2019年3月2日、お参りしました。
「酒見寺は泉生山と号する真言宗寺院で、天平17年(745年)、酒見明神(住吉神社)の神託を受けた行基が聖武天皇に奏上し、寺号を酒見寺として開創したと伝えられています。平安時代から毎年勅使の参詣が行われていた名刹は、2度全山を焼失しています。平治の乱での全山焼失(1159年)の際は二條院の勅により再建、天正年間(1573~92年)にも兵火で全山が焼失した。その後、江戸時代に入り、姫路城主となった池田輝政が姫路城の守護寺に定めて援助を行い、池田家の転封後は本多忠政の援助を受け、寛永年間(1624~43年)に幕府の命を受けた実相院降恵が再興した。さらに江戸幕府3代将軍徳川家光が朱印寺と定め、代々将軍から朱印状を下附されて隆盛するなど、これまで天皇や幕府、藩により厚く保護されてきた。」
兵庫県加西市北条町北条1319
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楼門(加西市指定文化財)
「天正年間、他の諸堂とともに焼失したあと寛永19年(1642)に再興されたらしい。現在の楼門は、棟札銘から文政8年(1825)に近郷の工匠の手により再建されたことが知られている。上層周囲に縁をめぐらした、三間一戸の楼門で、入母屋造、本瓦葺である。虹梁、丸桁木鼻などの細部にみる絵様繰形や柱上の斗栱組物、それに蟇股などの形式手法は、江戸時代後期、文政頃の技法をよく伝えている。この楼門は、本堂、常行堂、多宝塔、それに鐘楼とともに、酒見寺が乱の一環をなすものとして、貴重な遺構である。建立年代が明らかなうえに、当時、ひろく活躍したであろう、宇仁郷住の棟梁、神田左衛門の柵である点、この種、建築の地法的特性を知る好標本として価値のある建物であるといえる。」
地蔵堂
「正面三間、側面三間、宝形造、本瓦葺、宝暦4年(1754)建立。建築様式は同時期の標準的なものですが、虹梁絵様には神田氏の特徴が出ています。」
多宝塔(重要文化財)
「この多宝塔の建立時代は、相輪に寛文2年(1662)の刻銘があり、さらに上層の柱にも寛文2年の墨書がありますので、この時代の再建と考えられています。これらの多宝塔は、密教系の塔形として平安時代から建立され、真言宗では南天竺の鉄塔の形を模し、大日如来または密教の五仏を本尊とするのが一般的であるといわれています。県下においては、この種の多宝塔は、7ケ所の寺院に現存し、加西市においては、国正町の奥山寺の多宝塔がその類したものとして現存しています。
この塔の内部には、四天柱や耒迎壁には、両界諸仏、外陣脇間の壁板には真言8碑祖を、その他全面に装飾文様をそれぞれ極彩色で描いています。また耒迎壁の背面には、享保13年(1728)の墨書がありますので、この彩色は、このころまでかけて施されたものといえます。なお外部も台輪、組物、丸桁などにも極彩色を施していますが、総じてこの多宝塔は比較的に大型で、上重の軸部の径が下重の総柱間に対して細いこと、上部の亀腹が小造りであることなど前代風をよくのこしているうえに、各部の均衡も安定感のある外観となっています。とくに屋根は、上重が桧皮葺、下重が本瓦葺として葺き方を異にしているのは、類例がなく、大変めずらしいものといわれています。
これら県下における江戸時代初期の多宝塔建築の流れを知るうえにおいて、重要な遺構であるといえます。」
引聲堂(阿弥陀堂)
「桁行五間、梁間五間、寄棟造、銅瓦葺、向拝一間、19世紀前期建立。以前は、宝形造で四周に縁が回っていましたが、命じの増築により、背面の縁に下屋が設けられています。虹梁の修理部材として17世紀後期の虹梁(旧材)が用いられています。」
本堂
「桁行三間、梁間三間、入母屋造、一重裳階付、本瓦葺、向拝一間、元禄2年(1689)建立。中世仏堂など宮大工神田氏独自のデザインが建て裳のに個性を与えています。」
鐘楼(兵庫県指定文化財)
「いまの建物は、東側面右隅斗横に寛文4年(1664)の墨書があり、多宝塔に続いて建立されたことがわかる。袴腰付鐘楼で、外観は各部の釣合がよくととのっている。外部は全面に彩色が施してあるが、当初は丹塗りであった痕跡が随所にみられる。和様を基調とし、部分的に唐様を混合した様式をもつ。とくに上重柱間腰の弓連子は、唐様を取り入れた珍しい意匠である。高欄も唐様であり、県下における数少ない鐘楼建築の建造物として重要である。」
観音堂
「方三間、宝形造、本瓦葺、19世紀中期建立。全面を床張りにせず、中央に板張りで壇を、奥に仏壇が設けられています。左右と手前の三方は土間になっています。」
本坊
護摩堂
「桁行五間、梁間四間半、入母屋造、本瓦葺、向拝一間、18世紀後期建立。一棟の建物の、正面左側三間を護摩堂、右側二間が持仏堂になっています。」
辨才天堂