旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

伊和神社

2023-03-25 18:53:12 | 西播磨
2023年3月23日、お参りしました。
由緒書より「当神社は第13代成務天皇甲申歳(144年)の創祀と伝えられ、延喜の制では名神大社に列し、播磨国の一の宮で、旧国幣中社の御社格であります。御祭神は大己貴神と申し(又の御名を大名持御魂神・大国主命とも申し又伊和大神とも申し上げる)、国土を開発し産業を勧めて生活の道を開き、或は薬業の法を定めて治病の術を教えるなどして、専ら人々の幸福と世の平和を図り給うた神であります。大神が播磨国に特別の御恩恵をもって播磨国中を御巡歴になって国造りの事業をされたことは播磨風土記に記載の通りであります。その御神徳を仰いで、播磨国開発の祖神、総氏神と崇め、古来、農業・工業・商業等の産業の神、縁結びの神、福の神、病気平癒の神として又御社地が因幡街道(現在の国道29号線)のほぼ中央にあたる交通の要衝にあたる旅行者の守護神、交通安全の神として播磨国はもとより遠近の人々の崇敬篤き神様であります。約5万7千平方メートルに及ぶ境内には杉・檜等の大樹が繁茂し自ら襟を正す神神しさを保っております。御社殿は一の宮にふさわしい入母屋造の豪壮雄偉な建築であります。」
兵庫県宍粟市一宮町須行名407
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由緒書

鳥居





随神門

手水舎





社務所



狛犬



拝殿



本殿

神殿殿

大杉

神饌所

末社









鶴石





絵馬殿





道の駅播磨いちのみや


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庭田神社

2023-03-25 18:10:24 | 西播磨
2023年3月23日、お参りしました。
由緒書より「当神社の創立は、皇紀131年13代成務天皇の御代甲申2月11日、神託により社殿を建て崇敬されるとあり、当時に溯ると25百余年前となり、先人達が前記の如く史実に残る行動した遺跡として大切に保存顕彰して行かねばなりません。古伝によると大国主命が天乃日槍命と国土経営を争い給いし時伊和の地に於いて最後の交渉を終られ大事業達成に力を合わせられた諸神々を招集えて酒を醸し山河の清庭の地を撰び慰労のため饗宴を為し給えり。この地が即ち庭酒の里現在の庭田神社奉祀の霊地なるにより社殿を造営その御魂を鎮祭れりと云う然るに当社安永縁起に成務天皇の御代に神託に依り新たに神殿を建て広く崇敬せられる延喜式の制小社に列し江戸時代寛文11年社殿改造、元禄15年本殿屋根替、享保8年本殿屋根替、元文3年拝殿屋根替、明治4年本殿棟上再建、昭和43年5月幣殿改築、昭和49年10月拝殿改築。」
日本酒発祥のぬくゐの泉「古伝『播磨国風土記』に出雲の国の大国主大神が国造りの大業をなされ、伊和の地で最後の交渉を終えられた時、『オワ(終)』と告げ給いて草原の景色麗しい清水湧き出るぬくゐの水辺を選ばれ、大業に係わられた諸神を招集いて祖霊祭と併せて持成の宴を成し給えりと云う。其の時持参された干飯をぬくゐの水で戻した時に一部の飯にカビが生え、酒成分が生じて酒の発見となったことが文献に見られます。後に云う庭酒(俄酒)である現在の米飯を材料にして造った日本酒であります。」
兵庫県宍粟市一宮町能倉1286
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鳥居

由緒書

ケヤキ(兵庫県指定文化財・天然記念物)



手水舎

随神門





絵馬殿



狛犬



拝殿



本殿



末社


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赤穗市尾崎の散策

2020-12-11 18:37:09 | 西播磨
2020年12月10日、赤穗温泉の旅館祥吉に宿泊し、帰路で赤穗市尾崎を散策です。
まずは、赤穗八幡宮です。
「赤穂八幡宮は赤穂の氏神さまとして、室町時代の1406年(応永13年)に、現在の鎮座地に赤穂市の西(銭戸島)から 応神天皇(八幡大神)が遷座されました。室町時代は播磨国守護赤松家の庇護のもと維持され、江戸時代は赤穂藩主池田家、浅野家、森家の信仰のもと発展しました。明治維新に神仏分離がなされ八幡神社と呼ばれましたが、昭和27年以降は江戸時代の社名である八幡宮へ戻し、現在に至っています。」
赤穂市尾崎203番地
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社標

鳥居

太鼓橋



狛犬



手水舎

社務所



拝殿







長堂の絵馬













本殿





末社三光神社





八幡宮の東の小路を時計回りに散策します。

如来寺
「天台宗の寺院で、1605年(慶長10年)開創、開基は源清上人、本尊は阿弥陀如来。尾崎赤穂八幡宮別当神宮寺として、歴代の藩主大名及び地方の信者の参詣が多かったと伝えられ、明治維新になり神仏分離によって行基作と伝えられる阿弥陀如来を安置して1870年(明治3年)に如来寺と改め現在に至ります。本堂には阿弥陀三尊を、薬師堂には薬師如来が安置されています。」
兵庫県赤穂市尾崎829













塩釜神社
「赤穗八幡宮の摂社、塩釜神社、金毘羅神社、天神社の三社が1918年(大正7年)に合祀された。」









普門寺
「聖徳太子によって開かれ、慈覚大師により創建されました。もともとは、天台宗長安寺と共に、赤穂城下の東北に位置する雄鷹台山に建立されていました。」
兵庫県赤穗市尾崎825−2







































太地堂

宝崎神社(ノット)
「境内には古代神功皇后が船を着けたといわれるノット岩があり、八幡宮の神幸式ではこのノット岩まで渡御を行います。『ノット』とは『祝詞(のりと)を奏上する所』からその呼び方になったといわれています。宝崎神社には他に水神社と稲荷神社があります。」
赤穂市尾崎618番地
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宝専寺
説明書より「昔の宝専寺は真言密教の霊場として尾崎地区の北東の山の上にありましたが、戦国時代の1536年に浄土真宗のお寺として、現在の場所に移されました。その後、江戸時代に、本願寺から特別に一寺二住職の免許を得て、東院と西院の二人の住職がいる全国でも珍しいお寺になりました。当寺院で江戸時代中期に始まった正月の『めでたい舞い』恵比寿大黒舞は兵庫県無形文化財に指定されています。」
赤穂市尾崎595


























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赤穗市御崎周辺散策

2020-12-11 17:41:22 | 西播磨
2020年12月10日、赤穗温泉の祥吉に宿泊し、翌朝の散歩で周辺を散策しました。
旅館を出て、海沿いに北向いて歩きます。
赤穗だんつう工房の毯なか

お堂

赤穗温泉の看板



周遊バス乗り場

田渕記念館

塩味饅頭三島屋本店

レトロな家

正福寺(赤穗義士史蹟)
兵庫県赤穂市御崎478
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「補陀山と号し、浅野家の菩提寺である台雲山花岳寺の開山秀巌龍田大和尚の退隠された曹洞宗の寺院です。はじめは、城下の加里屋にあったとされており、後に御崎の現在地に移された。1701年(元禄14年)3月、浅野内匠頭の殿中刃傷の変が赤穗に伝わるや当時三世良雪和尚は大石良雄を檄するに『君辱死臣』の名言を与え、元禄の快挙として世に伝わる討ち入りを果たさせた。また大石良雄と良雪和尚が共に囲碁を愛したことは『二良の対局』の寺として世に有名です。寺には、この対局の碁盤や、仇討ち前日にしたためられた大石良雄の暇乞状、また、母への大高源五の暇乞状をはじめ、小野寺十内・原惣右衛門・赤埴源蔵ほか数々の義士書状が残っており、大石良雄が描いた両親の画像も保存されている。」





思誠小学校発祥の地
「1872年(明治5年)の学制公布を受けて、1873年3月20日に正福寺を仮校舎として新浜村(現在の御崎)に初めて小学校となる思誠小学校を発足した。」

法雲寺
「日蓮宗の寺院で山号を啓昌山と号す。」



猫さんに会いました。



光徳寺、真宗大谷派の寺院









廣度寺、浄土宗の寺院で常光山と号す。
廣度寺の本堂は、大石内蔵助が、開城の際に移り住んだ尾崎の「おせど」から通って残務処理をした、赤穂城下の「遠林寺」本堂が移築された。
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旅館に戻ります。

港にはレジャーボートがたくさん繋留されています。

仕出しの梅田商店

赤穗海浜公園の観覧車




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綾部山梅林

2019-03-02 20:50:33 | 西播磨
2019年3月2日、綾部山梅林に行きました。
綾部山梅林は兵庫県の西播磨の南西部にあります。24ヘクタールの広大な梅林で、一目2万本と言われる、海が見える梅林としては西日本一といわれています。入園料500円です。
兵庫県たつの市御津町黒崎1492
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甘酒サービス
































































































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龍野の町並みその2、龍野城・如来寺・うすくち龍野醤油資料館・圓覚寺・圓光寺・粒坐天照神社

2016-11-19 21:24:11 | 西播磨
2016年11月18日に行きました。たつの市は、兵庫県の南西部で姫路の少し位置します。西播磨の小京都と言われ、鶏籠山の麓、揖保川が流れる町です。江戸時代には脇坂家5万3千石の城下町として賑い、醤油、素麵などの名産で知られています。
龍野神社・野見宿禰神社・聚遠亭・龍野城に続いてさらに時計周りに進みます。
三木露風生家



うすくち龍野醤油資料館別館















如来寺
「西山浄土宗、本尊は阿弥陀如来。由来は、寺伝によると延文元年(1356)神岡郷大住寺に創建された喜多野氏菩提寺大義寺が、嘉吉の乱(1441年)の後、山名軍の兵火で焼失した際本尊は炎の中より助け出され近くの皿池に鎮められ難を逃れた。後になって仏像を池から掘り上げ賢正上人に託し、天文2年(1533)内山城主塩津新左衛門などによって龍野の地に如来寺を開いたと言われている。」

山門
「享保15年(1730)建立、四脚門」











東門

本堂
「寛文6年(1666)再建」









開山堂

地蔵堂





庫裏玄関



十王堂

鐘楼堂





町並み





うすくち龍野醤油資料館(登録有形文化財)
「龍野醤油醸造の始まりは、天正15年(1587)と伝えられています。昭和初期まで蔵人が使っていたこうじむろ、桶、樽などの製造用具、文献、資料が一堂にそろえてあり、醤油造りの今昔を見ることが出来ます。





































小林家土蔵(龍野市指定文化財)

























































圓覚寺





























町並み



圓光寺
「宮本武蔵は、慶長年間の一時期、龍野御坊圓光寺に滞在し、境内の道場で圓明流の師範をして剣術指導をしたと伝えられています。住職の多田半三郎は武蔵から圓明流を学び印可状を授かっています。」



































龍野城下町絵図

町並み

















粒坐天照(いいぼにあまてらす)神社
「延喜式に揖保郡七座の一つと記載され、宍粟郡一宮町の伊和神社、垂水の海神社とともら播磨三大社の一つです。神社縁起によると、推古天皇2年(594)、当地の有力者が神託を受け、的場山(通称・台山)の頂に祠を建て、農業の守護神天照国照彦火明命を祀ったのが始まりです。その時、一粒の稲の種と水田を授かり、これを耕作したところ大豊作となり、一粒万倍したという。以降この土地はイイボ(粒、揖保、飯穂)の郡と呼ばれる穀倉地帯となりました。室町時代の嘉吉の乱(1441)の兵火で社殿は焼失、揖西町小神に遷座しました。天正9年(1581)、龍野城主となった蜂須賀小六正勝が、日山(当時は樋山村と呼んだ)の現在地に遷座、続いて城主となった福島正則が社殿を造営しました。寛文12年(1672)に信州から城主として着任した脇坂家の藩主も尊崇厚く、神域が拡大され、数多くの境内末社を勧請合祀しました。」

































































お疲れ様でした。
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龍野の町並みその1、龍野神社・野見宿禰神社・聚遠亭・龍野城

2016-11-19 21:21:24 | 西播磨
2016年11月18日に行きました。たつの市は、兵庫県の南西部で姫路の少し位置します。西播磨の小京都と言われ、鶏籠山の麓、揖保川が流れる町です。江戸時代には脇坂家5万3千石の城下町として賑い、醤油、素麵などの名産で知られています。今も茉筋町並みが残り、下川原商店街を中心に、江戸時代から昭和初期までの町家が数多く見られます。武家屋敷、寺院、神社、城などを散策できます。18日から20まで「第14回オータムフェスティバルin龍野」のイベントが行われており、各店舗やガレージセールのような店舗を含め、150店舗が出店して町あげての取り組みがされていました。観光客や近隣の方をふくめ、多くの人々で通りも結構の人出でにぎわっていました。揖保川沿の観光用駐車場が満車だったので、市民グランドの駐車場に行きました。そこから時計周りに町を散策し、途中のお店で醤油をお土産に買いました。最初にJR本竜野駅にある観光協会でパンフレットを入手しました。
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観光マップ

赤とんぼ歌碑
『龍野で生まれ龍野で育った三木露風が、大正10年33才のとき、北海道トラピスト修道院より「樫の実」で発表しました。ふるさとの思いでと幼き日の母の思い出を歌ったものと思われます。きた、歌碑五線譜は作曲者山田耕作の絶筆です。』



三木露風立像

龍野公園から文学の小径を進みます。
「赤とんぼ歌碑から聚遠亭に通じる桜道を文学の小径といいます。春は桜の名所で一目三千本の桜が壮観です。」



歌碑



龍野城の櫓が見えます。







龍野神社
「祭神は脇坂家の始祖、甚内安治です。安治は賎ケ嶽七本槍の一人に数えられ、社宝の貉の皮製槍ざやは甚内が丹波の鬼といわれる赤井氏を攻めたときの功によって譲られた物です。」
説明書

石の階段の参道です。



ムクロジ(兵庫県郷土記念物)
「県内有数のムクロジの大木です。」

歌碑

参道の階段

粟嶋社



水天宮



鳥居

神門



手水舎

拝殿





本殿



城山八幡宮
鳥居

拝殿

本殿

野見宿禰(のみのすくね)神社
説明書
「角力の元祖で有名な野見宿禰が故郷の出雲へ帰ろうと龍野まで来たときに病死しました。この墓として川原からリレー式に人々が石を運んだのです。当時は一面が野原で「野に立つ人「立野」といい、いつしか「龍野」となったそうです。この野見宿禰神社には、大相撲の黄金時代を築いた有名力士たちがたくさん参拝しています。横綱、千代ノ山、吉葉山、若乃花、栃錦、大鵬、柏戸、佐田山、朝潮、栃ノ海など地方巡業で龍野を訪れた力士たちが角道隆盛を祈願しています。神社には、明治から大正にかけて日本の相撲ファンをわかした、八十四名の力士や行司が寄進した玉垣があります。」
野見宿禰
『第11代垂仁天皇のとき、天下の力持ちを猛語する大和国(奈良県)の当麻蹴速と、出雲国(島根県)の野見宿禰が、天皇の御前で「力くらべ」をして、蹴速を負かし、天皇より恩賞として領地を与えられ、宿禰は朝廷に仕えました。(これが相撲の始まりと言われています。) 宿禰が朝廷に仕えていたとき、天皇のおきさき日葉酢姫命がが亡くなりました。当時は高貴な人が亡くなると、お側近くに仕える者は、すべて後を追って殉死する習わしでした。主君を守りお供えするということで、主君とともに墓に埋められることになっていました。このような風習に天皇は深く心を痛められていたとき、宿禰は「妙案があります」と、申し出て、出雲よりたくさんの土器を作る人を呼び寄せ土で人形や馬、埴輪を作らせ、生きた人たちに代えて陵墓のなかに埋めることを提案しました。天皇はたいそう喜ばれ殉死をすることを禁じ、この方法を取り入れるよう命じられ、宿禰を朝廷の葬送の儀礼を執り行う役に任じました。』

参道、ここから階段となっているところを10分くらい登ります。



力水



鳥居

ゆるい坂道の参道



周りは山という雰囲気です。



まだ続きます。

展望台です。





かなり急な階段です。

神社です。



玉垣





神社からの眺望





聚遠亭(しゅうえんてい)
『龍野公園内にあり、老中松平定信が脇坂氏の上屋敷を訪問した際、庭園から龍野城城下町越しに淡路や瀬戸内海の島々を望める眺めの素晴らしさから当地を「聚遠の門」と呼ばれ、その一帯を「聚遠亭」と称されています。』









茶室(浮堂)
『「茶室」は、安政年間(1854~1859)龍野藩主脇坂安宅公が京都所司代の職にあって御所が炎上した際、その復興に功績があったので、孝明天皇から茶室を賜り、心字池上に浮堂として移築したものといい伝えられ、庭園、池、杉垣などと調和し、桃山時代の書院造りを模した風雅な数寄屋風の建築物です。』









楽庵
「昭和58年ヒガシマル醤油株式会社の寄贈により利休居士十五世裏千家鵬雲齋千宗室御家元の御指導と御命名を頂き完成しました。間取りは八畳、六畳の広間と四畳の鞘の間を持つ本格的な広間の茶室です。」







御涼所(別館)
「藩主脇坂家の御涼所で質素勤倹の風のなかにも雅味のある接客、居住部門などの間取りや、意匠と構造に特徴があり、また床下の抜け穴等にも当時の面影を残しています。」











































旧脇坂屋敷周辺













龍野城
『中世の赤松村秀によって築かれたと伝えられていますが、当時は、標高200m余りの鶏籠山(けいろうざん)の山頂に築かれていました。村秀は、当時、播磨、美作、備前の国主であった赤松氏の一族として揖東・揖西郡を治めていました。龍野赤松氏は4代続きますが、天正5年(1577)秀吉の軍に戦わずして城を明け渡します。その後、蜂須賀、福島など豊臣配下の大名が在城します。徳川の時代になると、播磨一国は池田氏の領地となり、龍野には城代が置かれます。その後は姫路城に本多忠政が入ると、龍野には二男政朝が配置されますが、兄忠刻の死により、姫路城主に移ります。その後も、小笠原、岡部、京極と続き、万治元年(1658)京極氏が丸亀へ移った後、一時、幕府領となり代官によって支配されました。このため、寛文12年(1672)脇坂安政が信州飯田より入部した時には城、侍屋敷も壊され「城郭の地ことごとく土人の田畑となるありさま」で、安政自身も城下の商館を居館とし、1年余りで城を再建しました。時代は既に太平の世でもあり、元々、外様大名でもあたので、幕府の嫌忌に触れることを恐れ、鶏籠山麓の御殿式の城を修復しています。』









「龍野城は明治4年(1871)の廃藩置県により龍野城の建物はすべて競売によって取り壊され、大手門から冠木門(かんぶりきもん)に至る中間に裁判所が建てられました。城内には明治末に女学校が置かれた時、新たに進入道路が新設されるなど大きく変わっています。昭和50年より5年間で城壁、多門櫓、埋門、石垣、本丸御殿、鍜坂門(しころざかもん)が再建され、後に隅櫓が建築されました。また、再建にあたっては、現在残る絵図を参考にすべて木造、土壁で建てられています。」

















龍野城主脇坂氏
『脇坂安政は寛文12年(1672)に信州飯田より龍野に入部、以来明治まで10代200年間龍野を治めました。脇坂氏初代の安治は豊臣秀吉の配下として、秀吉が信長亡き後、柴田勝家と覇権を争った合戦で賎ケ岳七本槍の一人として活躍した武将でしたが、弟堀田正俊が大老の時、外様から願請代に転じています。4代安照は忠臣蔵で名高い赤穂事件の時、赤穂城請取りの正使を務めたことで知られています。次の安晴の時、弟安利に2千石を分地したため、以降、脇坂家は5万1千石となります。10代安薫は28年間の寺社奉行と4年半の老中を務め、この間、延命院事件や出石仙石家のお家騒動、朝鮮通信使出迎えの副使などを務め、藩校「敬楽館」を造りました。次の安宅も、寺社奉行、京都所司代を経て、2度の老中を務めています。』
御殿の展示物



















































城を後にして次に進みます。
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斑鳩寺

2016-11-18 22:58:20 | 西播磨
2016年11月18日お参りしました。
説明書「聖徳太子がご開創になった霊刹である。推古天皇14年(606)秋7月、、天皇は太子に請うて、勝鬘経を講ぜしめられた。そこで太子は豊浦宮でこれを講ぜられることを三日で終わった。その夜仏天が感応し給いて、蓮華の花が講演の地に降りしいたと伝えられる。この年又太子は法華経を岡本宮で講ぜられた。天皇はその妙味を叡感され、播磨国揖保の郡に於いて、水田百町を太子に賜った。よって太子はこの地を鵤荘と名づけられ、一つの伽藍を営ませられた。これが仍ち当寺である。往古には七堂伽藍、数十の坊院がいらかを並べ、真に華麗を極めていたが、天文10年(1541)尼子政久氏の播磨侵入後の混乱の中惜しくも堂塔尽く焼失した。その後楽々山円勝寺の昌仙法師により漸次再建されたのである。当寺は太子ご創建から一千年間は大和法隆寺の末寺的存在であったが、火災再建後天台宗となる。」

兵庫県揖保郡太子町鵤709
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徳川初期の境内図

仁王門











南門





手水舎



聖徳殿前殿(兵庫県指定文化財)
「桁行五間、梁間五間、単層、入母屋造、向拝一間、本瓦葺。聖徳殿前殿は、もと聖徳太子像を祀っていた太子堂である。本来五間四方で、内部中央三間四方を内陣とする。斑鳩寺で最も重要な建造物で嘉暦4年(1329)の「鵤荘絵図」に描かれており、永正16年(1519)に政所僧が寺の門を閉め、太子堂に立てこもり、赤松氏の軍勢が鵤荘へ入るのを阻止したとの記録がある。なお、太子堂は天文10年(1541)に焼失し、同20年(1551)復興され、その後、寛文5年(1665)再建されている。明治43年から大正3年にかけて西側に中殿と八角堂を増築して太像を祀っている。」



















中殿(登録有形文化財)
「中殿は前殿と後殿を繋ぐ両下造の本瓦葺。梁間4間の身舎が二重折上格天井の内陣で,両側面の裳階は廊下とする。両妻の柱は前殿と後殿の柱を兼用し,内部空間は実質桁行5間規模となる。伊藤平左衛門設計の近代仏堂である。」



八角堂(登録有形文化財)
「3層の屋根を重ねた八角円堂の外観で,中殿取合い部の南北に入母屋造翼部を突出。上層は三手先に扇垂木,中間の庇は平三斗に疎垂木,下層は出組に繁垂木と変化を付ける。内部は中殿に面して唐破風を飾り,中央に厨子を納める。伊藤平左衛門設計の近代仏堂。」





太子堂

























弥勒堂



三重塔(重要文化財)
「永禄8年(1565)赤松正秀により再建。全高25m。」

















鐘楼(兵庫県指定文化財)
「桁行三間、梁間ニ間、袴腰付き、入母屋造、本瓦葺。元禄6年(1693)再建。」









東門









山王社








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御津町室津の町並み、見性禅寺、賀茂神社

2015-11-17 22:05:52 | 西播磨
2015年11月16日、散策しました。
瀬戸内海に面したたつの市御津町室津は、1300年の歴史をもつ港町です。奈良時代の僧行基によって摂幡五泊のひとつに定められ、江戸時代は西国の大名たちの参勤交代の中継港であり宿駅としてにぎわっていました。最盛期には大名が宿泊する六軒の本陣をはじめ旅籠、商店などが軒を連ね、「室津千軒」とも呼ばれていました。司馬遼太郎や西鶴、谷崎潤一郎なども触れています。ここのお店で牡蠣を土産に買いました。
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観光用の無料駐車場に自動車を止めて、室津の町並みを散策しながら賀茂神社にお参りしました。
案内図

ここのお店で牡蠣を土産に買いました。







金比羅宮





















見性禅寺













本陣 肥後屋跡







姫路藩 御茶屋跡











賀茂神社
「祭神は、賀茂別雷神です。その歴史は古く平安時代へとさかのぼります。 1180年 平清盛が厳島詣での際にこの神社へ立ち寄り、海上祈願をしたと言われています。本殿を含めて8棟の建造物が国の重要文化財に指定されています。」
兵庫県たつの市御津町室津74
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参道









ソテツ(野生のものでは日本列島の北限として県指定文化財)



神門























唐門(重要文化財)
































































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坂越のまち並み

2015-11-17 22:00:51 | 西播磨
2015年11月16日、散策しました。JR赤穂線坂越駅から東北のまち並みです。広場の無料駐車場に自動車を止めました。
坂越は、千種川と坂越浦とをつなぐ「大道」を主軸に展開しています。
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細い路地です。

旧坂越浦会所
「観海楼」と呼ばれる赤穂藩士が休憩に使った部屋も残っています。



大道を歩いてみます。





























妙道寺











































坂越まち並み館

旧奥藤銀行の建物を活用しています。

散策マップ





消防車庫



地蔵堂(赤穂市指定文化財)











とうろん台







秦河勝ゆかりの地坂越の説明書

大避神社
「祭神は秦河勝・天照皇大神・春日大神です。神社の創立時期は明らかではありませんが、播磨国総社縁起によると養和元年(1182年)に祭神中太神24座に列せられ、当時すでに有力な神社であったといいます。現在の本殿は明和6年(1769年)、拝殿と神門は延享3年(1746年)に再建されたものです。拝殿両脇の絵馬堂には40余りの絵馬が揚げられており、中でも享保7年(1722年)の船絵馬は最も古い船絵馬として貴重なものです。」
参道





神門
























































































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