2017年12月29日、28日香川県の引田のまち並み散策、志度寺、琴平散策、塩江温泉に宿泊し、国分寺、神谷神社にお参りし、岡山に進みます。瀬戸大橋のパーキング与島で一服、昼食です。
やっぱ、うどんかな。
釜玉うどん大盛504円にしました。
矢掛宿のなりたち
「江戸時代の山陽道(西国街道)は、幕府が直轄する五街道に次ぐ主要な街道でした。山陽道は大坂を起点に小倉を終点とする約128里で、その間に52の宿駅がありました。矢掛宿はその宿場町のひとつとして小田川に沿った自然堤防上に設置されました。矢掛宿が設置された正確な年代は、必ずしも明らかではありませんが、1615~42年(元和~寛永期)のころ、当時の備中松山藩池田氏の時代に設置され、1690年代(元禄初年頃)の幕府領の時代にかけて整備されたものと考えられています。武家諸法度が1635年(寛永12)に改正されてから、江戸と領地とを隔年に往復する大名の参勤交代が制度化されてから、街道の整備がいっそう進みました。宿場の最も重要な職務は、幕府御用の荷物(御用物)・手紙(御状箱)及び幕府御用役人、それに参勤大名らを宿場から宿場へ継ぎ送ることでした。これらはいずれも公用交通を最優先するしくみで、継ぎ送りには宿場に備えた人と馬を無賃または格安の賃金で使用することができました。人と馬とで継ぎ立てる任務のことを、当時は伝馬役といい、これらの任務に対する補償として、町内の屋敷地の年貢(地子)の免除も行われていました。この伝馬役は屋敷の間口に応じて負担したため、街道に面した町並み全体が一部を除いて間口が狭く奥行きの長い屋敷(「うなぎの寝床」という)が続くという、宿場町独特の景観をもたらしたのです。こうした町並み景観は、いくぶん変化したものの今日まで伝わっています。」
map
町家のみどころ
「矢掛の町家は伝統的な本瓦葺が多く、正面の型は妻入り、平入りいずれもよく見られます。屋根や開口部に虫籠窓、なまこ壁、袖壁、平格子など伝統的意匠を数多く残しています。宿場内には家々が密集しているため、防火対策として漆喰で軒裏まで塗り籠めた出桁造りのものや袖壁を付したものが見られます。また、鬼瓦に水物(鯱など)を使うことで、火災除けとしている家もあります。」
まずは、矢掛町のふれあい広場に駐車して散策です。
旧山陽道です。
史跡、旧山陽道一里塚跡
「一里塚とは一里ごとの目印として道路の両側に土を盛って木を植えたところをいいます。一里塚を造り始めたのは織田信長で、その後、豊臣秀吉・徳川家康が全国に広めました。江戸時代の一里塚は、三十六町を一里とし、街道の両側に榎・松等を植えさせました。これは旅人の里程の目安となり木陰は休憩所となりました。現在、矢掛町には3ケ所の一里塚跡が確認できます。」
矢掛脇本陣高草家住宅(重要文化財)
「大名の泊まる本陣職が世襲でったのに対し、それ以下が泊まる脇本陣は時に応じて指定され、矢掛では7~8軒の商家が努めました。庭瀬藩の掛屋(会計方)であり、藩札の発行もした最後の脇本陣高草家の建物がそのまま残されています。」
路地
コロッケ屋さん
妻入り五軒並び
「屋根の棟と直角に交わる三角形の面「妻の側に出入口がある形式を妻入り」と言います。中町の東寄りには五軒の妻入り町家が立ち並ぶ一画が有ります。愛らしい妻面の表情、ほぼ同じ高さに揃った下屋庇、そして軽やかな格子戸が見どころです。」
矢掛本陣石井家住宅(重要文化財)
「寛永12年(1635)から幕末まで200年以上本陣職をつとめた石井家は庄屋であるとともに酒造業を営み、矢掛きっての豪商、大地主でもありました。建物には建築の粋がこらされています。」
胡宮
「宿場の繁栄を願って建立されました。」
観音寺
再び街並みへ
やかげ郷土美術館
「高さ16mもある赤松板張りの水見やぐらが目を引く美術館。収蔵品は矢掛出身の書家・田中塊堂と洋画家・佐藤一章の作品が中心。」
矢掛屋・温浴別館
鬼瓦、可愛いですね。
お疲れ様でした。
やっぱ、うどんかな。
釜玉うどん大盛504円にしました。
矢掛宿のなりたち
「江戸時代の山陽道(西国街道)は、幕府が直轄する五街道に次ぐ主要な街道でした。山陽道は大坂を起点に小倉を終点とする約128里で、その間に52の宿駅がありました。矢掛宿はその宿場町のひとつとして小田川に沿った自然堤防上に設置されました。矢掛宿が設置された正確な年代は、必ずしも明らかではありませんが、1615~42年(元和~寛永期)のころ、当時の備中松山藩池田氏の時代に設置され、1690年代(元禄初年頃)の幕府領の時代にかけて整備されたものと考えられています。武家諸法度が1635年(寛永12)に改正されてから、江戸と領地とを隔年に往復する大名の参勤交代が制度化されてから、街道の整備がいっそう進みました。宿場の最も重要な職務は、幕府御用の荷物(御用物)・手紙(御状箱)及び幕府御用役人、それに参勤大名らを宿場から宿場へ継ぎ送ることでした。これらはいずれも公用交通を最優先するしくみで、継ぎ送りには宿場に備えた人と馬を無賃または格安の賃金で使用することができました。人と馬とで継ぎ立てる任務のことを、当時は伝馬役といい、これらの任務に対する補償として、町内の屋敷地の年貢(地子)の免除も行われていました。この伝馬役は屋敷の間口に応じて負担したため、街道に面した町並み全体が一部を除いて間口が狭く奥行きの長い屋敷(「うなぎの寝床」という)が続くという、宿場町独特の景観をもたらしたのです。こうした町並み景観は、いくぶん変化したものの今日まで伝わっています。」
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町家のみどころ
「矢掛の町家は伝統的な本瓦葺が多く、正面の型は妻入り、平入りいずれもよく見られます。屋根や開口部に虫籠窓、なまこ壁、袖壁、平格子など伝統的意匠を数多く残しています。宿場内には家々が密集しているため、防火対策として漆喰で軒裏まで塗り籠めた出桁造りのものや袖壁を付したものが見られます。また、鬼瓦に水物(鯱など)を使うことで、火災除けとしている家もあります。」
まずは、矢掛町のふれあい広場に駐車して散策です。
旧山陽道です。
史跡、旧山陽道一里塚跡
「一里塚とは一里ごとの目印として道路の両側に土を盛って木を植えたところをいいます。一里塚を造り始めたのは織田信長で、その後、豊臣秀吉・徳川家康が全国に広めました。江戸時代の一里塚は、三十六町を一里とし、街道の両側に榎・松等を植えさせました。これは旅人の里程の目安となり木陰は休憩所となりました。現在、矢掛町には3ケ所の一里塚跡が確認できます。」
矢掛脇本陣高草家住宅(重要文化財)
「大名の泊まる本陣職が世襲でったのに対し、それ以下が泊まる脇本陣は時に応じて指定され、矢掛では7~8軒の商家が努めました。庭瀬藩の掛屋(会計方)であり、藩札の発行もした最後の脇本陣高草家の建物がそのまま残されています。」
路地
コロッケ屋さん
妻入り五軒並び
「屋根の棟と直角に交わる三角形の面「妻の側に出入口がある形式を妻入り」と言います。中町の東寄りには五軒の妻入り町家が立ち並ぶ一画が有ります。愛らしい妻面の表情、ほぼ同じ高さに揃った下屋庇、そして軽やかな格子戸が見どころです。」
矢掛本陣石井家住宅(重要文化財)
「寛永12年(1635)から幕末まで200年以上本陣職をつとめた石井家は庄屋であるとともに酒造業を営み、矢掛きっての豪商、大地主でもありました。建物には建築の粋がこらされています。」
胡宮
「宿場の繁栄を願って建立されました。」
観音寺
再び街並みへ
やかげ郷土美術館
「高さ16mもある赤松板張りの水見やぐらが目を引く美術館。収蔵品は矢掛出身の書家・田中塊堂と洋画家・佐藤一章の作品が中心。」
矢掛屋・温浴別館
鬼瓦、可愛いですね。
お疲れ様でした。