旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

新開地で中華を食す

2018-10-15 18:08:16 | 神戸市兵庫区
2018年10月15日、燕楽 新開地店で、ビールを飲みながら中華料理を食べました。
神戸市兵庫区新開地2丁目7−17 パンプキンビル 1F

蝦マヨ、肉のレタス巻き

野菜炒め

春巻き

中華団子

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

厳島神社

2014-05-04 00:11:59 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
厳島神社(いつくしまじんじゃ)は神戸市兵庫区永沢町に鎮座する神社です。阪神・阪急・神戸電鉄新開地駅の南100mにあります。
祭神は市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)です。
由緒書によれば、当社は今から約八百年ほど前の治承四年(1180)、平清盛公によって建立されました。清盛公はかって安芸守に任ぜられた時より、厳島明神を深く信仰していましたので、都を京都から福原に移した際に、厳島明神を安芸国より勧請したのです。
当社の縁起によると、清盛公が兵庫の港に築島を築こうとされた時、ある夜の夢に天女が現われ「私は安芸国厳島明神である。この海を暴風雨から守り、汝の志を能く成就せしめんが為に来たのである。篤く信仰して必ず疑う事なかれ」とお告げになりました。清盛公は深く喜び、兵庫の港の守り神として明神を祀ることにしました。

神戸市兵庫区永沢町4-4-21
map

鳥居

厳島神社(兵庫弁天)の説明書
福原京の周り7つの地に厳島神社を勧進したので、七弁天と呼ばれ、花隈・佐比江・西宮内・夢野・真野・渦輪とこの社となっています。他の弁天社が神社や寺と併祀しているのに対して、ここのみが独立していたため、渦輪にあった弁天社を合祀して存続しています。



手水舎


本殿


龍燈の松
 かつて本殿の裏に、樹齢千年にも及ぶ老松があり、清盛公が厳島明神をおまつりする所を探していた時、この松の梢に燈火がかかるという奇瑞があったので、当地を社地に定めたと伝えられています。
 のち文政7年(1824)5月5日、沖から燈火が飛来し、この松にかかり煌々と輝いたので「龍燈の松」と称するようになりました。太さ約1.5m、高さ約3mの枯幹が残っていましたが、戦災により焼失しました。

灯篭





針塚





退華塚

創立800年記念碑

旅生池

境内の白萩稲荷、若永稲荷

看板

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

願成寺

2014-05-04 00:10:09 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
願成寺(がんじょうじ)は、浄土宗の仏教寺院です。
本尊は、阿弥陀如来で、福原西国三十三ヶ所 第15番札所です。
願成寺の境内にある墓地の一番奥に、平通盛(みちもり)と小宰相の局(こざいしょうのつぼね)の五輪塔があります。

烏原に古くからあった観音寺という寺を鎌倉時代初期に 法然上人の弟子・住蓮が妻の安楽とともに再興し、願成寺と名づけ、念仏業に励んだ。建永元年 (1206年)、洛東の鹿ケ谷で念仏会を開いた時、後鳥羽上皇愛妾・松虫、鈴虫が参会し、住蓮に心酔して仏門に入ったので、住蓮、安楽は上皇の怒りにふれ 二人は処刑された。弟子たちは住蓮の首を願成寺に持ち帰り葬った。この時、烏が住蓮の首をくわえて、この寺に持ち帰ったとされ、烏が群をなして鳴いたので 上野村と呼ばれていたのを烏原村と呼ぶようになったといわれています。願成寺は烏原村がダムで水没すると、松本通二丁目の現在地に移っりました。
神戸市営地下鉄湊川駅の西北200mくらいのところです。
神戸市兵庫区松本通2丁目4-11
map


山門

本堂










住蓮の石塔と小宰相局・平通盛供養塔

願誉上人の塔

心誉上人の塔

興誉上人の塔

境内にて



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善光寺

2014-05-04 00:06:42 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
会下山善光寺は天台宗に属し、比叡山延暦寺を総本山としています。当寺は、大正六年四月八日、善光寺関西別院会下山寺として開創し、信州善光寺一山より英盛師神戸東錫により開山一世となりました。
会下山公園の東に位置しており、平業盛(なりもり)の塚があります。業盛は、平清盛の弟である平教盛の子で、寿永3年(1184)、一の谷の合戦により討ち死にし、17歳でこの世を去りました。境内は良く整備されており、本当に落ち着く寺院です。

神戸市兵庫区会下山町2丁目18-13
map


平業盛の塚






ユカシ地蔵



鐘楼


地蔵



表誠碑



成就観音



筆塚



聖徳太子堂







六地蔵

境内の会下山稲荷


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

長福寺

2014-05-04 00:03:50 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
長福寺(ちょうふくじ)は兵庫県神戸市兵庫区熊野町にある浄土宗知恩院派の仏教寺院です。
寛文7年(1630年)伝求上人の開基です。
ウィキペディアによると、当寺のある夢野は『摂津風土記』の逸文や『日本書紀』に見える禁野(イミノ)で、殺生禁断の場所とされています。仁徳天皇の時代より、この地の氷室から水を高津の宮へ運んだと、〝夢野の氷室″に語り伝えられています。 平安後期には上野(現在の烏原)願成寺に法然上人の弟子住蓮坊が住まい、土他の人びとに阿弥陀信仰を説き、多くの信者をあつめていた。 さらに念仏行者の徳本上人が再三この地を訪ずれて仏教信仰を説いたため、一寺建立へとつながった。
 兵庫区のHPの説明書によれば、もとは、鵯越道の登り口の四つ辻にあって行暮地蔵と呼ばれていた。鵯越道は兵庫から 藍那を通って六甲山地の北の山田方面へ越す古くからの山道で、元禄9 年(1696)の「兵庫津絵図には兵庫の三川口から「ひよどり越道」として会下山を越える道が描かれている。この行暮地蔵は、旅人の目じるしや、鵯越道を上下する旅人の一息つくところとなっていた。

神戸市兵庫区熊野町5-1-1
map






境内にて








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

熊野神社

2014-05-04 00:02:32 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
熊野神社は、由緒書によれば、平清盛が、福原遷都の際、皇城鎮護の神として、後白河法皇のご崇敬の厚い紀州熊野権現を勧請し、この地に祭祀した。然し、まもなく京都に還幸になったので地元夢野の住民が産土神として尊信し、縁結び、福徳延命、事業創設、の祖神として、ご神徳を仰ぎ、現在に至ったと伝えられています。
創建は不詳です。倒壊した旧社殿は、天保十巳亥年4月21日(1840)上棟の棟札があり、古くは熊野神社の御本殿であったと考えられています。昭和20年の戦災で焼失し、現在の社殿は昭和46年5月に復興再建されました。
流れ造、木造、銅板葺で、26.12坪の東向の社殿は楠の緑に囲まれ、荘厳そのものです。
神戸市兵庫区熊野町3丁目1-1
map


由緒書

鳥居

東側の鳥居

本殿

手水舎

力石







境内の荒木稲荷神社

境内の大神宮社

境内の牛神社

境内の古殿神社

境内の諸社(祇園、蛭子、春日、八幡、猿田彦、地主神)

境内の金比羅神社


霊安殿
当神社の為、又地域発展の為尽くした神社宮司、氏子総代、世話人外特に功績のあった人々の御霊と、氏地々区より出兵戦傷病没死者の英霊が祭祀されています。

即位大典記念碑


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

氷室神社

2014-05-03 23:08:47 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
氷室神社の祭神は大国主大神です。
説明書によれば、だいこくさまといえば、"縁結びの神さま"として知られていますが、この縁結びということは、単に男女の仲を結ぶことだけではなく、人間が立派に成長するように、社会が明るく楽しいものであるように、すべてのものが幸福であるようにと、お互いの発展のためにつながりが結ばれることです。  
創建の年月は不詳です。古代からの「夢野」(日本書紀、摂津国風土記に記されています)そして「氷室」に由来しています。
 仁徳天皇の兄に当たる額田大名彦皇子が夢野で狩りをした際に氷室を発見し、そこで、闘鶏稲置(つげのいなぎ)大山主(今の村長にあたる。氷室神社社家先祖)という土地の古老に訪ねた。「この土地の者は、冬の間に大きな氷を切り出し、あの岩屋の底の地面を一丈(約3㍍)ばかり掘って、底に草を敷き、そこに氷を詰めます。その上を茅などで覆い、土をかけます。暑い季節になると、氷を掘出し、砕いて水や酒に入れて飲むのです。」この話を聞いて仁徳天皇に氷を献上しました。これより後、氷を毎年暑くなる頃、天皇に届けられるようになりました。この氷室の所在地に仁徳天皇を祀って氷室神社が創建されたといわれています。
 この付近は、平清盛の弟の教盛の別邸跡だと伝えられている所で、福原遷都(1180(治承4)年6月2日)のとき、後白河法皇はこの教盛邸内に幽閉されていました。平清盛が兵庫七弁天の一社として市杵島比亮を奉納斎しました。
 平安時代末期の治承4年(1180年)頃の源平合戦時、平教盛の子の教経が陣所にしていたと伝えられています。氷室神社からは、当時、豊富な清水がわき「陣場の井」と呼ばれていました。
 平教経の兄の通盛と妻小宰相がこの地で今生の名残を惜しんだと言われています。
 湊川合戦は、南北朝時代の1336年((建武3年)5月25日)摂津国湊川(現・兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で、九州から東上して来た足利尊氏・足利直義兄弟らの軍と、これを迎え撃った後醍醐天皇方の新田義貞・楠木正成の軍との間で行われた合戦です。楠木正成、家来をつれて小林家(氷室神社社家)を訪れ、地図と会下山の砦を築く為の人夫を差し出し、幟と弓矢を拝領しました。 

神戸市兵庫区氷室町2丁目15-1
map

鳥居

由緒書

説明文





















































灯篭と参道

手水舎

平通盛と小宰相の説明書

看板

境内にて

室田大明神

金龍神



本堂

石神大神、豊受姫大神、木戸明王

春日大社、皇大神宮、猿田経彦之命の社

権兵衛大神

氷室大明神、丸亀大明神、尊通大明神



おせき天



八大龍王大神

氷室稲荷



氷室

氷室入口の石碑

雑感
武器の海外販売が解禁であるとか、各地で戦争、派兵が当然視されようとする世になりつつある中で、まず話し合いで紛争となるのを防ぐ努力がいるのではないか。神や仏を信ずるかどうかは別としても、だいこくさまのお気持ちが通じてほしいものです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

立江寺

2014-05-03 23:00:16 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
立江寺(タチエジ)「たちえのお地蔵さん」で親しまれています。真言宗 大覚寺派 立江寺別院です。幼稚園も併設しています。
四国八十八ヶ所霊場第十九番立江寺の別院として大正10年に創建されました。戦災で一切が消失し、昭和26年に再建されましたが、阪神・淡路大震災で大きな被害にあい平成10年9月に無地完成となりました。
神戸市内が一望できる地にあります。参道には四国八十八か所霊場があります。

神戸市兵庫区北山町12-5
map

参道での如来など

































平和の鐘

萬霊堂

境内にて



手水





立江子安千体地蔵尊

本堂新築記念碑

境内からの景色
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大山咋神社と平清盛

2014-05-03 22:09:39 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
大山咋(おおやまくい)神社は、石井川上流の石井橋北東の山王町にあり、「西攝大観」には、「村社大山咋神社石井村字湊山に在り、大山咋命を祭る、建物二棟境内二百坪余なり」とあります。祭神の大山咋命は山をつかさどる神様なので、「山王さん」と呼ばれていました。山王町の名はここからきました。
由緒書によれば、創立年月は不詳ですが、平清盛福原遷都に際し、五條大納言邦綱に雪御所鎮護のため再建造営なさしめたと伝えられ古くから日吉山王の社として崇敬されています。
5月4日の例祭のために氏子の世話役の人達が境内の清掃をしていました。
神戸市兵庫区山王町1-6-5
map
鳥居

拝殿

手水舎

境内



石井川での鯉のぼり
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「塞神(サイノカミ)」の碑、「塞神(サイノカミ)の松跡」の碑、祇園遺跡、雪見御所旧跡

2014-05-03 21:48:25 | 神戸市兵庫区
2014年5月3日
塞神の碑、平野の交差点と平野の祇園神社の中間あたりにあります。同じところに塞神の松跡の碑もあります。
昔、このあたり(奥平野村)を東西に通る古代からの人道「古道街道」がありました。この碑は、古道街道を通る旅人らの道中の安全を守ってくれる神さま(道祖神)として言い伝えられています。
天保の時代(一八三○~一八四四)このあたりに「塞神」をまつった塚があり、そこに生えていた榎が倒れたので掘り起こしたところ、大きな石が現れ、その 下から甲冑、剣、馬具などが出てきました。しかし、当時の人はたたりがあっては大変と埋めてしまい、山伏をよんで祈祷させたとの言い伝えがあります。


塞神の松跡の碑
 昔、上祇園町のこのあたりに「塞神ノ松」とか「祇園の一本松」とよばれていた大きな松がありました。「和田の沖をゆく船が、この松を見て舵を直した」と言われるほど有名な松でした。この松は戦時中に枯れて今はありませんが、その跡に昭和十六年十二月、上祇園町内会がこの「塞神の松跡」の碑をたてました。


祇園遺跡
治承四年(一一八〇年)、平清盛によって福原遷都が強行され、わずか半年ではありましたが、福原荘・和田荘と呼ばれたこの地に都がおかれていました。平清盛の邸宅はここ平野にあり、平野殿と呼ばれていたことが記録の上で確認できます。
大輪田の泊や福原荘・和田荘を見晴らす、ここ平野の地が福原京の中心地域でした。一九九三年、国道四二八号線拡幅整備工事に先立つ発掘調査で、この公園 のすぐ西側から、底に石を敷く池がある貴族の邸宅の庭園が見つかりました。出土した宋からの輸入陶磁器や大量の土器などから、貴族の生活がうかがわれま す。ただし、この調査ではそのごく一部が見つかったにすぎず、池の大部分や御殿などは今もこの地下に眠っています。


雪見御所旧跡
神戸市兵庫区雪御所町2-1
map
説明文より
平安時代末期、平家一門が日宋貿易の港である大輪田泊を見晴らす福原の地を領有し、ここに多くの邸宅を構えた。治承四(一一八○)年、政権の強化を図った 平清盛が孫の安徳天皇を奉じて都造りをはかったのが「福原遷都」である。しかし都造りは中途で頓挫、半年で平安京に遷都したため実態としての都は完成しな かった。
 「平家物語」などには平清盛が福原の地にいくつかの邸宅を持っていたことを伝える。そのひとつが「雪見御所」で、その名を伝える雪御所町に存在した可能 性が高い。
一九八六年に湊山小学校の校舎建設に先立ち行われた発掘調査(雪御所遺跡第一次発掘調査)で確認された石垣のひとつはこの南の字境に一致する。これは雪見御所の南を画する石垣、またはそれを踏襲する字境の石垣である可能性が考えられる。
 雪見御所の北に安徳天皇が「福原遷都」の半年を過ごした「本皇居」=「平野殿」のあったこと、また清盛邸の近隣に子息宗盛(むねもり)邸のあった可能性 が当時の貴族の日記の記述などから知られる。発掘調査によっても雪御所町の東にあたる上祇園町の祇園遺跡で平安時代末期の貴族の邸宅あとの庭園の存在が確 認されている。古記録と発掘調査の成果から、この地に「福原京」の時期を中心とする平家の邸宅がいくつも存在することを推測することができる。ここ「平 野」の地はまさに碑の名の示すとおり「平」家の本拠があった「フィールド(野)」といえるだろう。
 この「雪見御所旧跡」の石碑は、明治三九年に湊山小学校の校庭より掘り起こされた、往時の御所の庭造りに使用されていたと考えられる石に、明治四一年に湊山小学校三代校長篠崎三郎氏が、生田神社宮司田所千秋氏の揮毫を得て、設置したものである。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする