旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

高座(たかくら)神社

2022-07-16 21:55:32 | 丹波
2022年7月14日、お参りしました。
由緒書より「創立年代は不祥、当社祭神は丹波国造家の祖神、丹波の守護神として奉納されたと伝えられている。当社は古来旧久下上久下両村の総氏神として年々の祭事が継承され現在に至った。中世には当郷地頭久下氏の祈願所として当町金屋に鎮座していたが、弘治3年(1557)現在地に遷り、徳川時代には谷川領主織田家の崇敬厚く社領の寄進を受けた。現在の本殿は宝永2年(1705)に氏子により再建された。大工棟梁は谷川の清水武右衛門と清水七郎左衛門である。石鳥居は元禄6年(1693)に氏子が建立したものである。」
兵庫県丹波市山南町谷川3557
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社標

鳥居

案内図

手水舎

随神門



中門

フジキ(兵庫県指定文化財)
「マメ科の落葉高木で、『ヤマエンジュ』とも呼ばれ、成長すれば普通15メートル程に達する。本州福島県以西や中国地方の湿気の多い山中にまれに生える。その冬芽は柔らかく、白い帽子のような薄い膜に包まれており、春になるとこの帽子を破って若芽が出る。花は白色で、夏に枝先から15~25センチメートルの複総状花序をつける。種実はマメ科特有のさやに入っていて、さやの大きさは4~9センチメートルになる。当神社のフジキは、根周り6.8メートル、目通幹囲3.5メートル、樹高約20メートルで、兵庫県下はもちろん全国的にも大変貴重なものである。」



石鳥居(丹波市指定文化財)
「この石造鳥居は、高さ4.57メートル、柱の下部真々3.8メートルの、すっきりとして形のよい明神鳥居であるが島木の鼻の截り方はほぼ鉛直で笠木の反増は少ない。向かって左柱前面に1693(元禄6)年の造立年・右柱前面に寄進者名が刻まれている。貫の中央部が破損したために現在は新しい石材と取り替えてあるが、古材は神社に保管してある。石材は谷川地区の奥山から切り出したもので、今でもその跡があるといわれている。」

狛犬



拝殿

本殿(重要文化財)
「建物の身舎は正面5間、背面6間。側面2間、庇1間の流造の正面に、1間の唐破風造の向拝を付け、屋根には左右に千鳥破風を置いています。斗栱は和様三手先で、中備の蟇股、手挟、板支輪等の彫刻や妻組の構成には元禄期の手法を駆使した、県下では例のない18世紀初頭の神社建築であるとともに、当時のおける当町谷川工匠のすぐれた技術を示すものであります。」





















末社






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常勝寺

2022-07-16 21:03:28 | 丹波
2022年7月14日、お参りしました。天台宗の寺院で山号を竹林山と号す。
パンフレットより「はるかなるインドより万里の波涛を越えて渡来した法道仙人(大化年間、孝徳天皇の御代)は、七尾七谷の此の山に七堂伽藍を建て、寺運日増に栄え、僧坊70余の一山地となりましたが永保年間に出火し、堂塔すべて灰燼に帰しました。その後、泉州槙尾山の浄意上人が本堂および末社を建てましたが、1575(天正3)年10月3日、戦国動乱の兵火により、全山ことごとく炎上し、のち当山の智光法印が再建に着手しましたが、工半ばにして遷化し、爾来、寺運なく、荒れるにまかせ、1697(元禄10)年ようやく良海法印が本堂を修造し、寺坊七舎のうち、慈眼、松林、普賢、蓬莱、宝樹の五ケ院とし、寺運更に沈み遂に慈眼院のみとなり、明治に入っても尚風雪つよく、うらぶれの明け暮れでありましたが、霜をふんで山林経営に粉骨し、入りては法灯を高くかかげて諸堂宇修復に砕身し、寺運、日を重ねてよみがえり、今日に至りました。山気清く澄んで深く、千古の老杉は亭々として磴を覆ひ、梢をわたる風邪は野鳥の声をはこび、木漏れ日に映える青葉、若葉、蝉しぐれ、虫の宴、栗鼠に揺らぐ紅葉、冬ざれの石仏等四季の情趣に恵まれております。」
毎年2月11日午後2時執行の「鬼こそ」(追儺式)は、法道仙人に従う四鬼が、その徳に感化され、五穀豊穣を祈って本堂をめぐる。
兵庫県丹波市山南町谷川2630
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鬼こその寺
「常勝寺では、毎年『鬼こそ』が行われる。五穀豊穣、無病息災を祈願する会式で、おにうち(鬼打)ついな(追儺)おにやらい(鬼遣)など様々呼称があるが、当寺では『鬼こそ』と称している。太鼓、ほら貝、鐃、鈸などの仏具を打ち鳴らすことから『鼓騒』(戦場で太鼓を打ち鳴らし鬨の声をあげて騒ぐこと)が訛ったものではないか。鬼追い会式は播磨地方に多く見られるが、丹波地方には当寺にしか伝承しておらず、他に比べて鬼面の大きいのも特色である。」

仁王門







参道、360段を登ります。

由緒書

参道









塔頭寺院





















手水鉢



本堂























薬師堂



宝篋印塔

石碑

弁財天



















鐘楼堂












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荘厳寺

2022-07-16 20:25:57 | 丹波
2022年7月14日、お参りしました。
由緒書より「当山は、652(白雉3)年に法道仙人の開基と伝えられる観音霊場である。慶長年間(1596〜)に、徳禅上人が当山に入り、堂宇を修復して再興され、爾来真言宗高野山派の末寺として法幢を輝かした。盛時には本堂への参道沿いに10か寺の塔頭を構えました。宝暦年間(1751~)には社町の朝光寺と鴨川の西光寺(廃寺)を行場とする権現信仰の修験道の寺として交流していたことが伺える。大河ドラマの主人公となった秀吉の軍師・黒田官兵衛の出生地との説を主張する『荘厳寺本黒田家略系図』を所蔵・展示(複製)しており、持仏堂には歴代城主の位牌も安置しています。」
兵庫県西脇市黒田庄町黒田1589
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西脇市観光マップ

黒田里
「播磨国風土記ゆかりの地、託賀郡の章に登場します。黒田里は、土が黒いので里の名としました。中世には一帯が荘園となったので『黒田庄」と呼ばれ、その後自治体名にも引き継がれ、西脇市との合併後も大字名として残っています。黒田里の記述で登場する『袁布(きふ)山は昔、宗像大神の奥津島比売命(福岡県宗像郡の宗像神社に鎮座する三女神の中の一神)が、播磨国の神様の伊和大神の子を身籠もり、この地にやって来て、『私が子を産むときになったので、をふ(=やりとげるの意味)と言った山なので、名づけられました。また、『支閇(きへ)丘』というのは、宗像大神が『子を産む月が尽ぬと言われた地なので名づけられたとあります。この『『袁布山』は、黒田庄町黒田にある『前山」と呼ばれる山が比定されており、『支閇丘』は黒田庄町田高と丹波市山南町井原との境にある『イタリ山』と考えられています。」
軍師・官兵衛の里
「播磨古事」「播磨鑑」「播陽古城記」など江戸時代に編纂された播磨の資料には、黒田官兵衛やその父は、多可郡黒田村(現在の西脇市黒田庄町黒田)の生まれとするものが多くあり、西脇市内には官兵衛や黒田家ゆかりの場所が点在しています。ここ黒田集落には、北播磨随一の紅葉の名所として知られ、黒田氏の発症から嫡流の滅亡までを記した「荘厳寺本 黒田家略系図」を所蔵する荘厳寺、黒田氏9代の居城と伝わる黒田城址、城に付随する邸宅跡と伝わり、黒田官兵衛誕生地の石碑が立つ「姥が懐」などのゆかりの地があります。」

播磨黒田氏と黒田城
「播磨黒田氏は、赤松円光(赤松円心則村の弟)を元祖とする赤松庶流の一族です。1351(観応2)年3月円光の子・七郎重光がこの黒田城に移り、播磨黒田氏の始祖、初代となりました。以来その子孫は、九代、二百数十年にわたり、黒田城主として存続しました。八代黒田城主・黒田下野守重隆に男子二人あり、兄が治隆、弟が孝隆です。治隆は父重隆の家督を継いで九代城主となりましたが、元亀の頃(1570年代初め)合戦に敗れて戦死、播磨黒田氏は滅亡しました。それより前、弟の孝隆は、姫路城主・小寺美濃守職隆の猶子(養子)となっており、小寺官兵衛を名のって、播磨の国飾東郡の御着城主・小寺氏の家老となっておりました。この小寺官兵衛が豊臣秀吉の参謀役として有名な黒田官兵衛(如水)です。当地、黒田は、官兵衛の先祖、赤松庶流・黒田氏の根本地であり、しかも黒田官兵衛自身の出生地です。これらは、心光寺旧記等の姫路の古文書、そして当山所蔵の荘厳寺本黒田家略系図の史料研究によって、近年はじめて判明した新事実です。」

塔頭・法音院山門















280段の階段を登ります。



鐘楼堂

梵鐘
「姫路城主の本田政勝氏から1649(慶安2)年に寄進される。」

鎮守社

稲荷社

手水鉢



本堂
「本尊十一面観世音菩薩を祀る。脇侍像仙人の立像台座に慶長16年の墨書がある。」









多宝塔(兵庫県指定文化財)
「本堂近くに立つ、檜皮葺きの屋根に円筒形の2層目が特徴的な多宝塔は建久年間(1190〜)に造立、1711(正徳元)年に再建されている。」






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住吉神社(篠山市川原)・住之江の庭

2019-04-25 20:47:13 | 丹波
2019年4月23日、お参りしました。
説明書より「平安時代の永保元年(1081)、丹波国司大江匡房が堺の住吉神社からご分霊を勧請したものと伝えられ、現在、大阪の住吉神社は、国家鎮護・航海守護・和歌の神として広く崇敬されています。川筋に出来た村の繁栄を水の神に祈り、匡房が歌人でもありお祀りしたといわれます。都から一品式部卿邦高親王が参詣したのをはじめ、仁木城主、籾井城主や歴代篠山城主も深く尊崇しました。第4代城主松平康信は、総欅造りの鐘楼を寄進しています。水無月祭の祭礼と打込囃子は篠山市指定無形民俗文化財になっています。祭礼では氏子集落による山車の巡行が行われている。山車の創建は江戸時代の後期で、かつては6基の山車があったが、現在は5基の山車が巡行している。打込囃子は宮入後に境内で奉納されるもので、締太鼓、小鼓、三味線、胡弓、笛などの楽器が演奏される。」
兵庫県篠山市川原270
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鳥居

手水舎



狛犬



拝殿

鐘楼(篠山市指定文化財)
「住吉神社は天正5年(1577)に明智光秀の丹波攻めの際に焼失したが、江戸時代に入り、篠山藩四代藩主の松平康信の寄進により再建された。境内には神仏習合の名残から鐘楼が所在している。鐘楼にかかる梵鐘には寛文2年(1662)の銘があるが、棟札から現在の鐘楼は享和元年(1801)の建立であることが分かっている。鐘楼の南側に手水舎があり、建築様式や吊り金具の痕跡から、元の鐘楼が改造されたものであると考えられている。」

梵鐘

本殿









住之江の庭
「昭和41年(1966)住吉神社社務所の北側に、昭和期を代表する作庭家、重森三玲によって作庭された。大阪の住吉神社の分霊である海の神を祀ることから、海の景色をテーマとし、枯山水の様式を用いながらモダンにまとめられている。全体に敷き詰められた白川砂の砂紋は小波、白い曲線は大波をあらわす。また、徳島県産の青石(緑泥片岩)を20石配置し、仙人が住むという蓬莱島に宝船が向かう様子を表現している。庭の西側の前庭は住之江の庭作庭に際して改修されたもので、本庭の導入的役割をになっている。」





招魂社

天神社

八幡神社

厳島神社

貴船神社

稲荷神社

大神神社

松尾神社

仮殿

地蔵堂
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篠山市福住の町並み

2019-04-25 20:46:49 | 丹波
2019年4月23日、散策しました。
パンフレットより『福住の町並みは、篠山盆地の東端、篠山川の支流となる籾井川が形成した河岸段丘上に位置し、篠山盆地を東西に横切る西京街道(京街道)が盆地を東に抜け、籾井川と平行して走るようになる辺りから、街道に沿って町並みが広がります。
 古代には丹波国八郷のひとつ真継郷に属しており、現在の小野新周辺に山陰道の駅馬として小野駅が置かれました。さらに、平安・鎌倉時代には丹波国に貴族や大寺社の荘園が多く設けられ、福住は籾井庄の一部であったと考えられ、室町時代には福住一帯が仁木氏の支配下にありました。
 戦国時代になると、波多野氏が勢力を伸ばし、高城山に築いた八上城を中心とする勢力圏を形成しました。福住は波多野氏の被官であった籾井氏の拠点でした。籾井氏は中世以来この地域に拠点を置く在地領主であったと考えられ、永正年間には福住の北を流れる籾井川を挟んだ対岸の山上に籾井城を築くとともに、安口の籾井川対岸には安口城、安口西砦といった支城を設けていました。
 天正6年(1578)の明智光秀による丹波攻略により、波多野氏を中心とした丹波衆は勢力を失います。慶長13年(1608)に松平康重が八上城に移封され、慶長14年(1609)の篠山盆地の中央に、15カ国20の諸大名によって天下普請で篠山城が築かれました。
 丹波国が諸大名の所領として細分化される過程で、福住村・川原村は篠山藩領、安口村・西野々村は亀山藩領へ編入されたため、幕藩体制下では別々の藩領として存在することとなりました。
 篠山藩は、篠山城下を中心とする街道整備の中で、西京街道沿いの「福住村」、「追入村」、摂津・播磨を結ぶ街道沿いの「古市村」をそれぞれ宿駅に指定し、いずれの村も近世を通して宿場町として繁栄します。福住は京、大坂との交通の要衝であり、本陣・脇本陣を勤めました。またその他にも、篠山藩の御蔵所が置かれ、米蔵・籾蔵やそれらを管理する役人詰所が建てられました。一方、川原村、安口村、西野々村は農村集落として位置づけられますが、安口村には関所が設けられ、福住村が宿場町となったことから農業と兼業で旅籠や茶店などを営む家もありました。
 明治維新にともない宿駅の制度は廃止されますが、明治時代中期頃までは旅客交通量、貨物輸送量の増加により宿場町として繁栄を続けます。しかし、こうした繁栄も、鉄道・道路網の整備が進むことによりかげりを見せるようになります。とりわけ、明治32年(1899)に京都・園部間を結ぶ京都鉄道(現JR山陰本線)、神埼・福知山間を結ぶ阪鶴鉄道(現JR福知山線)が開通したことにより、福住は大きな打撃を受け、旅客を対象とする旅籠や商店は徐々に廃業していきました。明治以降、福住は近代化の影響をあまり受けず、そのことが伝統的な町並みを現在まで残す要因となりました。現在、街道沿いの大字福住から大字西野々にかけて、江戸後期から明治期に建てられた妻入民家を中心とした町並みが続いており、江戸期以来宿場町を中心として発展した面影を色濃くとどめています。』
兵庫県篠山市福住
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案内図

伊能忠敬笹山領測量の道の石碑
「文化11年(1814)2月11日曇、伊能忠敬測量隊10名は、早朝より131人の労役村民を従えて、城下二階町を出発、京都街道を測量。飛曾山坂を越え、小野奥谷村、安田村、福住村駅場測所前に住印杭打。」

















福住の一里塚
「江戸幕府二代将軍徳川秀忠が、江戸日本橋を基点とし、東海・東山・北陸三道の一里ごとに道路の両側に塚を設けて、榎や松を里程と休憩場としました。そこで各藩でも、江戸・京への距離を示す一里塚をつくるようになったのです。篠山藩では篠山城築城に際し、西京街道に沿って大手門から一里ごとに土を盛り松を植えて道標(みちしるべ)としました。ここは、八上、波々伯部神社に次いで、城から三里目の塚で、ここから東へ少し行くと亀山藩領でした。かつては両側に松の大木がありましたが、現在の松は、歴史を後世に伝えるために補植されたものです。」



山車庫
















































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法楽寺

2019-04-05 21:17:43 | 丹波
2019年4月4日、お参りしました。
説明書より『鎌倉時代、京都・南禅寺の学僧であった虎関師練が表した仏教史書「元享釈書」(元享2年・1322)の第28巻「寺像誌」に、播州犬寺の縁起が記されている。昔、曽我入鹿大軍を召して上宮太子一族を亡ぼす(643)。播州の枚夫という者あり。召されてその軍に加わる。枚夫に妻あり。下僕(家来)と密かに通ず。戦い終わり、枚夫は都より変える。さて、事が露見し討たれるのを恐れた下僕は、「近くの山中に一力所鹿、猪の集まる所あり。願わくば殿と共に猟に行かん」」と、言葉巧みに枚夫を狩りに誘う。狩りを好む枚夫、日頃養育せし二頭の犬を連れ、喜び勇み、下僕の案内で山の奥深く分け入る。突如、下僕弓に矢をつがえ曰く「この山には獣などはいない。あなたを欺いて誘った。お命を頂戴する。覚悟召されよ」と。もはや、これまでと覚悟を決め、枚夫は二頭の愛犬を呼び寄せ、己の弁当を分かち与えつつ「よく聞け。今、下僕に欺かれ、空しく此の山中にて我が命を奪われる。国の人々来たり我が屍を見られるは、大なる恥辱なり。故に、二犬よ。我が屍食い尽くせよ」と語り聞かせる。話が終わるやいなや、二犬は猛然と下僕に襲いかかり、一頭が下僕の弓弦をかみ切り、もう一頭が喉元に噛みつき、下僕を倒す。かくて、枚夫我が家式へ急ぎもどるや、親族に告げて曰く「我、この二犬によって命を全うし得たり。今よりこの二犬を立て我が子となす。我が財、皆、この二犬の有なり。」と。さりながら、二犬 枚夫より先に死す。枚夫、二犬の死を悼み悲しみ、伽藍を建立、千手大悲の尊像を奉安して冥福を祈る。この千手観世音菩薩像の霊感日に新たなり。野火四面より伽藍に迫りしこと三度ありしが、一度も災い伽藍に及ぶこと無しという。このことが、平安時代の初め、桓武天皇(782~805)の御聞に達し、勅して「官寺」となし、田数頃(頃は百畝の広さ)を喜捨したまう。』
兵庫県神崎郡神崎町中村1048
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梵鐘(神河町指定文化財)

















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川代公園の桜

2019-04-05 21:14:18 | 丹波
2019年4月4日に行きました。
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桜華園・桜の青空博物館

2019-04-04 20:27:13 | 丹波
2019年4月4日、桜華園を散策しました。
パンフレットより「かみかわ桜の山は、神河町東柏尾大獄山の山麓15ha(海抜160~260m)に、240品種3000本の桜を植栽しており9月末から翌年5月までの長い間開花が楽しめる桜の青空博物館です。」
山全体が開花していませんでした。少し時期が早かったようです。入園料は300円です。
兵庫県神埼郡神河町東柏尾146
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笠森稲荷神社
『笠森稲荷神社は、古墳と一体化した場所に造られた祠で、地域の皆さんが「お稲荷さん」と呼び、心の拠り所として守り警鐘しています。ここ東柏尾の地は、往古より播磨と但馬を結ぶ要衝に位置したところで、この地には、古墳時代後期(6世紀末から7世紀)に造られた高畑通り古墳群や、大獄山頂に中世の山城である柏尾城が残っていること、また秀吉が播磨国内に発給した制札(太閤札)が伝わっています。』









アメリカ





枝垂桜





小松乙女













江戸彼岸

紅枝垂









八重紅枝垂





思川

大漁桜













アメリカ

伊豆多賀



河津桜



アーコレード



寒咲大島





アメリカ



河津桜



白爛漫













大草小彼岸
























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サザンカの西方寺(篠山市)

2017-12-01 08:40:00 | 丹波
2017年11月28日お参りしました。27日に京都の亀岡、南丹散策しるり温泉宿泊、京都イルミエール、るり渓谷散策、京丹波町を観光、帰路の途中でサザンカの寺の西方寺に寄りました。
説明書より「兵庫県下随一はもちろん全国でもまれな『さざんか』の巨木が当寺境内にあります。樹齢600年東西南北10メートル四方に枝を広げた姿は他に例を見ないみごとなもので、天然記念物に指定されています。境内には同様に樹齢600年を誇るかやの木槙の木の古木もあり、いずれも不老長寿のご利益を授かることができます。」
篠山市今田町今田新田82
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本堂











お疲れさまでした。
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城下町、篠山の町並みその2

2016-03-15 15:59:02 | 丹波
2016年3月13日、篠山の町並みを散策しました。その1からの続きです。
春日神社
「篠山春日神社は、貞観18年(876)奈良の春日神社の分霊を今の篠山城跡ほ勧請したもので、篠山城が築城されるに際し、この地へ移されたものです。境内には文久元年(1861)藩主によって寄進された能楽殿があり、当時箱根より西では最も立派なものといわれた舞台です。」











随神門









絵馬殿



























能舞台(重要文化財)





拝殿











本殿











西に進んで



誓願寺
「当寺は八上城主波多野秀治が天正年間(1573~92)の初め、覚山天誉を開山として高城山の麓に創建しました。」







本堂







庫裏







鐘楼



お徒士町の武家屋敷群
「御徒士町通り(西新町)は、城の西に位置し、間口平均8間、奥行25間という江戸時代の敷地割がよく残り、通りに沿って土塀と棟門が配され、2間ほど後退させて茅葺入母屋造の主屋を建てています。また主屋の裏側には土蔵や竹蔵が配され、武家屋敷のたたずまいを今に伝えています。」











マップ















外濠







城壁









篠山城大書院
「大規模な平屋建築で、昭和19年(1944)に焼失し半世紀ぶりに複元されました。一大名の書院としては破格とも言える規模で日本の代表的な建築物です。」













城内にあります青山神社



































お疲れ様でした。
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