2014年5月3日
塞神の碑、平野の交差点と平野の祇園神社の中間あたりにあります。同じところに塞神の松跡の碑もあります。
昔、このあたり(奥平野村)を東西に通る古代からの人道「古道街道」がありました。この碑は、古道街道を通る旅人らの道中の安全を守ってくれる神さま(道祖神)として言い伝えられています。
天保の時代(一八三○~一八四四)このあたりに「塞神」をまつった塚があり、そこに生えていた榎が倒れたので掘り起こしたところ、大きな石が現れ、その 下から甲冑、剣、馬具などが出てきました。しかし、当時の人はたたりがあっては大変と埋めてしまい、山伏をよんで祈祷させたとの言い伝えがあります。
塞神の松跡の碑
昔、上祇園町のこのあたりに「塞神ノ松」とか「祇園の一本松」とよばれていた大きな松がありました。「和田の沖をゆく船が、この松を見て舵を直した」と言われるほど有名な松でした。この松は戦時中に枯れて今はありませんが、その跡に昭和十六年十二月、上祇園町内会がこの「塞神の松跡」の碑をたてました。
祇園遺跡
治承四年(一一八〇年)、平清盛によって福原遷都が強行され、わずか半年ではありましたが、福原荘・和田荘と呼ばれたこの地に都がおかれていました。平清盛の邸宅はここ平野にあり、平野殿と呼ばれていたことが記録の上で確認できます。
大輪田の泊や福原荘・和田荘を見晴らす、ここ平野の地が福原京の中心地域でした。一九九三年、国道四二八号線拡幅整備工事に先立つ発掘調査で、この公園 のすぐ西側から、底に石を敷く池がある貴族の邸宅の庭園が見つかりました。出土した宋からの輸入陶磁器や大量の土器などから、貴族の生活がうかがわれま す。ただし、この調査ではそのごく一部が見つかったにすぎず、池の大部分や御殿などは今もこの地下に眠っています。
雪見御所旧跡
神戸市兵庫区雪御所町2-1
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説明文より
平安時代末期、平家一門が日宋貿易の港である大輪田泊を見晴らす福原の地を領有し、ここに多くの邸宅を構えた。治承四(一一八○)年、政権の強化を図った 平清盛が孫の安徳天皇を奉じて都造りをはかったのが「福原遷都」である。しかし都造りは中途で頓挫、半年で平安京に遷都したため実態としての都は完成しな かった。
「平家物語」などには平清盛が福原の地にいくつかの邸宅を持っていたことを伝える。そのひとつが「雪見御所」で、その名を伝える雪御所町に存在した可能 性が高い。
一九八六年に湊山小学校の校舎建設に先立ち行われた発掘調査(雪御所遺跡第一次発掘調査)で確認された石垣のひとつはこの南の字境に一致する。これは雪見御所の南を画する石垣、またはそれを踏襲する字境の石垣である可能性が考えられる。
雪見御所の北に安徳天皇が「福原遷都」の半年を過ごした「本皇居」=「平野殿」のあったこと、また清盛邸の近隣に子息宗盛(むねもり)邸のあった可能性 が当時の貴族の日記の記述などから知られる。発掘調査によっても雪御所町の東にあたる上祇園町の祇園遺跡で平安時代末期の貴族の邸宅あとの庭園の存在が確 認されている。古記録と発掘調査の成果から、この地に「福原京」の時期を中心とする平家の邸宅がいくつも存在することを推測することができる。ここ「平 野」の地はまさに碑の名の示すとおり「平」家の本拠があった「フィールド(野)」といえるだろう。
この「雪見御所旧跡」の石碑は、明治三九年に湊山小学校の校庭より掘り起こされた、往時の御所の庭造りに使用されていたと考えられる石に、明治四一年に湊山小学校三代校長篠崎三郎氏が、生田神社宮司田所千秋氏の揮毫を得て、設置したものである。