2018年12月26日、大阪市平野区を散策しました。
「平野は大阪市のなかで、最も歴史のある町並みが残ります。戦国時代には町の周囲に環濠を巡らせ、町民たちの自治で平野郷を運営した。江戸時代の平野郷は、およそ元禄7年(1694)を境にして前期は幕府領、後期は大名領であった。とくに正徳3年(1713)下総国古河藩主、本多忠良に給与されて以来、明治2年の版籍奉還までの156年間は、松平候、土井候と大名は代わったが古河藩付所領であった。幸運にも戦火を免れた平野には、100年以上を経た町家や社寺が路地に佇む。また、町全体を博物館に、という住民の発想で、町の随所に手作りの博物館を立ち上げている。」
JR平野駅を下車し、南口を出てすぐの道、線路沿いに東に向かいます。
平野環濠跡
杭全(くまた)神社
「平安時代初めの貞観4年(862)、坂上広野麻呂の子当道が、第一殿に素戔嗚尊を氏神として祀ったのが起源である。その後、第三殿に熊野信仰が流行して、建久元年(1190)に熊野権現を勧請した。さらに、第二殿に元享元年(1321)後醍醐天皇の勅命により、熊野三所権現を祀った。明治時代初期の神仏分離令で、寺院関係のものは長寶寺へ移され、明治3年(1870)、杭全神社と改称された。宝永5年(1708)再建された連歌所は、全国で唯一ここに残っている。」
大阪市平野区平野宮町2-1-67
map
石鳥居
境内案内図
鳥居
参道
大門
社務所
手水舎
拝殿
狛犬
絵馬掛け
第一本殿(重要文化財)
「江戸中期の元禄3年(1690)建立、一間社春日造、檜皮葺。三殿並立する本殿のうち、向って左端が第一殿である。式年造替で取壊された春日大社本社本殿(第三殿)を移したもので、後世の改修はほとんどなく、よく旧規を保っている。現存する春日大社旧殿のうち、由緒が明らかで、かつ年代の古いものの一つ。」
第二本殿(重要文化財)
「室町後期の永正10年(1513)建立、三間社流造、檜皮葺。」
第三本殿(重要文化財)
「室町後期の永正10年(1513)建立、三間社流造、檜皮葺。」
神輿庫
田村社
恵比須社
鎮守社
稲荷社
保存樹のくすのきと拝殿
十柱社
古札納所
西門
巨楠(大阪府指定天然記念物)、樹齢千年、樹高30m、周囲10m
忠魂碑
筆塚
宇賀神社
古河藩陣屋跡(平野小学校正門にある)
「平野郷の陣屋は天明年間(1781~89)土井候の下総国古河藩時代に置かれ、明治2年の版籍奉還後、陣屋は廃止跡に郷役場、警察署、小学校が出来た。平野郷は大阪市に編入、奈良街道拡張後、平野小学校のみ此処に現存しています。」
馬場口地蔵
「平野郷は、現在の平野宮町・平野本町・平野上町・西脇流町・平野市町にあたり、大坂の陣(1614~15年)で焼失した後、徳川家康の命により、2重の濠で囲み、碁盤目状に区画された。江戸時代、野堂・流・市・背戸口・西脇・泥堂・馬場の本郷7町に惣門という13の出入口があり、木戸と地蔵堂・遠見櫓などが設けられた。平野から外に出るときは、地蔵様のご加護を、外から入る時は凶事の退散を祈った。」
馬場門筋
大念仏寺
「大源山諸仏護念院大念仏寺と号し、俗に亀鉦寺とも称する。融通念仏宗の総本山である。当寺のはじめは、坂上氏の菩提所修楽寺の別院であったが、大治2年(1127)開祖聖応大師(良忍上人)が鳥羽上皇の勅願によって新しく一寺を建立されたものである。
第七世法明上人は大いに寺門を興したが、千早赤坂の戦・大坂の陣等の兵火に遭い堂宇・什宝等を失った。その後第三十六世道和上人がこれを再興し、第四十三世舜空上人は願を発して寛文7年(1667)方二十間の大堂を建立した。
さらに、元禄年間地元徳田家より第四十六世大通上人が出るに及んで、諸堂を建立し什宝を整備し、一山の法儀用具を完備し輪奐の美を極めるに至った。
しかし、明治31年出火し、大堂以下多数の堂宇を失い、現在の大堂は昭和13年第五十九世戒全大僧正のときに竣工したものである。」
境内案内図
山門(大阪市有形文化財)
「宝永3年(1706)、第四十六世法主大通上人の建立による。棟行二間、梁行9尺、両脇に七尺の壁落ち屋根を付けている。「大源山」の扁額は、後西天皇の皇女で京都宝鏡寺の本覚院の宮徳厳尼の真筆である。大通上人はこの門を融通無碍門と命名し、人種、年齢、性別、職業の違いを越えて、お互いが一つ心で融け合い、喜びと感謝があふれる仏国土を築きあげていくという融通念仏の功徳を称揚した。
石碑
手水舎
本堂(登録文化財)
「昭和13年に竣工した総欅造り銅板葺きで、棟行39.1メートル、梁行49.8メートルの大阪府下最大の木造建築である。」
マニ車
毘沙門堂
「東側に四間四面、西側に棟行五間、梁行三間の二つの堂を合わせ持つ建物で、天治2年(1125)、元祖聖應大師(良忍上人)の創建と伝える。現在の堂は寛政11年(1799)、第四十九世堯海上人の再建である。中央厨子の本尊毘沙門天は行基菩薩作と伝えるが不祥。両足で邪鬼を踏み、右手に戟、左手に巻子を持つ躍動感あふれる等身大の木造である。毘沙門天は仏法守護の四天王の一つで、多聞天とも称する。良忍上人は永久5年(1117)、阿弥陀仏から、人々が口に念仏を称えることにより、その念仏が相互に融け合い、現世に智慧輝き幸あふれる仏国土が現出するという融通念仏の教えを授与されてのち、洛北鞍馬寺の多聞天王の冥助によって、宮中をはじめ広く諸国にこの念仏を勧めて歩かれた。」
梁松院
西門
「この門は現在の平野小学校所在地にあった、古河藩の陣屋門で、明治の廃藩後平野小学校の表門として昭和2年まで使用されていたが、小学校舎新築拡張にともない、保存の要望があって、昭和37年1月、ここに移築された。平野郷の藩政時代を示す唯一の遺構であり、その門扉は樟の一枚板である。
白雲閣
客殿
延喜殿
経蔵
「元禄年間(1688~1703)、第四十六世大通上人の創建。三間半四面の中心に経箱を置き、回転させる構造となっている。これは転法輪を意味し、経の功徳が普く行きわたることを願ったものである。」
地蔵堂
「弘化元年(1844)、第五十二世教彌上人再建。本尊は蓮台に乗る等身大の木造である。幕末の頃、八尾を中心に河内地区において熱心な布教活動をした榮山上人の作である。榮山上人は融通念仏勧進聖として有名であるが、帰信者1万人ごとに地蔵菩薩を建立した。弘化2年(1845)十月、五万人勧進回向を大念仏寺で執行したときの地蔵菩薩で、錫杖を持つ掌は正面に向け、宝珠を持つ左手は中指だけがまっすぐに伸びている。これは石造の地蔵や墨書した地蔵象でも同じで、榮山作の特徴である。」
観音堂
「元禄6年(1693)、第四十六世再興大通上人の創建。二間四方で前面に一間、後方に二間の庇を付けている。本尊は木造聖観音立像で、像高五尺五寸あり、伝教大師作と伝え、優雅な表情をたたえている。堂の両袖に、左棟行五間、梁行二間、右棟行四間、梁行二間の霊牌安置所を設けている。」
銅燈籠
納骨堂
鐘楼
銅鐘
くすのき 保存樹、高さ18.9m、幹回り6.8m
龍王殿
霊明殿
「正門、廻廊、奉安所、修法堂から成る。創建は保元元年(1156)、第三世明應上人のときと伝える。良忍上人の念仏勧進を助け、自らも融通念仏に深く帰依された鳥羽上皇の霊牌と御真影を祀るために建てられた。その後、寛永年間(1624~1643)、第三十八世法覚上人は徳川家康公を合祀するため、権現造りの社殿を再建した。」
「平野は大阪市のなかで、最も歴史のある町並みが残ります。戦国時代には町の周囲に環濠を巡らせ、町民たちの自治で平野郷を運営した。江戸時代の平野郷は、およそ元禄7年(1694)を境にして前期は幕府領、後期は大名領であった。とくに正徳3年(1713)下総国古河藩主、本多忠良に給与されて以来、明治2年の版籍奉還までの156年間は、松平候、土井候と大名は代わったが古河藩付所領であった。幸運にも戦火を免れた平野には、100年以上を経た町家や社寺が路地に佇む。また、町全体を博物館に、という住民の発想で、町の随所に手作りの博物館を立ち上げている。」
JR平野駅を下車し、南口を出てすぐの道、線路沿いに東に向かいます。
平野環濠跡
杭全(くまた)神社
「平安時代初めの貞観4年(862)、坂上広野麻呂の子当道が、第一殿に素戔嗚尊を氏神として祀ったのが起源である。その後、第三殿に熊野信仰が流行して、建久元年(1190)に熊野権現を勧請した。さらに、第二殿に元享元年(1321)後醍醐天皇の勅命により、熊野三所権現を祀った。明治時代初期の神仏分離令で、寺院関係のものは長寶寺へ移され、明治3年(1870)、杭全神社と改称された。宝永5年(1708)再建された連歌所は、全国で唯一ここに残っている。」
大阪市平野区平野宮町2-1-67
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石鳥居
境内案内図
鳥居
参道
大門
社務所
手水舎
拝殿
狛犬
絵馬掛け
第一本殿(重要文化財)
「江戸中期の元禄3年(1690)建立、一間社春日造、檜皮葺。三殿並立する本殿のうち、向って左端が第一殿である。式年造替で取壊された春日大社本社本殿(第三殿)を移したもので、後世の改修はほとんどなく、よく旧規を保っている。現存する春日大社旧殿のうち、由緒が明らかで、かつ年代の古いものの一つ。」
第二本殿(重要文化財)
「室町後期の永正10年(1513)建立、三間社流造、檜皮葺。」
第三本殿(重要文化財)
「室町後期の永正10年(1513)建立、三間社流造、檜皮葺。」
神輿庫
田村社
恵比須社
鎮守社
稲荷社
保存樹のくすのきと拝殿
十柱社
古札納所
西門
巨楠(大阪府指定天然記念物)、樹齢千年、樹高30m、周囲10m
忠魂碑
筆塚
宇賀神社
古河藩陣屋跡(平野小学校正門にある)
「平野郷の陣屋は天明年間(1781~89)土井候の下総国古河藩時代に置かれ、明治2年の版籍奉還後、陣屋は廃止跡に郷役場、警察署、小学校が出来た。平野郷は大阪市に編入、奈良街道拡張後、平野小学校のみ此処に現存しています。」
馬場口地蔵
「平野郷は、現在の平野宮町・平野本町・平野上町・西脇流町・平野市町にあたり、大坂の陣(1614~15年)で焼失した後、徳川家康の命により、2重の濠で囲み、碁盤目状に区画された。江戸時代、野堂・流・市・背戸口・西脇・泥堂・馬場の本郷7町に惣門という13の出入口があり、木戸と地蔵堂・遠見櫓などが設けられた。平野から外に出るときは、地蔵様のご加護を、外から入る時は凶事の退散を祈った。」
馬場門筋
大念仏寺
「大源山諸仏護念院大念仏寺と号し、俗に亀鉦寺とも称する。融通念仏宗の総本山である。当寺のはじめは、坂上氏の菩提所修楽寺の別院であったが、大治2年(1127)開祖聖応大師(良忍上人)が鳥羽上皇の勅願によって新しく一寺を建立されたものである。
第七世法明上人は大いに寺門を興したが、千早赤坂の戦・大坂の陣等の兵火に遭い堂宇・什宝等を失った。その後第三十六世道和上人がこれを再興し、第四十三世舜空上人は願を発して寛文7年(1667)方二十間の大堂を建立した。
さらに、元禄年間地元徳田家より第四十六世大通上人が出るに及んで、諸堂を建立し什宝を整備し、一山の法儀用具を完備し輪奐の美を極めるに至った。
しかし、明治31年出火し、大堂以下多数の堂宇を失い、現在の大堂は昭和13年第五十九世戒全大僧正のときに竣工したものである。」
境内案内図
山門(大阪市有形文化財)
「宝永3年(1706)、第四十六世法主大通上人の建立による。棟行二間、梁行9尺、両脇に七尺の壁落ち屋根を付けている。「大源山」の扁額は、後西天皇の皇女で京都宝鏡寺の本覚院の宮徳厳尼の真筆である。大通上人はこの門を融通無碍門と命名し、人種、年齢、性別、職業の違いを越えて、お互いが一つ心で融け合い、喜びと感謝があふれる仏国土を築きあげていくという融通念仏の功徳を称揚した。
石碑
手水舎
本堂(登録文化財)
「昭和13年に竣工した総欅造り銅板葺きで、棟行39.1メートル、梁行49.8メートルの大阪府下最大の木造建築である。」
マニ車
毘沙門堂
「東側に四間四面、西側に棟行五間、梁行三間の二つの堂を合わせ持つ建物で、天治2年(1125)、元祖聖應大師(良忍上人)の創建と伝える。現在の堂は寛政11年(1799)、第四十九世堯海上人の再建である。中央厨子の本尊毘沙門天は行基菩薩作と伝えるが不祥。両足で邪鬼を踏み、右手に戟、左手に巻子を持つ躍動感あふれる等身大の木造である。毘沙門天は仏法守護の四天王の一つで、多聞天とも称する。良忍上人は永久5年(1117)、阿弥陀仏から、人々が口に念仏を称えることにより、その念仏が相互に融け合い、現世に智慧輝き幸あふれる仏国土が現出するという融通念仏の教えを授与されてのち、洛北鞍馬寺の多聞天王の冥助によって、宮中をはじめ広く諸国にこの念仏を勧めて歩かれた。」
梁松院
西門
「この門は現在の平野小学校所在地にあった、古河藩の陣屋門で、明治の廃藩後平野小学校の表門として昭和2年まで使用されていたが、小学校舎新築拡張にともない、保存の要望があって、昭和37年1月、ここに移築された。平野郷の藩政時代を示す唯一の遺構であり、その門扉は樟の一枚板である。
白雲閣
客殿
延喜殿
経蔵
「元禄年間(1688~1703)、第四十六世大通上人の創建。三間半四面の中心に経箱を置き、回転させる構造となっている。これは転法輪を意味し、経の功徳が普く行きわたることを願ったものである。」
地蔵堂
「弘化元年(1844)、第五十二世教彌上人再建。本尊は蓮台に乗る等身大の木造である。幕末の頃、八尾を中心に河内地区において熱心な布教活動をした榮山上人の作である。榮山上人は融通念仏勧進聖として有名であるが、帰信者1万人ごとに地蔵菩薩を建立した。弘化2年(1845)十月、五万人勧進回向を大念仏寺で執行したときの地蔵菩薩で、錫杖を持つ掌は正面に向け、宝珠を持つ左手は中指だけがまっすぐに伸びている。これは石造の地蔵や墨書した地蔵象でも同じで、榮山作の特徴である。」
観音堂
「元禄6年(1693)、第四十六世再興大通上人の創建。二間四方で前面に一間、後方に二間の庇を付けている。本尊は木造聖観音立像で、像高五尺五寸あり、伝教大師作と伝え、優雅な表情をたたえている。堂の両袖に、左棟行五間、梁行二間、右棟行四間、梁行二間の霊牌安置所を設けている。」
銅燈籠
納骨堂
鐘楼
銅鐘
くすのき 保存樹、高さ18.9m、幹回り6.8m
龍王殿
霊明殿
「正門、廻廊、奉安所、修法堂から成る。創建は保元元年(1156)、第三世明應上人のときと伝える。良忍上人の念仏勧進を助け、自らも融通念仏に深く帰依された鳥羽上皇の霊牌と御真影を祀るために建てられた。その後、寛永年間(1624~1643)、第三十八世法覚上人は徳川家康公を合祀するため、権現造りの社殿を再建した。」