2021年12月23日、お参りしました。
説明書より「当社は出雲国風土記にいう『真名井社』延喜式に記す『真名井神社』で古い歴史をもつ意宇六社の一社である。背後の山は神名樋山で出雲国内神名樋山の一つで東南麓に真名井の滝を存す。中~近世は『伊弉諾社』として知られていたが明治以降は旧号に復し村社に列せられていた。」
島根県松江市山代町84
map
鳥居
狛犬
参道の階段
狛犬
石灯籠
拝殿
中門
本殿(島根県指定建造物)
「1662(寛文2)年建立で、内殿は正面に向かっている。殿内には彩色絵がある。大社造り檜皮葺きで周囲に透塀をめぐらす。」
神楽殿
倉
境内社・末那為神社(向かって右)
境内社・児守神社(向かって左)宍道若宮社、山代神社、荒神社が合祀してある。
説明書より「当社は出雲国風土記にいう『真名井社』延喜式に記す『真名井神社』で古い歴史をもつ意宇六社の一社である。背後の山は神名樋山で出雲国内神名樋山の一つで東南麓に真名井の滝を存す。中~近世は『伊弉諾社』として知られていたが明治以降は旧号に復し村社に列せられていた。」
島根県松江市山代町84
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鳥居
狛犬
参道の階段
狛犬
石灯籠
拝殿
中門
本殿(島根県指定建造物)
「1662(寛文2)年建立で、内殿は正面に向かっている。殿内には彩色絵がある。大社造り檜皮葺きで周囲に透塀をめぐらす。」
神楽殿
倉
境内社・末那為神社(向かって右)
境内社・児守神社(向かって左)宍道若宮社、山代神社、荒神社が合祀してある。
2016年7月11日、津和野観光で弥栄神社と太鼓谷稲成神社をお参りしました。
鳥居
弥栄神社
「この神社に伝わる古典芸能神事で、鷺舞が行われ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。」
鳥居
拝殿
本殿
大きな欅(津和野町指定天然記念物)
総霊社
由緒書
太鼓谷稲成神社
「日本五大稲荷の一つです。日本で唯一「稲成」と表記され、願望成就の願いが込められています。参道に連なる朱の鳥居が壮麗です。」
1400本あるとのことです。
map
階段を登ります。
続きます。
まだ続きます。
ここから拝殿まで5分です。
まだまだ続きます。
やっと着きました。
駐車場に戻ります。
歩いて暑いので津和野産ゆずソフトクリームを食べました。
あひるさんも休憩です。
高岡兄弟生誕地
お疲れ様でした。これで7月9日から岩国、柳井の町並み、山口市内、萩、津和野観光を終え、神戸に帰ります。
鳥居
弥栄神社
「この神社に伝わる古典芸能神事で、鷺舞が行われ、国の重要無形民俗文化財に指定されています。」
鳥居
拝殿
本殿
大きな欅(津和野町指定天然記念物)
総霊社
由緒書
太鼓谷稲成神社
「日本五大稲荷の一つです。日本で唯一「稲成」と表記され、願望成就の願いが込められています。参道に連なる朱の鳥居が壮麗です。」
1400本あるとのことです。
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階段を登ります。
続きます。
まだ続きます。
ここから拝殿まで5分です。
まだまだ続きます。
やっと着きました。
駐車場に戻ります。
歩いて暑いので津和野産ゆずソフトクリームを食べました。
あひるさんも休憩です。
高岡兄弟生誕地
お疲れ様でした。これで7月9日から岩国、柳井の町並み、山口市内、萩、津和野観光を終え、神戸に帰ります。
2016年7月11日、山口観光の後、津和野に寄りました。永明寺、乙女峠マリア聖堂とお参りした後、津和野の本通りを散策しました。
案内図
魚町通り
本町通り、古くからの店が多い、立ち寄りながら歩きます。
華泉酒造場店舗兼主屋(登録有形文化財)
このあたりから登録有形文化財の建物が並びます。
津和野カトリック教会(登録有形文化財)
「ゴシック様式によって建てられた畳敷きの教会で、鮮やかなステンドグラスが印象的です。」
大岡家老門
津和野町役場津和野庁舎(登録有形文化財)
藩校養老館(島根県指定史跡)
「森鴎外や西周など、数多くの優れた人材を輩出した藩校。藩校の一部は現在民俗資料館として使用されています。」
説明書
多胡家老門(島根県指定文化財)
ここから太鼓谷稲成神社にお参りします。
案内図
魚町通り
本町通り、古くからの店が多い、立ち寄りながら歩きます。
華泉酒造場店舗兼主屋(登録有形文化財)
このあたりから登録有形文化財の建物が並びます。
津和野カトリック教会(登録有形文化財)
「ゴシック様式によって建てられた畳敷きの教会で、鮮やかなステンドグラスが印象的です。」
大岡家老門
津和野町役場津和野庁舎(登録有形文化財)
藩校養老館(島根県指定史跡)
「森鴎外や西周など、数多くの優れた人材を輩出した藩校。藩校の一部は現在民俗資料館として使用されています。」
説明書
多胡家老門(島根県指定文化財)
ここから太鼓谷稲成神社にお参りします。
2016年7月11日、山口観光の後、津和野に寄りました。鷲原八幡宮、森鴎外旧宅、西周旧居の後に、自動車を移動し永明寺の駐車場に着きました。ここを起点に津和野の町並みを散策します。
永明寺(ようめいじ)(津和野町指定文化財)
「曹洞宗で、山号は覚皇山です。応永27年(1420)に津和野城主吉見頼弘によって創建され、開山は開祖道元禅師の法孫月因和尚です。江戸時代には曹洞宗の寺院として栄え、石見国一円の禅寺を統括し末寺70余を擁し、又禅道場としても有名で雲水200人を超え、寺領として虹ケ谷村に100石を領していた。吉見、坂崎、亀井氏といった歴代の津和野城主代々の菩提寺です。寺は度々火難にあったが、現在のものは享保14年(1729)に建てられたもので、仮普請のままながら畳数400枚を数える一大古刹です。大きな山門は元殿町にあった町門を移したものです。庭は幽邃そのもので殿様御なりの間から観ると一入情趣があります。寺全体が町の文化財指定です。」
拝観料は300円です。
島根県津和野町後田ロ107
map
境内図
参道
山門
「覚皇山」の額
「明の帰化僧心越禅師(水戸光圀の師)の揮毫です。」
境内
説明書
弁天堂
中門
経蔵
鐘楼
本堂
魚鼓
大島松渓絵
森鴎外の墓
次は乙女峠マリア聖堂に行きます。
津和野駅です。
清水です。
ひんやりとした小川です。
キリシタン殉教乙女峠
「慶応元年(1865)長崎浦上の4千人以上の隠れキリシタンから少数の者が、当時フランス寺として呼ばれて今の浦上天主堂に入り「サンタマリアの御像はどこ。ここに居ります私たちは、皆、あなた様と同じ心でございます。」との有名な言葉によってキリシタン発見は、はっきり認められ、キリスト教の歴史の中に入りました。徳川250年間以上のきびしい迫害にも彼らの先祖たちがキリスト教を守りつづけたことを、全世界は感嘆して受け止めたのです。しかしキリシタンの喜びもつかの間で「浦上四番崩れ」といわれる弾圧が始まり、およそ3400人が見知らぬ土地に流罪の刑を受けました。鹿児島、萩、名古屋等の22カ所が選ばれ、その中に津和野も加えられました。浦上の信徒の指導者が津和野藩に預けられたのは、この地が神道研究で隆盛を当主亀井茲監が神道による教道教化に相当の自信を抱いていたからでした。藩出身の国学者である福羽美静の指導で津和野藩はキリシタンの信徒を改心させる務めを負いましたが、キリシタンの信仰は厚くたやすく改心させることは出来ませんでした。そこで彼等は最初とっていた方針を途中で変更し、拷問を加えて棄教させる方法をとりはじめました。キリシタンたちは、着の身着のまま、雪深い津和野に送られ、獄舎で冬を越すことは相当の拷問でした。日増しに加わる減食の責苦、乙女峠の一隅にある池の氷を砕いて裸にして投げ込み、息絶えだえの者を引き上げて、今度は火あぶりにして責めました。キリシタンの中心人物だった守山甚三郎はこの拷問が一番苦しかったと覚え書の中に書いています。また見せしめのために、裸のまま雪の中の三尺牢という小さな檻に押し込めるという拷問も行われました。守山甚三郎ともう一人の記録をよく残した高木仙右衛門は、生き残って長崎に帰り天寿を全うしました。5年間の拷問、責苦や殉教のありさまの月日を、毎日あてがわれた塵紙に忠実に詳しく書きました。二人の記録が最も大切な書として今日まで保存されています。明治25年(1892)ビリヨン神父は、乙女峠の隣の谷、蕪坂に葬られた殉教者たちの遺骨を一つの墓に集めました。また昭和23年(1948)、ネーベル神父(岡崎神父)は、乙女峠に記念聖堂を建て、そのまわりの殉教地が祈りにふさわしい場所となるよう心をこめ、力をつくしました。」
悲しい歴史を見ました。神を信じませんが、信仰の自由、心は暴力では抑え込むことはできません。このブログを書く前日にはフランスでテロが発生したとのことです。本来、どの宗教の教えも不殺生なのに、異教徒を許さない、存在を否定するのはあまりにも悲しいですね。
光明寺
乙女峠に行く角地に建っています。
沿革について
「旧三本松城主吉見正頼公室少将大宮姫は信盛寺をこの地に建立す。後亀井政矩公因州より移封せられ藩祖茲矩公の岳父山中幸盛公の菩提の為鹿野城下に建立せる幸盛寺を此の城下に建て祖父の志を継ぐ。 後又故ありて寛永12年(1635)信盛寺と合併す。 承応2年(1653)亀井氏3代茲政公母君の菩提の為に光明寺を撫坂口に建立する。慶応2年(1866)に信盛寺に合併して光明寺と称しここに法燈を継続する。」
山門
説明書
本堂
鐘楼
吉見正頼公夫人の墓
安野光雅美術館
本町通りにいきます。
永明寺(ようめいじ)(津和野町指定文化財)
「曹洞宗で、山号は覚皇山です。応永27年(1420)に津和野城主吉見頼弘によって創建され、開山は開祖道元禅師の法孫月因和尚です。江戸時代には曹洞宗の寺院として栄え、石見国一円の禅寺を統括し末寺70余を擁し、又禅道場としても有名で雲水200人を超え、寺領として虹ケ谷村に100石を領していた。吉見、坂崎、亀井氏といった歴代の津和野城主代々の菩提寺です。寺は度々火難にあったが、現在のものは享保14年(1729)に建てられたもので、仮普請のままながら畳数400枚を数える一大古刹です。大きな山門は元殿町にあった町門を移したものです。庭は幽邃そのもので殿様御なりの間から観ると一入情趣があります。寺全体が町の文化財指定です。」
拝観料は300円です。
島根県津和野町後田ロ107
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境内図
参道
山門
「覚皇山」の額
「明の帰化僧心越禅師(水戸光圀の師)の揮毫です。」
境内
説明書
弁天堂
中門
経蔵
鐘楼
本堂
魚鼓
大島松渓絵
森鴎外の墓
次は乙女峠マリア聖堂に行きます。
津和野駅です。
清水です。
ひんやりとした小川です。
キリシタン殉教乙女峠
「慶応元年(1865)長崎浦上の4千人以上の隠れキリシタンから少数の者が、当時フランス寺として呼ばれて今の浦上天主堂に入り「サンタマリアの御像はどこ。ここに居ります私たちは、皆、あなた様と同じ心でございます。」との有名な言葉によってキリシタン発見は、はっきり認められ、キリスト教の歴史の中に入りました。徳川250年間以上のきびしい迫害にも彼らの先祖たちがキリスト教を守りつづけたことを、全世界は感嘆して受け止めたのです。しかしキリシタンの喜びもつかの間で「浦上四番崩れ」といわれる弾圧が始まり、およそ3400人が見知らぬ土地に流罪の刑を受けました。鹿児島、萩、名古屋等の22カ所が選ばれ、その中に津和野も加えられました。浦上の信徒の指導者が津和野藩に預けられたのは、この地が神道研究で隆盛を当主亀井茲監が神道による教道教化に相当の自信を抱いていたからでした。藩出身の国学者である福羽美静の指導で津和野藩はキリシタンの信徒を改心させる務めを負いましたが、キリシタンの信仰は厚くたやすく改心させることは出来ませんでした。そこで彼等は最初とっていた方針を途中で変更し、拷問を加えて棄教させる方法をとりはじめました。キリシタンたちは、着の身着のまま、雪深い津和野に送られ、獄舎で冬を越すことは相当の拷問でした。日増しに加わる減食の責苦、乙女峠の一隅にある池の氷を砕いて裸にして投げ込み、息絶えだえの者を引き上げて、今度は火あぶりにして責めました。キリシタンの中心人物だった守山甚三郎はこの拷問が一番苦しかったと覚え書の中に書いています。また見せしめのために、裸のまま雪の中の三尺牢という小さな檻に押し込めるという拷問も行われました。守山甚三郎ともう一人の記録をよく残した高木仙右衛門は、生き残って長崎に帰り天寿を全うしました。5年間の拷問、責苦や殉教のありさまの月日を、毎日あてがわれた塵紙に忠実に詳しく書きました。二人の記録が最も大切な書として今日まで保存されています。明治25年(1892)ビリヨン神父は、乙女峠の隣の谷、蕪坂に葬られた殉教者たちの遺骨を一つの墓に集めました。また昭和23年(1948)、ネーベル神父(岡崎神父)は、乙女峠に記念聖堂を建て、そのまわりの殉教地が祈りにふさわしい場所となるよう心をこめ、力をつくしました。」
悲しい歴史を見ました。神を信じませんが、信仰の自由、心は暴力では抑え込むことはできません。このブログを書く前日にはフランスでテロが発生したとのことです。本来、どの宗教の教えも不殺生なのに、異教徒を許さない、存在を否定するのはあまりにも悲しいですね。
光明寺
乙女峠に行く角地に建っています。
沿革について
「旧三本松城主吉見正頼公室少将大宮姫は信盛寺をこの地に建立す。後亀井政矩公因州より移封せられ藩祖茲矩公の岳父山中幸盛公の菩提の為鹿野城下に建立せる幸盛寺を此の城下に建て祖父の志を継ぐ。 後又故ありて寛永12年(1635)信盛寺と合併す。 承応2年(1653)亀井氏3代茲政公母君の菩提の為に光明寺を撫坂口に建立する。慶応2年(1866)に信盛寺に合併して光明寺と称しここに法燈を継続する。」
山門
説明書
本堂
鐘楼
吉見正頼公夫人の墓
安野光雅美術館
本町通りにいきます。
2016年7月11日、9日の岩国、柳井の町並み、山口市内、湯田温泉宿泊、10日は萩を1日観光し、萩温泉宿泊、萩から約1時間走り、神戸に帰る途中に津和野に寄りました。
津和野は江戸時代、津和野藩の城下町として栄えた町で、山陰の小京都と言われています。
自動車を道の駅 津和野温泉なごみの里に止めて、まず1つ目の散策です。
案内図
津和野川に架かる大陰橋を渡ります。
津和野川
光園寺
鷲原八幡宮の参道の入り口にあります。曹洞宗の寺院です。
燈籠
流鏑馬の馬場の説明書
『この馬場は鎌倉時代の原形を留めている重要な文化財で島根県指定史跡になっています。吉見正頼が永禄11年(1568)に鶴岡八幡宮の馬場を模して造ったものと伝えられ、嘉永2年(1849)に大改修が行われていますが、地形の制約も受けて横馬場となっています。流鏑馬は、明治以降途絶えていましたが昭和51年4月からは、小笠原宗家30世清信氏の指導のもと再開され、現在は小笠原宗家31世清忠氏以下同門諸氏の指導のもと今日に至っています。この神事は天下泰平、五穀豊穣を祈願するもので、全長270mの馬場を、鎌倉時代の狩装束を身につけ、疾走する馬上から、射手が「一の的」「ニの的」「三の的」を次々に仕留めていきます。この神事(津和野町指定無形民俗文化財)は毎年4月第二日曜日に開催します。』
鷲原八幡宮
主祭神は、誉田別命(第15代応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、玉依姫命(神武天皇の御母)、菅原道真公、吉見頼行公(初代津和野藩主)などです。
「このお宮の起源は天暦年中(947~)に山根六左衛門が宇佐八幡宮を勧請した時に始まるといわれています。弘安5年(1282)、吉見頼行公が今の津和野町木部木曽野に仮の居を定め鶴岡八幡宮を勧請しました。社殿が吉見氏により木曽野からこの地に移され改築されたのは三本松城が完成した嘉慶元年(1387)三代吉見頼直公の時代でした。爾来三本松城の守護神として吉見、坂崎、亀井の歴代城主の崇敬厚く、亀井氏の時代には藩中の三大社と称稱される神社の中の最高位に置かれ他のニ社は祇園社(今の弥栄神社)と武霊社(今の津和野神社)であります。」
島根県津和野町鷲原イ632-2
map
鳥居
由緒書
手水舎
楼門(重要文化財)
「一間一戸の四脚門で、屋根入母屋造茅葺、正面に片流れの向拝(檜皮葺)を付ける。楼門の両脇には同じ梁間で桁行2間、切妻造の翼廊(屋根杮葺)を延ばす。」
狛犬
「社前の石彫唐獅子は藩の彫刻家大島松渓の名作です。」
拝殿(重要文化財)
「正徳元年(1711年)の建立で、入母屋造、鉄板葺き、桁行(間口)3間、梁間(奥行)2間。内部は畳敷きで、柱間装置は格子戸および格子窓とする。南正面に潔斎橋、東側面に神饌所が付属する。」
本殿(重要文化財)
「石垣を築いて一段高くなった敷地に建ち、拝殿との間には石階がある。三間社流造、杮葺きで、正面に向唐破風造の向拝を設け、外周に覆屋(おおいや)を構える。」
稲生社
淡嶋神社
自動車を移動し、森鴎外記念館に行きます。
月曜日のため、休館です。
紙漉き場
森鴎外旧宅(国指定史跡)
「幼少期を津和野で過ごした明治の文豪・森鴎外の家です。」
map
説明書
案内図
常盤橋を渡って、左に進みます。
西周(にしあまね)旧居(国指定史跡)
『「哲学」「感覚」などの言葉を生みだした明治の啓蒙思想家・西周の旧居です。』
説明書
戻ります。
山の頂上が津和野城跡です。
望遠で
自動車を移動し、永明寺の駐車場に行きます。
津和野は江戸時代、津和野藩の城下町として栄えた町で、山陰の小京都と言われています。
自動車を道の駅 津和野温泉なごみの里に止めて、まず1つ目の散策です。
案内図
津和野川に架かる大陰橋を渡ります。
津和野川
光園寺
鷲原八幡宮の参道の入り口にあります。曹洞宗の寺院です。
燈籠
流鏑馬の馬場の説明書
『この馬場は鎌倉時代の原形を留めている重要な文化財で島根県指定史跡になっています。吉見正頼が永禄11年(1568)に鶴岡八幡宮の馬場を模して造ったものと伝えられ、嘉永2年(1849)に大改修が行われていますが、地形の制約も受けて横馬場となっています。流鏑馬は、明治以降途絶えていましたが昭和51年4月からは、小笠原宗家30世清信氏の指導のもと再開され、現在は小笠原宗家31世清忠氏以下同門諸氏の指導のもと今日に至っています。この神事は天下泰平、五穀豊穣を祈願するもので、全長270mの馬場を、鎌倉時代の狩装束を身につけ、疾走する馬上から、射手が「一の的」「ニの的」「三の的」を次々に仕留めていきます。この神事(津和野町指定無形民俗文化財)は毎年4月第二日曜日に開催します。』
鷲原八幡宮
主祭神は、誉田別命(第15代応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、玉依姫命(神武天皇の御母)、菅原道真公、吉見頼行公(初代津和野藩主)などです。
「このお宮の起源は天暦年中(947~)に山根六左衛門が宇佐八幡宮を勧請した時に始まるといわれています。弘安5年(1282)、吉見頼行公が今の津和野町木部木曽野に仮の居を定め鶴岡八幡宮を勧請しました。社殿が吉見氏により木曽野からこの地に移され改築されたのは三本松城が完成した嘉慶元年(1387)三代吉見頼直公の時代でした。爾来三本松城の守護神として吉見、坂崎、亀井の歴代城主の崇敬厚く、亀井氏の時代には藩中の三大社と称稱される神社の中の最高位に置かれ他のニ社は祇園社(今の弥栄神社)と武霊社(今の津和野神社)であります。」
島根県津和野町鷲原イ632-2
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鳥居
由緒書
手水舎
楼門(重要文化財)
「一間一戸の四脚門で、屋根入母屋造茅葺、正面に片流れの向拝(檜皮葺)を付ける。楼門の両脇には同じ梁間で桁行2間、切妻造の翼廊(屋根杮葺)を延ばす。」
狛犬
「社前の石彫唐獅子は藩の彫刻家大島松渓の名作です。」
拝殿(重要文化財)
「正徳元年(1711年)の建立で、入母屋造、鉄板葺き、桁行(間口)3間、梁間(奥行)2間。内部は畳敷きで、柱間装置は格子戸および格子窓とする。南正面に潔斎橋、東側面に神饌所が付属する。」
本殿(重要文化財)
「石垣を築いて一段高くなった敷地に建ち、拝殿との間には石階がある。三間社流造、杮葺きで、正面に向唐破風造の向拝を設け、外周に覆屋(おおいや)を構える。」
稲生社
淡嶋神社
自動車を移動し、森鴎外記念館に行きます。
月曜日のため、休館です。
紙漉き場
森鴎外旧宅(国指定史跡)
「幼少期を津和野で過ごした明治の文豪・森鴎外の家です。」
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説明書
案内図
常盤橋を渡って、左に進みます。
西周(にしあまね)旧居(国指定史跡)
『「哲学」「感覚」などの言葉を生みだした明治の啓蒙思想家・西周の旧居です。』
説明書
戻ります。
山の頂上が津和野城跡です。
望遠で
自動車を移動し、永明寺の駐車場に行きます。
2015年12月25日お参りしました。
出雲大社は前回にお参りしましたのでこちらを参照してください。⇒⇒⇒こちら
宇迦橋の大鳥居
神門通り
一畑電車出雲大社前駅(登録有形文化財)
「昭和5年(1930)の建築で、鉄筋コンクリート造・平屋建で,軒線を強調し,セセッション風の屋根をかける独特の外観を保つ。特異な外観を持つ駅舎として親しまれている。」
神門通り
勢溜の大鳥居
松の参道の鳥居
そば店の「かねや」にて
三色割子3段を食べました。こしのしっかりしたおそばでした。
スタバで
お疲れ様でした。1泊2日の島根観光を終え神戸に戻ります。2016年が良い年でありますように!!
出雲大社は前回にお参りしましたのでこちらを参照してください。⇒⇒⇒こちら
宇迦橋の大鳥居
神門通り
一畑電車出雲大社前駅(登録有形文化財)
「昭和5年(1930)の建築で、鉄筋コンクリート造・平屋建で,軒線を強調し,セセッション風の屋根をかける独特の外観を保つ。特異な外観を持つ駅舎として親しまれている。」
神門通り
勢溜の大鳥居
松の参道の鳥居
そば店の「かねや」にて
三色割子3段を食べました。こしのしっかりしたおそばでした。
スタバで
お疲れ様でした。1泊2日の島根観光を終え神戸に戻ります。2016年が良い年でありますように!!
2015年12月25日行きました。
「旧大社駅本屋は,出雲大社参詣の表玄関として,大正13年2月に完成した。木造,平屋建で,西面して建つ。正面中央に車寄を突出した中央棟を中心に,両翼を延ばした南北に細長い左右対称の構成とする。」
島根県出雲市大社町大字北荒木441番地3
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「旧大社駅本屋は,出雲大社参詣の表玄関として,大正13年2月に完成した。木造,平屋建で,西面して建つ。正面中央に車寄を突出した中央棟を中心に,両翼を延ばした南北に細長い左右対称の構成とする。」
島根県出雲市大社町大字北荒木441番地3
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2015年12月25日、再度、日御碕神社にお参りしました。前回は楼門が修理中でしたので、楼門を追加でアップしました。
2014年10月17日、須佐神社をお参りした後、約30km北の日御碕神社にお参りしました。
稲佐の浜
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走っている途中に思わず、パーキングに止めてパチリ。
出雲大社の西にある海岸で、「古事記」にも「伊那佐之浜」という名で登場し、国譲り、国引きの神話で知られる浜です。稲佐の浜に、ひときわ目立つ弁天島があります。浜辺の奥に大国主大神と武甕槌神が国譲りの交渉をしたという屏風岩があるとのことです。島の上には「弁財天」が祀られていましたが、今は豊玉毘古命が祀られています。
快晴で島が浮かび上がります。砂浜も海も綺麗ですね。
説明板
周辺案内図
屏風岩は上の黄色、出雲阿国の墓は真ん中の黄色のところです。
さらに北に走って、日御碕神社へ
現在の建物は江戸幕府3代将軍徳川家光の命により、松江藩主京極忠高が1634年(寛永11年)に着手し、1644年に松平直政が完成させました。社殿は桃山時代の面影を残し、二つの本殿どちらも拝殿と本殿が続く権現造りです。島根半島の西端に位置します。
出雲市大社町日御碕455
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鳥居
説明書より『「出雲国風土記」には現・日御碕神社の祖形とされる「美佐伎社」「御前社」「百枝槐社」がみえる。「美佐伎社」が素戔嗚尊を祀る上の社(神の宮)、元は経島にあったと思われる「百枝槐社」が天照大神を祭神とする下の社(日沈宮)とされ、「御前社」は不明である。「伊勢神宮は日の本の昼を守り、日御碕大神宮は日の本の夜を守る」との伝承を受け止めれば、夜を治める「月夜見命」も鎮座していることに注目したい。』
慰霊碑
手水舎
楼門は工事中でした。
門客人社(重要文化財)
下の社「日沈宮」(重要文化財)
楼門入って正面、天照大神が祀られるています。白い壁に朱色の柱、梁、組物が映えます。蟇股などの装飾もいいですね。
拝殿
蟇股は綺麗ですね。彫刻、色彩がいいですね。それぞれに物語を表現しています。
本殿(重要文化財)
禊所(重要文化財)
廻廊(重要文化財)
上の社「神の宮」(重要文化財)
楼門入って右手階段の上、素戔嗚尊を祀られています。
拝殿(重要文化財)
本殿(重要文化財)
宝庫(重要文化財)
稲荷社
御神砂之碑
昭和天皇がくにびき国体の際に参拝されたときに謳ったもの
末社
絵馬
2015年12月25日お参りしました。
楼門(重要文化財)
「江戸前期の寛永21年(1644)の建造で、三間一戸楼門、入母屋造、こけら葺です。」
手水舎
2014年10月17日、須佐神社をお参りした後、約30km北の日御碕神社にお参りしました。
稲佐の浜
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走っている途中に思わず、パーキングに止めてパチリ。
出雲大社の西にある海岸で、「古事記」にも「伊那佐之浜」という名で登場し、国譲り、国引きの神話で知られる浜です。稲佐の浜に、ひときわ目立つ弁天島があります。浜辺の奥に大国主大神と武甕槌神が国譲りの交渉をしたという屏風岩があるとのことです。島の上には「弁財天」が祀られていましたが、今は豊玉毘古命が祀られています。
快晴で島が浮かび上がります。砂浜も海も綺麗ですね。
説明板
周辺案内図
屏風岩は上の黄色、出雲阿国の墓は真ん中の黄色のところです。
さらに北に走って、日御碕神社へ
現在の建物は江戸幕府3代将軍徳川家光の命により、松江藩主京極忠高が1634年(寛永11年)に着手し、1644年に松平直政が完成させました。社殿は桃山時代の面影を残し、二つの本殿どちらも拝殿と本殿が続く権現造りです。島根半島の西端に位置します。
出雲市大社町日御碕455
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鳥居
説明書より『「出雲国風土記」には現・日御碕神社の祖形とされる「美佐伎社」「御前社」「百枝槐社」がみえる。「美佐伎社」が素戔嗚尊を祀る上の社(神の宮)、元は経島にあったと思われる「百枝槐社」が天照大神を祭神とする下の社(日沈宮)とされ、「御前社」は不明である。「伊勢神宮は日の本の昼を守り、日御碕大神宮は日の本の夜を守る」との伝承を受け止めれば、夜を治める「月夜見命」も鎮座していることに注目したい。』
慰霊碑
手水舎
楼門は工事中でした。
門客人社(重要文化財)
下の社「日沈宮」(重要文化財)
楼門入って正面、天照大神が祀られるています。白い壁に朱色の柱、梁、組物が映えます。蟇股などの装飾もいいですね。
拝殿
蟇股は綺麗ですね。彫刻、色彩がいいですね。それぞれに物語を表現しています。
本殿(重要文化財)
禊所(重要文化財)
廻廊(重要文化財)
上の社「神の宮」(重要文化財)
楼門入って右手階段の上、素戔嗚尊を祀られています。
拝殿(重要文化財)
本殿(重要文化財)
宝庫(重要文化財)
稲荷社
御神砂之碑
昭和天皇がくにびき国体の際に参拝されたときに謳ったもの
末社
絵馬
2015年12月25日お参りしました。
楼門(重要文化財)
「江戸前期の寛永21年(1644)の建造で、三間一戸楼門、入母屋造、こけら葺です。」
手水舎