旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

奈良公園散策後、大阪の叡福寺

2018-02-27 16:33:49 | 大阪
2018年2月19日、奈良パークホテルに宿泊し、チェックアウト後、奈良県庁の駐車場に自動車を止めて、平日は2時間以内は無料です。奈良公園を散策しました。
鹿さん達、のんびりと座っていました。



イオンモール大和郡山店



















イタリア料理のカプリチョーザ

マリナーラ" 魚介のトマトソース

リゾット

叡福寺
太子町の案内図

叡福寺の境内案内図

説明書より「叡福寺は聖徳太子の墓前に営まれた寺院で磯長山と号する。この寺は戦後単立寺院となったが、もとは古義真言宗金剛寺の末寺で、所在地であるかつての郡名や地名に因んで石川寺・磯長寺などと称されていた。また、聖徳太子の磯長墓を祭祀守護する性格の寺院であることから太子町・御廟寺・聖霊院の号もあり、四天王寺・法隆寺とならんで太子信仰の中核をなした寺院である。なお、一連の太子建立伝説をもつ八尾市大聖勝軍寺の『下の太子』、羽曳野市野中寺の『中の太子』に対し、『上の太子』と俗称され親しまれている。
 寺院の創立は明らかではないが、寺伝によると推古天皇30年(622)聖徳太子の陵墓を守護し永く追福を営むために一堂を構えたのが当寺のはじまりで、神亀元年(724)聖武天皇の勅願によって伽藍を造営されたといわれ、もとは法隆寺のように東西両院からなり、東の伽藍を転法輪寺、西の伽藍を叡福寺と称したと伝えられている。
 現在の伽藍は天正2年(1574)織田信長の兵火で焼失したあと相前後して再建されたもので広大な境内には金堂、聖霊殿、宝塔などの堂塔が建ちならび由緒ある寺院として風格を保っている。
 また、境内北方の高所に営まれた磯長墓は、推古天皇29年(621)崩御の聖徳太子の生母穴穂部間人皇后、翌年2月大和斑鳩宮において、時を同じくして、亡くなられた聖徳太子、同妃勝部大郎女の三人が一所に葬られているところから、三骨一廟とよばれ、この墓前には空海・親鸞・良忍・一遍・日蓮・證空の諸賢聖のほか、名僧知識の参籠が多く、現在も太子に会わんが為に善男善女の参詣が絶えることはない。
 当寺には重要文化財に指定された絹本着色文殊渡海図、高屋連枚人墓誌の他、数多くの貴重な文化財を所蔵している。聖霊殿(太子堂)は慶長8年(1603)豊臣秀頼が伊藤左馬頭則長を奉行として再建したもので、桃山時代の特長をよく示しており、宝塔は承応元年(1652)に建立されたもので、いずれも重要文化財の指定を受けている。
 棟札によって享保17年(1732)の再建が明確な金堂、肘木絵様と木鼻が聖霊殿とよく似ており17世紀前半を下らない建築と考えられる鐘楼は、共に大阪府指定文化財となっている。また明治初期に塔頭、石塔律院跡から客殿庭園内に移築された巨大な石造五輪塔は、源頼朝の供養塔と伝えられ、鎌倉末期の優作として、大阪府有形文化財の指定を受けている。」
大阪府南河内郡太子町太子2146
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南大門













手水舎







境内

多宝塔(重要文化財)
「江戸前期の承応元年(1652)建立、三間多宝塔、本瓦葺。比較的木割が太く、正統派に近い塔である。」







金堂(大阪府指定文化財)











境内











聖霊殿(重要文化財)
「桃山時代の慶長8年(1603)建立、桁行三間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、本瓦葺、南面突出部 桁行三間、梁間二間、一重入母屋造、本瓦葺。」













二天門













聖徳太子御廟



浄土堂



見真大師堂











































科長岡神社

















西方院へ行きます。
「推古天皇30年(622年)聖徳太子が死去した後に出家した三人の侍女により、聖徳太子廟がある叡福寺の門前にその塔頭として法楽寺の寺号で創建されたという。」


































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奈良パークホテル

2018-02-26 18:47:32 | 温泉、旅館、ホテル
2018年2月18日、奈良市内観光で宿泊しました。近鉄奈良駅からは約6km西の位置にあります。奈良交通の1ディパスの乗車券(500円)を駅前の奈良交通案内書で購入しました。プラン名は季節会席プランです。奈良市内の温泉ということで利用しました。駐車もチェックイン前でも可能とのことでしたので、便利です。阪奈宝来のバス停がホテルの前にあります。
温泉は炭酸水素ナトリウムの単純泉、Ph7.75です。内風呂と露天風呂があります。露天は少し熱めとなっていました。
奈良市宝来4丁目18番1号
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外観



廊下



フロント





売店











室内









おもてなし

夕食、会場食で会席です。



前菜

大和ポークすき鍋

刺身盛り合わせ

茶碗蒸し

吸い物

生ビールの後に柚子ワインで美味しくいただきました。

天ぷら盛り合わせ

香の物、赤だし

デザート、わらび餅

朝食























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法華寺

2018-02-26 17:34:06 | 奈良
2018年2月18日、奈良市内観光に行きました。法華寺にお参りしました。
「光明皇后ゆかりの門跡尼寺として知られ、天平17年(745年)5月、皇后宮を宮寺としたのが法華寺の始まりである。法華寺は皇后発願の寺院であり、国分尼寺という位置づけでありながら、伽藍の完成までには相当の歳月を要したとみられる。法華寺は平安京遷都以後は次第に衰微し、平安時代末期にはかなり荒廃した。鎌倉時代に入り、東大寺大仏の再興を果たした僧・重源は、建仁3年(1203年)、法華寺の堂宇や仏像を再興した。その半世紀後、鎌倉時代中期の真言律宗の僧・叡尊によって本格的な復興がなされた。その後、明応8年(1499年)と永正3年(1506年)の兵火や慶長元年(1596年)の地震で東塔以外の建物を失い、東塔は宝永4年(1707年)の地震で倒壊した。現在の本堂、鐘楼、南門は慶長6年(1601年)頃、豊臣秀頼と母の淀殿が片桐且元を奉行として復興したものである。法華寺は叡尊の時代以来、真言律宗における門跡寺院としての寺格を保っていたが、平成11年(1999年)に、光明皇后にちなんで光明宗と名づけ離脱・独立した。」
奈良県奈良市法華寺町882
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境内案内図

赤門

鐘楼(鐘楼堂)(重要文化財)
「桃山時代の慶長7年(1602)建築、桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺。」



稲荷神社



横笛堂

薬師堂







護摩堂





本堂(重要文化財)
「慶長6年(1601年)建築、寄棟造、本瓦葺き。正面7間、側面4間。豊臣秀頼と淀殿の寄進で再建された。」





鬼瓦に慶長7年(1602年)の刻銘があり、形式や細部からみてその頃の再興と考えられる。



南門(重要文化財)
「桃山時代の慶長頃(1596-1615)建築、四脚門、切妻造、本瓦葺。」


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海龍王寺

2018-02-25 22:19:20 | 奈良
2018年2月18日、奈良市内観光に行きました。西大寺の後、駅前からバスで移動です。法華寺前で下車し、海龍王寺にお参りしました。

説明書より「和銅3年(710)、平城京に都が移された時、藤原不比等が、ここに邸宅を構えるにあたり、付近一帯を治めている土師氏から土地を譲り受けた際、土師氏ゆかりの寺院がありましたが、寺院を取り壊さなかったので、邸宅の北東隅に残ることとなりました。養老4年(720)、藤原不比等が亡くなり、娘である光明皇后が邸宅を相続したので、邸宅は皇后が起居する皇后宮となり、北東隅の寺院は『皇后宮内寺院』となりました。天平3年(731)、遣唐留学僧として唐に渡っていた玄昉の帰国をひかえ、無事に帰国を果たし、最新の仏教・仏法を我が国に伝えることを願われた光明皇后は『皇后宮内寺院』の伽藍を整えられます。隅寺(海龍王寺)の歴史は、ここから始まりました。天平6年(734)唐を出発した玄昉は、東シナ海で暴風雨に遭遇いたしますが、狂瀾怒濤に漂いながらも海龍王経を一心に唱えたことで九死に一生を得て種子島に漂着し、翌天平7年(735)平城宮に戻ってまいります。
 聖武天皇・光明皇后は、最新の仏教・仏法のみならず、鎮護国家の基礎となる仏教政策も学び取ってきた玄昉から、いつでも自由に意見を求めるため、内裏に近く、自身が起居する皇后宮内にある海龍王寺の住持に任じます。住持に任じられた玄昉は、唐の洛陽宮にならい、海龍王寺を「平城宮内道場』と定め、伽藍の拡充および収蔵する経典などを充実させる一方、密教にも通じていたことから聖武天皇・光明皇后、聖武天皇の生母である藤原宮子のために祈願・祈祷を修したことで、天皇家との関わりが非常に深くなった海龍王寺は『天皇家の私寺院』となり、『宮廷寺院』として天皇家を支えていきます。
 奈良時代は『宮廷寺院・宮中内道場』として繁栄いたしましたが、平安京に都が移ると、平城京の衰退と並ぶように海龍王寺も衰退いたします。鎌倉時代を迎え、真言律宗の宗祖である叡尊の滞在をきっかけに伽藍の復興が進められ、戒律の道場として栄えます。貞治4年(1365)から明和3年(1766)の間、海龍王寺から5名の西大寺長老を輩出し、真言律宗の中でも筆頭格の寺院になりました。
 鎌倉時代は戒律の道場として栄えたものの、室町時代に起こった応仁の乱の影響を受け、江戸時代まで衰退が続きます。江戸時代になり徳川幕府から知行百石を与えられたことで伽藍の維持・管理を行っていましたが、明治の廃仏毀釈の際、東金堂および什物を失うなど大きな打撃を受け、その後、昭和28年(1953)まで荒廃にまかされていましたが、昭和40年~42年にかけて西金堂・経蔵の解体修理を行い、現在に至ります。
 暴風雨の中、海龍王経を唱え、無事に帰国を果たした玄昉が住持に任じたことで、聖武天皇から寺号を海龍王寺と定められ、遣唐使の渡海安全祈願を修することになりましたが、海龍王寺に残されている海龍王経には、東シナ海を渡った奈良時代の人々の思いが刻まれています。また、玄昉は般若心経の流布・講釈を熱心に行ったことから、海龍王寺において般若心教の写経が盛んに行われ、隅寺心経と称される般若心教の写経が現在も海龍王寺に残されており、般若心経写経の原本として大切にされています。
 国宝・五重小塔、重文・西金堂は『平城宮内に残る唯一の奈良時代建造物』であり、「宮廷寺院』の伽藍を現在まで伝えています。」
奈良県奈良市法華寺町897
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表門(奈良市指定文化財)
「海龍王寺は光明皇后が天平3年(731)に創立したと伝え、この表門の位置は平城京の東二坊大路に面する場所にあたる。16世紀建立、四脚門、切妻造、本瓦葺、左右築地塀付。円形の本柱の前後に立つ合計四本の控柱の数から、このような形の門を四脚門という。控柱の角の欠き取り部分が大きく、屋根の垂木の先が反り増しているなど、中世建築の様式を今に伝えており貴重である。」







一切経蔵(重要文化財)
「正応元年(1288)建立、桁行三間、梁間二間、一重、寄棟造、本瓦葺。室町時代と寛永7年(1630)に修理が行われ、昭和40年~42年にかけて解体修理が行われました。経典や文書を納めたことから、高床式の建物になっています。」

西金堂(重要文化財)
「奈良時代の天平3年(731)建立、桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、本瓦葺。鎌倉時代と昭和40年~41年にかけて解体修理が行われました」

五重小塔(国宝)
「天平時代前期(729-749)建立、高さ4.01メートル(相輪まで2.85メートル)、創建当時から西金堂内に安置され、細部は天平時代のかなり早い時期の手法を用いて作られています。天平時代の建築技法を現在に伝えており、建築様式の発展をたどるうえにも重要であることに加え、建造物としての天平時代の五重塔はこれ一基しか現存しておらず、非常に価値が高い。この塔は屋内で安置することを目的としたため、近くから見たり拝んだりすることから工芸的な性格を重視しており、小塔の外部は細部に至るまで忠実に作られています。海龍王寺は皇后宮の内廷寺院として、聖武天皇・光明皇后を支えましたが、五重小塔及び西金堂は、光明皇后宮内に残る唯一の天平時代建造物であるとともに、内廷仏教と内廷寺院の中心伽藍を現在に伝える仏教建造物として貴重な役割を果たしています。」

本堂(奈良市指定文化財)
「17世紀中期の建立、桁行五間、梁間四間、入母屋造、本瓦葺。本堂は奈良時代に建っていた中金堂の位置を踏襲しており、深い軒の出と勾配の緩い屋根、それに堂内の柱配置が整然としていることなど、奈良時代の仏堂の様式と似ている点が多い。建立年代は寛文年間(1665年頃)とも伝えられ、江戸時代の建物でありながら古風な造りであり、古い伝統建築の様式が好まれた奈良の地域性を知ることができて貴重である。」
















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西大寺

2018-02-25 18:36:30 | 奈良
2018年2月18日、奈良市内観光でお参りしました。奈良パークホテルから徒歩で喜光寺、菅原天満宮、八幡神社とお参りし、西大寺に向かいました。
「西大寺は、天平宝字8年(764年)9月、孝謙上皇は恵美押勝の乱平定を祈願して金銅四天王像の造立を発願した。奈良時代には薬師金堂、弥勒金堂、四王堂、十一面堂、東西の五重塔などが立ち並ぶ壮大な伽藍を持ち、南都七大寺の1つに数えられる大寺院であった。寺は平安時代に入って衰退し、火災や台風で多くの堂塔が失われ、興福寺の支配下に入っていた。西大寺の中興の祖となったのは鎌倉時代の僧・叡尊である。西大寺は室町時代の文亀2年(1502年)の火災で大きな被害を受け、現在の伽藍はすべて江戸時代以降の再建である。なお、西大寺は現在、真言律宗を名乗っている。」
奈良県奈良市西大寺芝町1-1-5
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南門



愛染堂(奈良県指定文化財)





鐘楼堂

光明殿

大師堂

大黒堂





東塔跡

本堂(重要文化財)
「寛政11年(1799)建築、桁行七間、梁間五間、一重、寄棟造、正背面向拝三間、本瓦葺。」













境内(史跡名勝天然記念物)
「西大寺は、すでに鎌倉時代において伽藍の配置が変えられ、現在民家が櫛比して旧境内をおかし、右京一条三四坊にありとされた旧観を失っていて、わずかに現本堂前の東塔跡等に奈良時代の面影をしのぶのみであったが、最近の発掘調査の結果、東塔は当初八角形の基壇であったこと、またこれに対して同じく平面八角形の西塔の跡が確認され、漸く旧規模を明らかにする端緒をつかんだところでなお未解決の問題が多い。」



本坊



不動堂(奈良市指定文化財)

増長院





聚宝館



四王堂







清淨院



東門


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喜光寺・菅原天満宮・八幡神社

2018-02-25 17:50:11 | 奈良
2018年2月18日、奈良市内観光で行きました。市内の外周の秋篠寺、般若寺、新薬師寺とお参りをして、奈良パークホテルに車を停め、奈良1ディパスを利用しました。まずは、ホテルからは徒歩で東側の阪奈道路沿いの喜界寺です。

喜界寺
説明書より「当寺は養老5年(721)、天平の僧、行基菩薩によって創建された寺である。この地は平城京の右京三条三坊に当り、通称菅原の里といわれ、寺名も菅原寺と呼ばれていた。行基菩薩は東大寺造営に当り、この寺の本堂を参考にした事から、本堂は『大仏殿の試みの堂』としても知られている。天平20年(748)、聖武天皇は菅原寺に御幸された折、ご本尊より不思議な光明を感得され、そのことを喜ばれ、『喜光寺』の寺額を与えたという。以降、菅原寺を喜光寺と改名したといわれている。天平21年(749)2月2日、当寺の東南院に於いて行基菩薩は入寂された。遺言により火葬とし、母の墓処のほとりに埋葬した。その後、喜光寺は広い寺領を所有していたが、平安末期から鎌倉時代にかけて荒廃衰退した。本堂(金堂)は室町時代初期(1400頃)に再建され現在、国の重要文化財に指定されている。ご本尊は、平安時代後期の造像で、丈六の阿弥陀如来坐像である。現在国の重要文化財として信仰されている。現在は法相宗に所属し、薬師寺の別格本山として活躍している。」
奈良県奈良市菅原町508
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仁王門







本堂(重要文化財)
「室町前期(1333-1392)建築、桁行三間、梁間二間、一重もこし付、寄棟造、本瓦葺。」





菅原天満宮
「菅家一系三神を祀る延喜式内社の日本最古の天満宮である。創建は不詳で、菅原神社の祭祀は、菅原の土師氏支族(のちの菅原氏)がその祖神を祀ったことに始まると見られているが、後世に菅原道真の誕生地とする説も生じ、現在は天神信仰の神社として信仰されている。」
奈良県奈良市菅原町518
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喜光寺の東の筋を少し北側に徒歩すぐ。
鳥居

手水舎

拝殿







筆塚

本殿



末社

盆梅展、拝観料500円です。少しまだ季節が早いのかつぼみでした。











































八幡神社
「当社は奈良時代の昔から西大寺の鎮守として奉齋されていたことは古図によって知ることができる。現在見るように八幡神社として整備されたのは西大寺中興の叡尊上人の発願によるもので弘安4年(1281)ごろと考えられ、当時は僧形八幡神社像が祀られていた。そのころ西大寺では毎年修正会の後1月16日に鎮守八幡宮の社前で御祈祷があり参拝者に湯茶の大ふるまいがあった。西大寺の有名な大茶盛の由来はここに始まる。現在の本殿は三間社流造り、檜皮葺、室町時代中期の貴重な建造物で、国の重要文化財に指定されている。広い境内には本殿を中心に八座の末社がある。明治維新後神仏分離によって神社は独立し左右両座の人たちが中核となり祭祀が行われている。もとは例祭には社頭の舞台で能が奉納されたもので古い能面が伝えられている。こうした由緒をもつ当社は著名な古社として知られ近在の信仰も極めて篤い。」
奈良県奈良市西大寺芝町2丁目10
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一之鳥居

二之鳥居

末社

















拝殿

本殿(重要文化財)


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新薬師寺・鏡神社

2018-02-23 15:27:17 | 奈良
2018年2月18日、奈良市内観光でお参りしました。
パンフレットより「天平19年(747)、聖武天皇の病気平癒を祈願して、お后の光明皇后によって創建されました。聖武天皇は、天平15年(743)、動物植物ことごとく栄える世の中をめざし、皆で力を合わせて虜舎那大仏を造立することを発願され、近江国信楽宮で行基菩薩をはじめ多くの人々とともに大仏造立に着手されました。ところが、天平17年(745)に入り、山火事と地震が頻発したため、工事を中断して平城宮に戻られました。大仏造立は平城宮の真東の山麓(現在の東大寺)で再開されましたが、天皇ご自身は体調をくずされました。そこで天皇の病気を治すため、都とその近郊の名高い山、きよらかな場所で、薬師悔過が行われ、都と諸国に薬師如来七躯を造立し、薬師経七巻を写経することが命じられました。これをきっかけに、光明皇后によって春日山、高円山の麓に、新薬師寺が造営されました。天平勝寶3年(751)に、新薬師寺で聖武上皇のための続命法が行われ、天平勝寶4年(752)、東大寺で大仏開眼供養会が営まれました。新薬師寺の金堂には、七仏薬師が祀られていました。金堂は平安時代、応和2年(962)の大風により倒壊し現存していませんが、現在の本堂の西方約150メートルやや南寄りにあり、堂内に七仏薬師、脇侍の菩薩二躯ずつ、十二神将が並んだ東西に長いお堂(横幅約30メートル)だったことが、最近の発掘調査で確認されました。その他に壇院、薬師悔過所、政所院、温室、造仏所、寺園、東西の塔が存在していたことが史料からわかります。鎌倉時代までに、東門、南門、地蔵堂、鐘楼などが建てられ、本堂を中心とした現在の伽藍が整備され、修理を繰り返し今にいたっています。」
奈良県奈良市高畑町1352
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南門(重要文化財)
「鎌倉後期(1275-1332)建築、四脚門、切妻造、本瓦葺。境内の正面にある、表門。」

鐘楼(重要文化財)
「鎌倉前期(1185-1274)建築、桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、本瓦葺。」





梵鐘(重要文化財)
「銅製、口径104センチメートル、奈良時代鋳造。」
境内



石仏群



稲荷社



会津八一歌碑

地蔵堂(重要文化財)
「鎌倉前期の文永3年(1266)建築、桁行一間、梁間一間、一重、入母屋造、妻入、本瓦葺。」

東門(重要文化財)
「鎌倉前期(1185-1274)建築、棟門、切妻造、本瓦葺。」

本堂(国宝)
「奈良時代(710-793)建築、桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺。本堂は様式上奈良時代のものと思われ、天平19年光明皇后が新藥師寺を創立された時に建立されたものと見られる。堂は内部に天井を張らず全部化粧屋根裏とし、中央に大きな円形仏壇を設けた珍らしい形式を持っている。」





薬師如来坐像(国宝)
「新薬師寺の本尊です。頭と胴体など体幹部分は一本のカヤの木から彫り出され、手と足は同じカヤの木から寄せ木し、全体の木目を合わせ、一本の木から丸彫りした様に造られています。光背には宝相華樹が大きな葉を翻らせ花を咲かせながら上に伸び、花の上の六躯の小仏は本尊と併せて七仏薬師を示しています。」
十二神将立像(国宝)
「奈良時代のもので、像高152~166センチメートル。土壇の上で円陣に取り巻いて、お薬師さまを護衛しています。」
撮影不可のため、パンフレットより転載。十二神が干支となっており、その前に絵馬を掛けて願掛けをします。

竜王社





実忠和尚御歯塔



香薬師堂















鏡神社
「この神社は、春日移しの社であります。春日大社古記録によると、延享3年(1746)春日大社が第46次式年遷官による御造営のとき旧社殿のうち第三殿を譲渡した、とある。」
鳥居



拝殿



狛犬



本殿(奈良市指定文化財)
『一間春日造、檜皮葺。享保13年(1728)建築、鏡神社は大同元年(806)に新薬師寺の鎮守として勧請されたと伝える。記録には春日大社第47次式年造替の延享3年に、本社本殿の第三殿を鏡神社に譲渡したとあり、さらに昭和34年の本殿修理中には、屋根裏から「三ノ御殿」の墨書銘が二か所で発見されている。鏡神社本殿は、春日大社本社の旧本殿であり、当初の部材がよく残るとともに、移築の経緯も記録に残っていて貴重である。』

比賣神社・鏡神社の摂社








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般若寺

2018-02-21 18:38:03 | 奈良
2018年2月18日、奈良市内観光で般若寺にお参りしました。拝観料500円です。
パンフレットより「奈良坂の古道にそって立つ般若寺は、飛鳥時代に高句麗の慧潅法師によって開かれた。都が奈良に遷って天平7年(735)、聖武天皇が平城京の鬼門を守るため『大般若経』を基壇に納め卒塔婆を建てられたのが寺名の起こりとされる。そして平安のころには学問寺として千人の学僧を集めて栄えたが、治承4年(1180)平家の南都攻めにあい伽藍は灰燼に帰した。鎌倉時代に入って廃墟の中から、十三重石宝塔をはじめ七堂伽藍の再建が行われ寺観は旧に復した。なかでも金堂本尊には西大寺叡尊上人により丈六の文殊菩薩がまつられ信仰の中心となった。上人は菩薩の教えである利他の行(自己を高め他のためにはたらく)を実践し、弟子の忍性、良慧たちと病者や貧者の救済に力をつくされた。その尊い慈善活動は福祉の先駆として歴史に名高い、般若寺はその後、室町戦国の兵火、江戸の復興、明治の廃仏棄釈と栄枯盛衰を経ながらも、真言律宗の法灯をかかげ今にいたっている。また当寺は『平家物語』や『太平記』『宮本武蔵』など歴史文学の舞台としても世に知られる。そして四季折々の花は古寺の庭に彩りと風情を添えている。」
奈良市般若寺町221
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楼門(国宝)
「鎌倉前期の文永頃(1264-1274)建造、一間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺。真言律の宗祖、叡尊上人らによる鎌倉再興伽藍(文永4年)で文殊金堂と十三重石塔を囲む廻廊の西門として建てられました。正門は南大門、中大門であったが戦国の兵火で失われ、寺中を貫く京街道に面した楼門のみが保存された。楼閣づくりという意味の『楼門」建築では日本最古の遺構です。はばたく鳥のつばさのような軽やかな屋根のそりをもち、小さいながらも均等のとれた姿は「最も美しい楼門」とたとえられています。全体の伝統の和様式で、蟇股や屋根を支える木組の肘木などに新しく伝来した『大仏様式』が折衷され、二階の扉や欄干などにも軽快で繊細な感覚が見られます。」







境内















西国三十三所観音石仏
「江戸時代の元禄15年(1702)、山城国北稲八間の寺島氏が病気平癒の御礼に奉納」









平重衡公供養塔
『平清盛の五男。三位の中将。治承4年(1181)5月、「以仁王の乱「を平定した後、12月11日には滋賀園城寺を焼討し、同月25日に大軍を率いて南都へ向かう。興福寺宗徒は奈良坂般若寺に垣楯、逆茂木を廻らせ迎え撃った。28日、平家勢4万、南都勢7千が般若寺の地で戦い、夜分に入り総大将重衡が般若寺の門前に立って「夜戦さになって、暗さもくらし、さらば火を出だせ」と明かりを採る火を命じたのだが、折からの北風にあおられた火は般若寺を焼き、東大寺興福寺など南都の大伽藍を焼く尽くしました。後日、「一の谷」で平氏は源氏に敗れ、重衡は「須磨」で囚われの身になり鎌倉に送られました。しかし重衡を恨んでいた南都の大衆は身柄を引き取り、木津川の河原で処刑し、その首を持ち帰り般若寺の門前に曝したという。かつて般若寺の東の山裾に「重衡の首塚」と伝える塚があったが今は不明。墓と伝えるものは京都伏見区日野、木津川市安福寺、高野山にもある。武勇に優れた重衡は、また「なまめかしくきよらか」と評判で、宮廷の女房方にも人気のある公達でした。保元2年(1157)生、文治元年(1185)6月23日示寂。享年29歳。』

藤原頼長公供養塔
『平安後期の人。摂政関白藤原忠実の次男。若くして内大臣(17歳)、左大臣(29歳)となり朝廷政治に辣腕をふるう。「日本一の大学生」と称賛された俊才であったが、崇徳天皇に仕え、「保元の乱」の謀主とされた。合戦の最中流れ矢が首に刺さり重傷を負い、奈良興福寺まで逃れたが落命す。遺骸は「般若山のほとり」(般若寺南にあった般若野五三昧)に葬られるも、京都から実検使が来て墓を暴いたという。保安元年(1120)生まれ、保元元年(1156)7月14日逝去。享年37歳。お墓は北山十八間の東方の位置だと思われるが、所在不明。』

十三重石塔(重要文化財)
『花崗岩製、総高14.2メートル、基壇辺12.3メートル、奈良時代、平城京のため聖務天皇が大般若経を地底に収め塔を建てたと伝えるが、現存の塔は東大寺の鎌倉復興に渡来した宋人の石大工 伊行末が建長5年(1253)頃に建立した。発願者は「大善功の人」としか判明しないが、完成させたのは観良房良慧で、続いて伽藍を再建し、般若寺再興の願主上人と称された。以降数度の大地震や兵火、廃仏毀釈の嵐に見舞われるも、昭和39年(1964)大修理を施し現在に至る。初重軸には東面に薬師、西面に阿弥陀、南面に釈迦、北面に弥勒の四方仏を刻む。なお、修理の際、塔内から発見の白鳳金銅阿弥陀仏とその胎内仏は秘仏として、特別公開の時のみ公開される。』

本堂
「戦国時代、旧金堂が焼けたあと寛文7年(1667)、妙寂院高任・妙高栄が勧進して再建。屋根は入母屋造り、外陣は吹き放しとする古様の形式を残す。」





















般若寺型石灯籠
「鎌倉時代のもので、別名、文殊型ともいう名灯籠。豪華な蓮台、宝珠など各部が装飾性に富む。火袋には唐獅子、牡丹、鳳凰の彫刻がみられる。」

鐘楼

力だめしの石



鎮守社
「伊勢、春日、八幡の三社を合祀する。この三明神は真言律宗では『伊勢神道』『三輪神道』に基づき伊勢は金胎両部の大日如来の垂迹神、春日は法相の垂迹神、そして八幡は仏法の守護神であり、仏菩薩と同体とみなして篤く信仰を勧めてきた。明治の『神仏分離令』により不幸にも鎮守社が切り離され寺が多い中にあって、当麻では幸いにも寺に残りました。」

一切経蔵(重要文化財)
「鎌倉後期(1275-1332)建築、桁行三間、梁間二間、一重、切妻造、本瓦葺。経蔵は石塔の背後に西面して立ち、簡素な建物であるが、中世の経蔵として数少ない遺構の一つである。内部は三方に経棚があり、天井は垂木が見える化粧屋根裏となっている。『太平記』で名高い大塔宮護良親王が唐櫃に隠れ危難をのがれたのはこの経蔵であった。」



笠塔婆(重要文化財)
「宋人石工伊行吉が弘長元年(1261)に父伊行末の壱周忌にあたり、父母の供養のために建立。もと寺の南方、般若野と呼ぶ墓地の入り口にあったが廃仏毀釈で破壊され明治26年、境内に移転再建される。下部に264文字の銘文があり、東大寺再建にたずさわった宋人石工の事績が知られる貴重な史料。」

歌碑












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秋篠寺・八所御霊神社

2018-02-20 20:04:49 | 奈良
2018年2月18日、奈良1泊旅行で、奈良市内の外周コースを巡ります。最初の訪問地は秋篠寺です。拝観料は500円。
秋篠寺沿革についてパンフレットより「奈良時代末期宝亀7年(776)、光仁天皇の勅願により地を平城宮大極殿西北の高台に占め、薬師如来を本尊と拝し僧正善珠大徳の開基になる当寺造営は、次代桓武天皇の勅旨に引き継がれ平安遷都とほゞ時を同じくしてその完成を見、殊に承和初年常暁律師により大元帥御修法の伝来されて以降、大元帥明王影現の霊地たる由緒を以って歴朝の尊願を重ね真言密教道場として隆盛を極めるも、保延元年(1135)一山兵火に罹り僅かに講堂他数棟を残すのみにて金堂東西両塔等主要伽藍の大部分を焼失し、そのおもかげは現今もなお林中に点在する数多の礎石及び境内各処より出土する古瓦等に偲ぶ外なく、更に鎌倉時代以降、現本堂の改修をはじめ諸尊像の修理、南大門の再興等室町各時代に至る復興造営の甲斐も空しく、明治初年廃仏棄釈の嵐は十指に余る諸院諸坊とともに寺域の大半を奪い、自然のままに繁る樹林の中に千古の歴史を秘めて佇む現在の姿を呈するに至っている。
 当寺草創に関しては一面、宝亀以前当時秋篠朝臣の所領であったと思われる当地に既に秋篠氏の氏寺として営まれていた一寺院があり、後に光仁天皇が善珠僧正を招じて勅願時に変えられたと見る説もあり、詳しくは今後の研究を待つ外ないが、当時の名称の起りを解明する一見解として留意すべきである。
 なお宗派は当初の法相宗より平安時代以降真言宗に転じ、明治初年浄土宗に属するも、昭和24年以降単立宗教法人として既成の如何なる宗派宗旨にも偏することなく仏教2500年の伝統に立脚して新時代に在るべき人間の姿を築かんとするものである。」
奈良市秋篠町757
map
歴史の道観光案内図

東門





香水閣

十三社

参道





拝観受付

大元堂







行基





開山堂

鬼面瓦

供養塔

霊堂



本堂(国宝)
「当時創建当初講堂として建立された金堂の焼失以降鎌倉時代に大修理を受け、以来本堂と呼ばれてきたもの。事実上鎌倉時代の建築と考えるべきであるが様式的に奈良時代建築の伝統を生かし単純素朴の中にも均整と落ちつきを見せる純和様建築として注目される。桁行5間(17.45メートル)、梁間4間(12.12メートル)、軒高3.78メートル、軒出2.29メートル。堂内尊像として、重要文化財の薬師如来、帝釈天、日光菩薩・月光菩薩、地蔵菩薩、伎芸天が祀られている。」














鐘楼













本坊庫裏







東塔跡礎石



南門

八所御霊神社
秋篠寺の南門の横に鎮座しています。元秋篠寺の鎮守社。由緒沿革は定かでない。

鳥居





手水舎



拝殿



狛犬



本殿(奈良県指定文化財)
説明書より「御祭神は崇道天皇ほか7柱を祀る。本殿は3間流造、桧皮葺で、装飾は少なく、木割りは太い簡素な建物である。建立年代は明らかでないが、細部の様式から見ると、室町時代を降らないものと認められる。この建物は伝統的な形式と手法を持ち、春日大社二十八所神社本殿と酷似しており、その旧社殿の可能性が強い。春日系の建物のうちでも古い方に属する重要な遺構である。」

井戸
コメント
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