明石市
2014年6月25日、お参りしました。
「旧県社の当社は、伊弉冊大明神とも伊佐奈伎さんとも呼ばれ、平安時代に成立した延喜式の中の神名帳に記載された明石郡九座の中の一社で、伝承によると紀元前92(崇神天皇6)年に現在の地に勧請して以来、近郷六か村の産土神として祀られててきたという。祭神の伊弉冊尊は、伊弉諾尊とともに、『古事記』『日本書紀』の中に出て来る国土創造神で、この二柱の神は最初に夫婦となった男女二神である。天照大神以下の多くの神々を誕生させ、最後に火の神を生んだが、女神の伊弉冉尊はその火のために火傷して亡くなった。夫の伊弉諾尊は、妻を追って地下の黄泉の国を訪ねたと記紀は伝えている。奈良時代の終わりに、771(宝亀2)年、境内の四町四方が放免地として寄進され、大規模な社殿が造営された。1578(天正6)年にはじまった羽柴秀吉の中国征伐の最中、三木城攻防戦の時兵火にあい、社殿・旧記その他ことごとく焼失したという。現在の社殿は1962年に再建された。すぐ西に伊弉諾神社がある。旧村社で小さな神社で、由緒ははっきりわからないが、天正年間(1573
~92)の勧請といわれている。善楽寺の境内にあり、ご神体は金色地蔵尊だった。平清盛がたびたび詣でたという。ここも戦火で焼けた。」
明石市岬町19-8
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注連縄

燈籠

手水舎

拝殿

本殿

三本松



福徳三宝荒神社






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岩屋神社

2014-06-27 10:55:55 | 明石市
2014年6月25日、お参りしました。
縁起書より「成務天皇13年(143年)6月15日勅命により、淡路島岩屋より御遷になり東播の古大社として古くより崇敬篤く、江戸時代に入ると明石城主の産土神として尊ばれ、例年藩主自らが参拝。社領12石5斗を賜わる。元文2年(1737年)には藩主松平直常の世継、松平直純が11歳になり「鎧始めの儀」の際に当社に参拝。以後、世継の鎧始めの儀の際には当社への参拝が慣例となる。明治7年2月郷社に列し、同12年7月に県社に昇格。亦当社は式内伊和都比賣神社に比定され(『神名帳私考』『神名帳考證』『神社覈録』『金波斜陽』による)社殿は、明石海峡をへて淡路島に對し、社の東の明石港には淡路との連絡船が発着する。当社の北方約300メートルを西国街道が東西に通ずる 当社付近は古くから大明石村と称し、(慶長播磨國繪圖)市名の起源となった。」
「明石浦のおしゃかた船」は、明石浦の前浜の六人衆が淡路の岩屋に鎮座する神をこの地にお迎えし、海難防止と豊漁を祈った。夏祭りの神事として、旧暦6月15日に行われている。」明石市の無形民俗文化財に指定されています。
明石市材木町8-10
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注連縄

手水舎

拝殿



本殿



縁起書

稲荷社と八幡社

狛犬



燈籠



末社



歌碑
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鰐口、明石港旧灯台

2014-06-27 10:38:48 | 明石市
2014年6月25日
鰐口
説明書より「延宝5年(1677)、中西総兵衛が僧閑全のときに某大明神へ寄進したものです。蓮の葉と花の文様が美術的に優秀です。」
よく判りませんでした。
本町交番の北側の筋、角にあります。
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明石港旧灯台
説明書より『明石灯台は、1657年(明暦3)に明石藩主・松平忠国によって、舟人の目標とする灯明台として造られたといわれています。明治以前の「航路標識年表」(1968年 第五管区海上保安本部刊)によれば、近畿で四番目に造られた灯台になります。その当時は、江戸へ荷物を運ぶ菱垣廻船が活躍しはじめ、明石港も瀬戸内海の物資の交易のため、潮流の速い潮まち港として、また淡路への連絡港として重要な位置を占めるようになってきた頃です。大正時代の写真には、港口を行き交う帆船とともに、木製の燈籠部が写っており、昔の姿がしのばれます。昭和7年に改修が行われ灯台となりました。』
港町南西角にあります。
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港の風景、遠方に明石海峡大橋が見えます。



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浜光明寺

2014-06-27 09:21:22 | 明石市
2014年6月25日、お参りしました。
城主・小笠原忠政が現在地に移建した。明治天皇山陽道巡行の時、行在所になりました。
明石市鍛治屋町5-20
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山門
瓦が落ちるのでの立て札とロープが貼られていました。

港の近くの為、水難の供養でしょうか。

本堂

本堂の屋根の樋からの雨水を貯める鉢を下から右は片手で、左は両手で支えています。かわいらしいですね。

鐘楼堂

鐘楼(明石市指定文化財)
説明書より「享保14年(1729)7月15日鋳造された。袈裟状の和鐘で、胴には四天王像四躯・鳳凰・獅子を浮き彫りで表した江戸時代の和鐘中の傑作である。銘の撰文に京都浄土宗大本山知恩院第44世西音大僧正、冶工に藤原国次とある。慶長以降の和鐘では数少ないものの一つである。」

燈籠

境内にて




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