旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

メルヴェール有馬

2019-07-26 17:47:42 | 温泉、旅館、ホテル
2019年7月23日、宿泊しました。
 神戸電鉄有馬温泉駅から徒歩2分のところに立地しています。お風呂は金泉と銀泉があります。金泉は鉄分や塩分が多量に含まれており、空気に触れると茶褐色となります。銀泉は無色透明で、炭酸泉とラジウム泉を混合しています。こちらのホテルは両方の湯船があります。ジェット風呂、水風呂、サウナ風呂、露天風呂があります。
 近場なので、少し早めに到着し、温泉街を散策して、夕食前、夕食後、翌日の早朝と入浴しました。
 食事は量を控えめの「末広 御膳」でした。
神戸市北区有馬町ウツギ谷1670-5
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玄関

ロビー







廊下



室内



部屋からの景色、有馬温泉駅に電車が止まっています。



食事会場

夕食です。もちろん生ビールを飲みながらの食事です。少し足らなかったので桃酒もいただきました。
末広御膳
先付け・トマト豆腐、お造り、南瓜の蒟蒻麺、太刀魚洋風焼き、茄子田楽、蓮根穴子饅頭、フリッター揚げ、笹麩饅頭、、鍋物、白桃プリン



















朝食、バイキング形式です。

ご馳走様でした。
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津田石清水神社・鳴門市ドイツ館

2019-07-06 21:45:48 | 香川
2019年7月4日、四国観光で神戸に帰る途中にお参りしました。
津田石清水神社
説明書より「古くは難波津(ナニハヅ)と呼ばれ、海外では朝鮮半島と、又国内では畿内(大和朝廷)などと交易のあった津田浦の氏神社で、仁和年間(885~888)、山城国(京都男山)石清水八幡宮の分霊を勧請、現在地の西方にある雨滝山麓に津田八幡宮として鎮座しました。雨滝城主安富氏の保護も篤かったと伝えられています。1583(天正11)年、長宗我部軍の兵火により衰退しましたが、1592(文禄元)年8月に再興しました。この後、1600(慶長5)年、現在地に遷座しました。跡地は座殿池という名のため池となっています。1872(明治5)年、現在の石清水神社と改称しました。」
香川県さぬき市津田町津田106番
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境内案内図











狛犬



随神門









境内

手水舎

拝殿

狛狼(日本狼が祀られているのは珍しいですね。)



本殿



猫様が番をしていた。





神馬



三社









加茂神社







鳴門市ドイツ館
「1917年から1920年までの3年間、ドイツ兵俘虜と板東の人々のあたたかい交流から始まりました。第1次世界大戦が始まると、日本も参戦し、ドイツの租借地だった中国の山東半島にある青島を攻撃しました。敗れたドイツ兵士約5,000人が俘虜となり、日本各地の収容所に送られました。その内、四国の徳島・丸亀・松山に約1,000人が板東俘虜収容所で過ごしました。地域の人々は、俘虜たちの進んだ技術や文化を取り入れようと牧畜・製菓・西洋野菜栽培・建築・音楽・スポーツなどの指導を受けました。そして板東の街並みでは、俘虜たちを「ドイツさん」と呼び、彼らとの間で日常的な交歓風景があたれまえにみられるようになりました。1972(昭和47)年に旧ドイツ館が建設され、1974年に鳴門市とドイツ・リューネブルク市との間で姉妹都市盟約が締結されました。それ以降、両市は相互に親善訪問団を派遣するなど国際交流が活発に展開されるようになりました。1993年に新しいドイツ館が完成しました。」
徳島県鳴門市大麻町桧字東山田55-2
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賀川豊彦記念館
「賀川は、1889(明治21)年に神戸で生まれました。4歳の時に両親を亡くし、父の家がある鳴門市大麻町に引き取られました。孤独、家の破産、病苦など、多くの苦難を乗り越え、賀川は神戸神学校の学生だった21歳の時、神戸のスラムに入り、救済活動を行いました。その後、自伝的小説『死線を越えて』を執筆し、400万部を超えるベストセラーとなります。そして労働運動、農民運動、生活協同組合運動に献身し、関東大震災ではいち早く被災地に入り、救援活動に尽力しました。戦後は世界連邦運動を提唱し、世界平和を訴えました。ガンジやシュバイツァーと並んで世界の三大偉人と呼ばれ、現在も賀川の活動は、様々な組織で引き継がれています。」

第九の里物産館


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史跡高松城

2019-07-06 21:42:29 | 香川
2019年7月3日から4日の四国観光で行きました。
説明書より「高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれていますが、その由来は万葉集で柿本人磨が讃岐の国の枕詞に「玉藻によし」と詠んだことに因んで、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによると言われています。
 この城は、1587(天正15)年に、豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が、1588(天正16)から香東郡野原庄(篦原)と呼ばれていた現在地を高松と改め築城に着手した平城(水城)です。縄張り(設計)は、当時築城の名手であった黒田孝高(如水)とも細川忠興ともいわれています。瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は、日本の三大水城のひとつといわれています。城には、本丸を中心に時計廻りの方向に二の丸、三の丸、桜の馬場、西の丸が配され、三重の堀とともに堅固な構えとなっていました。
 生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、1640(寛永17)年に生駒騒動といわれる御家騒動により、讃岐一国を召し上げられ、出羽国(秋田県)矢島1万石に移されました。このあと、1642(寛永19)年に当時常陸国(茨城県)下館藩主だった松平頼重が東讃岐12万石の領主として入城しました。頼重は徳川家康の孫で、徳川光圀(水戸黄門)の兄にあたります。将軍家と近親の関係にあった頼重は中国・四国の監察役を命じられていたといわれています。頼重以降、松平氏の治世は11代228年間にわたり、高松は松平氏の城下町として栄えました。
 お城は、1870(明治3)年に廃城伺を提出し許可され、一時、政府の所管となりましたが、1890(明治23)年に城跡の一部が松平家に払い下げになり、1945(昭和20)年には松平家から公益財団法人松平公益会に継承され、さらに1954(昭和29)年に高松市が譲り受けて、高松市立玉藻公園として一般開放されました。現在の玉藻公園の面積は79,587㎡(約2万4千坪)で、往時の城域66万㎡(約20万坪)と比べると8分の1ほどの広さです。城跡には重要文化財の月見櫓、水手御門、渡櫓や艮櫓とともに石垣や塀などが残り、国の史跡に指定されています。」
香川県高松市玉藻町2-1
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玉藻公園駐車場に車を停めます。(駐車料金無料)、入園料は200円です。
案内図

旭橋と旭門
「かつて、城の南側に桜の馬場の南中程に大手門がありましたが、1671(寛文11)年頃、三の丸に藩主の住居である旧披雲閣が建てられたため、これを廃して新たに東に旭橋を架け、それを渡って旭門から出入りするようになりました。」





旧東之丸艮櫓(重要文化財)
「艮櫓はもともと東の丸の北東の櫓(現在の県民ホール敷地内)にあった櫓で、北東の方角を丑寅ということからこの名前があります。完成は1677(延宝5)年といわれ、月見櫓と同時期につくられました。三重三階・入母屋造・本瓦葺で、形は月見櫓と似ていますが、初重に大きな千鳥破風があるのが特徴です。」







枡形

















天守閣跡
「生駒氏時代の天守は、絵図や古文書によると3重だったとされています。松平氏時代の1670(寛文10)年に改築された天守は3重5階の南蛮造りで四国最大を誇っていました。」



鞘橋
「本丸と二の丸を結んでいる唯一の連絡橋で、当初は欄干橋でしたが、江戸時代中期末頃にはこのような屋根付の橋になったようです。」

桜御門跡
「三の丸入口の櫓門で1945(昭和20)年の高松空襲により焼失しました。石垣には火災により赤く焼けた痕跡や、地面に残る礎石には柱に使用された金具の錆跡が茶色く残り、往時の姿を偲ぶことができます。」









披雲閣(重要文化財)
『披雲閣は、高松城跡の三の丸に所在する旧高松城主の松平家の別邸である。清水組の設計、施工により、大正6年に完成した。三の丸の南面に開く桜御門を正門として敷地の中央に本館を建て、海に面した北側に庭園をつくる。本館は、接客、居住、家政などの機能をもつ各部を廊下で接続する。江戸時代の御殿を意識した伝統的な配置や意匠をもち、百四十二畳敷の「大書院」から複数の小座敷を配した「杉の間」まで、充実した接客空間を擁する。 披雲閣は、旧城主によって近代に建設された大規模な和風住宅であり、江戸時代の城跡に再建された希少な事例である。また、近代的な組織体制により設計と施工の管理が徹底された住宅建築であり、大正時代におけるわが国の大規模和風住宅の技術的水準を示すものとして重要である。』





























披雲閣庭園















































報時鐘

北之丸月見櫓(重要文化財)
「月見櫓は北の丸の隅櫓として1676(延宝4)年頃に完成したといわれ、出入りする船を監視する役割を持つとともに、藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見たので[着見櫓]ともいわれています。総塗籠造りの三重三階・入母屋造・本瓦葺で、初重は千鳥破風、二重は唐破風と屋根の形を対象させています。月見櫓に連なる薬医門様式の水手海門は、いわば海の大手門です。」











水手御門(重要文化財)










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宇夫階神社(宇多津町)

2019-07-06 21:40:21 | 香川
2019年7月3日~4日の四国観光で宇夫階(うぶしな)神社にお参りしました。予讃線の宇多津駅より北東約800m位の位置です。
説明書より「日本武尊の皇子武殻王阿野郡に封を受け海上御巡視の折暴風雨に遭われ、宇夫志奈大神に御祈念遊ばされるや、一羽の鳥が飛び来る。王は水夫に命じて鳥の行く方に漕がしめられたところ、本島の泊に着き難を免れ給うた事により小鳥大神と仰がれるに至った。この社元津之郷に鎮座、平城天皇の807(大同2)年に現地に遷座、清和天皇の御代に神階従五位下を、宇多天皇の御代更に従五位上に昇叙された。国史に社名の見える国史現在社という古社で、明治27年県社に列せられた。」
香川県綾歌郡宇多津町1644
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鳥居

狛犬





社標

由緒書



参道の階段

手水舎

社務所(登録有形文化財)
「齋殿の東に接続する。入母屋造本瓦葺で、庇を設け、齋殿寄りに入母屋造本瓦葺の式台玄関を付ける。内部は中廊下式で正面側に応接室や事務関係、奥に座敷や居間を配し、西端に土間を設ける。座敷にはトコやトコ脇、平書院を構える。近代的な社務所の一例。」

鳥居

拝殿

神饌殿(登録有形文化財)
「拝殿の南隣に東西棟で建つ。桁行三間梁間三間、入母屋造妻入銅板葺。壇正積基壇上に建ち、方柱で舟肘木を置き、一軒疎垂木。正面中央に両開板戸をたて、側面前一間、背面中央一間に格子窓を開け、他は腰板張とする漆喰仕上げの真壁で、平明な外観を構成する。」

本殿(登録有形文化財)
「昭和28年の式年遷宮で造営された豊受大神宮の多賀宮御正殿。次の式年遷宮に際し解体,頒賜された。桁行3間,梁間2間,切妻造の茅葺型銅板葺屋根を架ける。縁を廻さず,棟持柱,堅魚木,千木をもつ正式の神明造で,掘立て柱の伝統的工法をよく残している。」





神輿蔵(登録有形文化財)
「本殿の南方に位置し北面する。桁行9.6m梁間4.8mの土蔵造、切妻造本瓦葺。石積基壇上に建ち、腰を黒色のモルタル仕上げ、上部を白漆喰仕上げとする。腰内部は二室に間仕切り、それぞれに緩い起りの切妻造銅板葺の庇を付けて、硬質な外観に変化を与える。」





忠魂社本殿(登録有形文化財)
「本殿の西南に位置し、東面する。高い亀甲積基壇上に建つ入母屋造銅板葺の浜縁付一間社。正側面に高欄付の切目縁をまわし、正面に木階を付ける。出組詰組、二軒繁垂木とするなど、塩竃神社本殿に比べて規模が小さいものの、同様の構造形式とする。」

神馬













末社金刀比羅宮拝殿及び幣殿(登録有形文化財)
「塩竈神社本殿の西北に南面して建つ。桁行三間梁間二間、入母屋造本瓦葺で、正面に向拝一間、背面に幣殿を付設する。内部は拭板敷で、棹縁天井を張り、正面に縁を付ける。向拝のみ三斗組とし、中備に波紋彫刻を置く。身舎は組物などを省略し簡明な外観とする。」







末社塩竃神社
鳥居





拝殿及び幣殿(登録有形文化財)
「塩竈神社本殿の正面に位置する。桁行三間梁間二間の入母屋造銅板葺で、正面に軒唐破風付一間向拝を付設。背面に桁行三間梁間三間切妻造の幣殿を突出する。正面中央に双折桟唐戸、両脇に蔀戸を装置する。安定感のある外観で、向拝の龍や鳳凰の彫刻は出色。」





本殿(登録有形文化財)
「小丘に占める境内の最上段、本殿の北方に位置し、高い亀甲積基壇上に建つ。桁行一間梁間一間、入母屋造、向拝一間、銅板葺の社殿で、正面に千鳥破風と軒唐破風を付ける。本支輪付の出組詰組とし、要所に彫物を飾る。二軒繁垂木。瀟洒ながら本格的な仕様になる。」

雑庫(登録有形文化財)
「明治中期(1868-1911)の建築、本殿の東南、一段低い位置に建つ。桁行5.0m梁間4.8mの2階建土蔵。切妻造本瓦葺で妻入とし、緩い起りの切妻造桟瓦葺の屋根を正面に付ける。腰は目地切をしたモルタル仕上げで、上部は白漆喰仕上げ。小屋組はトラス組。社頭景観を構成する一要素である。」


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大江戸物語 ホテル・レオマの森

2019-07-06 21:36:56 | 温泉、旅館、ホテル
2019年7月3日、四国観光で利用しました。レオマリゾートに隣接しているホテルです。金比羅宮からも比較的近くです。お風呂は、単純弱放射能冷鉱泉です。朝夕は男女入れ替え制で、シャンパンの湯、薬草の湯、露天の森の湯、サウナなど湯の温度も複数、湯船が数種類あり、温泉を楽しめます。食事はバイキング形式で、夕食は豊富な品数でした。朝食は団体客の関係もあり、8時20分からと少しゆっくりとなりました。
香川県丸亀市綾歌町栗熊西40-1
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レオマリゾート









送迎バス

外観



玄関

フロント



ロビー

売店







室内プール

マンガコーナー

WiFiコーナー



廊下



室内



おもてなし

窓からの景色



夕食バイキング形式











マグロ





食事会場から





朝食です。


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箸蔵寺

2019-07-06 21:35:10 | 徳島
2019年7月3日、四国観光で1泊2日の旅行です。貞光の町並み散策の後に、箸蔵寺にお参りしました。
ロープウェイは往復1540円です。15分間隔で運行しています。
パンフレットより「真言宗別格本山箸蔵寺は、箸蔵山600mの山頂にあり約1200年の昔、弘法大師がこの地で修行された折、金毘羅大権現のお告げを受け、本尊として箸蔵寺をお開きになりました。以来、杉、桧がうっそうと茂る中に国指定重要文化財の本殿、薬師堂、護摩堂等30余りの建物が点在し、左甚五郎の弟子の作といわれる彫刻と箸の寺として全国より参拝者が訪れております。また四国別格霊場二十ケ寺の15番札所、四国三十六不動霊場第4番札所としても多くのお遍路さんが参拝に訪れております。」
徳島県三好市池田町州津蔵谷1006
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箸蔵寺駅









境内案内図

中門(国登録有形文化財)
「中門は、伽藍中段にある方丈に入る門で、東西棟で建つ。切妻造桟瓦葺の一間薬医門で、門の両脇に袖塀を付け、片引きの潜り戸を開き、規模が大きく威厳のある構えとなっている。構造は、五平の本柱を冠木や虹梁形のまぐさで固め、男梁を四通りに架す。男梁上に大斗肘木を置き、梁や桁を支持している。一軒疎垂木で、妻虹梁大瓶束を乗せ、全面に格天井を張っている。中央の男梁下の女梁を省略し、柱筋のみ化粧的な籠彫りの女梁を挿している。建築年代は、組物等から明治初頭の建立と推察される。」

方丈(重要文化財)
「方丈(本坊)は東西に長い建物で部屋がいくつもあり、寝泊まりする人への食事を準備する庫裏や宿坊・読経所・書院・離座敷などと接合する大規模な建築である。1856(安政3)年の箆書きがある平瓦が残り、本殿との一連の造営と一致している。建物全体は入母屋造であるが、方丈やや中央に張り出しの切妻造で妻側に建築年代を示す唐破風の装飾が付けられる大玄関がある。その西側には小玄関があり大玄関から小玄関の廻りが方丈の顔となる。特に開閉装置の戸袋の彫刻は荘厳で鏡板全面に虎の彫刻が施されている。このような大規模で装飾的な建築は四国にも類がなく、その時代の建築を知る上で貴重な建造物である。」









境内

納経所

護摩殿(重要文化財)
「護摩電は本殿を少し小さくしたような建物で、全体の構成や彫刻の様子もほぼ同じであることから造営の時期は本殿と同じ時期といわれる。建物は入母屋造の外陣と宝形造の奥殿を切妻造の内陣で繫いだ複合殿形式であり、本殿同様規模が大きく、目を見張る建築である。意匠も優れており、組物は外陣が三手先、内陣が二手先、奥殿が三手先とし、建物の格付けに合わせて使われているほか、彫刻が多用され、装飾性を高めている。このように複合社殿形式としながらも奥殿屋根のように仏寺建築を混交する手法は極めて特異性を持ち、その時代の建築を知る上で貴重な建築物である。」





















ぼけ封じ観音

般若心経 昇経段
「この階段は本坊より本殿までの石段の段数が278段となっています。これは仏教で最も読経されている『般若心経』の文字数と同じです。」







鐘楼堂(重要文化財)
「鐘楼堂は護摩堂や薬師堂と一連の造営で江戸時代末期から明治初期に建立されたといわれている。一般の鐘楼によく見られる袴腰風の造りとは逆の発想で下層の柱の間を板壁で囲う楼造とする特異な建物で、四本柱の鐘楼と比べるとひと回り大きい建築である。屋根は勾配の緩やかな入母屋造で桟瓦を葺き、軒には一軒の扇状の垂木を配し禅宗の造り方を取り入れている。境内にある他の建物に比べると、彫刻が少なく簡素な意匠であるのは鐘を撞くという機能を優先させたものといわれている。」







本殿への階段



薬師堂(重要文化財)
「薬師堂は祈祷札から1861(文久元)年直前の建立といわれている。建物は三間四方で宝形造の屋根を付け、正面に一間の向拝を構える。組物は身舎を平三斗、向拝を出三斗とし、附属堂の様相を示している。堂内にある厨子は虹梁や木鼻の絵様から江戸時代中期の様相を顕している。破風尻など至るところに彫金を多用し、浅唐戸、中備え彫刻など全体に彩色するなど賑やかに仕上げられ、禅宗様式が色濃く出ている。建物より古く1826(文政9)年の大火の際に持ち出され、火災を免れたものと言われている。このような装飾的な建築は四国にも類がなく、その時代の建築を知る上で貴重な建築物である。」











天神社本殿(重要文化財)
「天神社本殿は小さな社であるが細部まで彫刻が多用され、虹梁の絵様などから江戸末期一連の造営といわれている。建物は土台建てで間口が一間の流造と呼ばれる形式の社殿で屋根は銅板で葺かれている。神仏の信仰が混在していた時期には寺院に神社があるのは普通であって、今日では神社の形をしていても仏堂の名を使う寺院が多いので箸蔵寺ではかつての信仰の様子をよく残していることがわかる神社本殿である。このような特異で見応えのある建築物は四国にも類がなく、その時代の建築を知る上で貴重な建築物である。」





十三重の塔

御影堂









手水舎(国登録有形文化財)
「手水舎は、伽藍最上段の本殿東南に位置する。方一間で四方を吹放しとし、軒は二軒繁垂木、屋根は南北棟の入母屋造桟瓦葺である。礎盤上に立てた角柱を虹梁型頭貫と台輪で固める。内部は格天井を張り、組物は出組詰組とする。琵琶板に植物紋様を飾り、手水鉢の四隅を邪鬼で支えるなど、小規模ながら装飾性に富む手水舎である。建築年代は手水鉢銘や内部の長押面に取り付けられた額により、1896(明治29)年と推測される。現在も建築当時の姿をとどめ、時代の特徴がよく表れた箸蔵寺の特徴的な建造物として、国の登録有形文化財に認められた。」

本殿(重要文化財)
「箸蔵寺では中心建物を本殿と呼び、仏教と神道が一体となっていた時代の様相を色濃く残している。建物は外陣、内陣、奥殿からなり、山を背に建てられているため、外陣向拝部の地面から奥殿仏間の床までの高低差は11.38メートルある。入母屋造の奥殿と入母屋造の外陣を切妻造の内陣で繫いだ複合社殿形式で全国的にも最大級の規模を有する。細部の意匠が特に優れており、組物や彫刻が多用されている。1854(安政元)年以降に着工され、1861(文久元)年までに一部の制作を残しほぼ完成したといわれ、全てが完成したのは明治初頭といわれる。このような大規模で装飾的な社殿建築は四国にも類がなく、その時代の建築を知る上で貴重な建造物である。」























神馬

大聖不動明王









観音堂(徳島県指定有形文化財)
「観音堂は箸蔵寺で一番古い建物で細部の意匠や絵様から江戸初期に造られたといわれている。境内の奥まった位置に建ち、1912~26(大正)年間に清水寺[せいすいじ](徳島市)から移築されたとものといわれている。建物は入母屋造で大柄で本格的な三間堂である。江戸時代では禅宗の要素を用いることが多く、この仏堂にも台輪や木鼻があるが組物のほかは伝統的な仏堂の手法を用いている本格的な建物である。軒を支える組物は桃山様式を踏襲した和様の三手先と複雑で、寺院の中心の建物であったことを示している。内部は一室として奥に半間ほどの仏壇を構える。このような江戸時代初期まで遡る仏堂は県下でも少なく、その時代の建築を知る上で貴重な建築物である。




















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貞光の二層うだつの町並み

2019-07-06 21:31:30 | 徳島
2019年7月3日、四国観光をしました。神戸から明石海峡大橋、大鳴門橋、徳島自動車道、美馬ICで降りて、つるぎ町貞光に寄りました。九州は大雨との天気予報で心配しながら行きました。少し雨が降り中の観光です。まちなみ交流館に観光用の無料駐車場があります。
 つるぎ町は徳島県北西部に位置し、徳島市から吉野川を西に約60km上流です。JR徳島線の貞光駅から東南600mのところに古い町並みが広がります。
 貞光は江戸中期以降の郷町で商業と交通の要衝として栄えてきた。1955(昭和30)年頃まで、山村の葉煙草の収納、繭・こんにゃくの収穫と引き換えにに、農具・日用品・薬品などを購入する人々で賑わいを見せていて、脇町とならんで二大商業地を形成していた。一宇街道に沿う北町~南町への街路には商家が軒を並べ「うだつ」がその繁栄を象徴している。
 貞光のうだつは種類が多く、彫刻が施されているものもあり多種多様である。うだつに最初は鳥衾や鬼瓦を乗せる程度だったが次第に破風や懸魚、宝珠、家紋などがつけられるようになった。さらに漆喰で塗った上に鏝で風景や動植物なども描いているものもある。
道の駅貞光ゆうゆう館
徳島県美馬郡つるぎ町貞光大須賀

松尾神社



南に向かって歩きます。
二層厨子上下共切妻型



鯱の装飾瓦

つるぎの女神・酒の神様

単層二階切妻型

通り

二層厨子上下共切妻型



単層二階切妻型



屋根の鬼瓦

二層厨子上下共切妻型





旧永井家庄屋屋敷(つるぎ町指定有形文化財)
「南に切妻本瓦葺の表門を開き、築地塀に囲まれた約550坪の敷地の中に、母屋(主屋)、蔵やネドコ2棟等の建物群、また、井戸や鶴亀蓬莱庭(座視観賞式)等、その歴史を今に伝えるたたずまいを色濃く残している。18世紀後期に創建され、19世紀前期から明治時代に間取りの骨格が整ったであろう主屋を始め、蔵やネドコ2棟等の建物群が、今日まで維持されてきたこと自体希少なことである。」入館無料







































再び町並みへ
単層厨子切妻型

単層二階切妻型

二層厨子上下共切妻型、鏝絵・本家宇山(家号)

鏝絵・鯉の滝昇り



虫籠窓

二層厨子上下共切妻型







単層二階切妻型

二層厨子上下共切妻型、鏝絵・松と鷹









鏝絵・亀






















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