旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

郡上八幡城(木造再建城としては最古)

2017-06-30 14:41:33 | 岐阜
2017年6月27日、美濃の卯建の上がる町並み、郡上八幡城、郡上八幡城下町の散策、そして下呂温泉、名古屋城の1泊2日の旅行です。美濃市の次は郡上八幡城です。梅雨ですが、雨が降らずに眺望もいいです。
郡上八幡城の案内図

郡上八幡城
パンフレットより『別称、積翆城、郡上城、山城で創建は永禄9年(1566)、天守は昭和8年(1933)に模擬天守として建築。4層5階建木造建築、木造再建城としては日本最古、建面積118.98㎡(35.99坪)、述面積309.11㎡(93.50坪)、高さ17.18m、石垣等の城跡は岐阜県指定史跡。
 承久3年(1221)、下総国(千葉)香取郡東庄の領主、東胤行(とうのたねゆき:鎌倉幕府の有力御家人、千葉氏の家系)が山田庄(現、高鷲・白鳥・大和・八幡北部の地域)の地頭職をうけ郡上東氏の初代となった。東氏は阿千葉城(大和町剣)を築き90年ほど居住した後、篠脇城(大和町牧)へ居を移し郡上支配を固めていった。
 応永16年(1409)、東益之は郡上東部の支配のために赤谷山に犬啼山城(八幡町安久田)を築く。応仁2年(1468)、東常縁の東征の留守をついて、美濃国守護土岐氏の守護代・斉藤妙春に篠脇城と所領を奪われる事件がおこるが後に返還した。
永禄2年(1559)、八朔の祝いの席で東常慶と常堯親子に遠藤胤縁が暗殺される事件が起こった。胤縁の弟・遠藤盛数と胤縁の子・胤俊は、牛首山(八幡山)に陣をしき、弔い合戦の名目で「赤谷山城の戦い」を起し、約340年続いた郡上東氏を滅ぼした。盛数と胤俊は郡上を半分ずつ領有し、郡上の両遠藤と呼ばれた。
 永禄5年(1562)、盛数死去により長子慶隆が13歳で跡を継いだ。永禄7年(1564)、胤俊が慶隆へ叛旗を翻す事件が起きた。翌年、慶隆は母が再婚した関城主の長井道利の助けを得てこれを退けた。
永禄9年(1566)、郡上を統一した慶隆は、郡上八幡城や城下町の建設をおこなうかたわら、織田信長の配下として、姉川の合戦をはじめ各地を転戦し戦功をあげた。
 天正16年(1588)、慶隆は岐阜城主・織田信孝にあったため豊臣秀吉に疎まれ、加茂郡小原(岐阜県加茂郡白川町)に転封となり、稲葉一鉄の子・稲葉貞通が四万石で入部した。
 慶長5年(1600)、遠藤慶隆は徳川家康に願い出て、飛騨の金森可重の援軍を受け、9月1日「郡上八幡の戦い」を起こした。慶隆は大宮山王(現八幡町日吉神社)に着陣し、小野滝山に陣をしいた可重と両面から城を攻撃し激戦となった。勝敗は決まらず、翌2日、城の稲葉通孝(貞通の末子)から和睦の申し出があり、慶隆は陣を赤谷(現愛宕公園)へ移した。その頃、犬山城にいた稲葉貞通は郡上八幡城攻撃の報を受け、急遽兵をまとめ3日の明け方、慶隆の赤谷本陣を奇襲した。慶隆は小野滝山の可重の陣に危うく逃れた。翌4日、貞通は小野滝山の陣に使者を送り和議が成立した。郡上八幡の戦いの後、遠藤慶隆は関ヶ原の戦いに東軍として参加し、郡上八幡城主として二万七千石に封ぜられた。稲葉貞通は豊後国(大分県)臼杵へ五万石で転封となった。
 慶長8年(1603)、江戸幕府はじまる。遠藤慶隆は初代郡上藩主となる。』
岐阜県郡上市八幡町柳町一の平659
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城まで、一方通行の道路があり駐車場に行きます。拝観料310円です。
案内図



野面積みの石垣





隅櫓







力石伝説「赤髭作兵衛の力石」
「城の改修の際、郡上各地から駆り出された人夫の中でもひときわ剛腕で知られていた釼村(現大和町剣)の作兵衛(通称赤髭)が約350kgもの大石を城下の河原から一人で背負いあげて運んでいるのを見た譜請奉行がその力量を褒め讃えたところ、作兵衛が感激のあまりその場で卒倒して息絶えてしまった。哀れんで奉行はこの石の使用を禁じたが、昭和8年の城再建の折、放置されていたこの石が見つかり力石として安置されました。」



隅櫓と天守閣





八幡城の沿革

郡上八幡からの眺望

東殿山城跡
「前方の高い峯が東殿山で東側の頂上が城跡である。天文11年(1542)頃、東常慶によって築かれた城で、東西南北約30mの四辺形をなし断崖と急斜面の天然の要塞である。現在西側には四段に分かれて周囲に石垣が残っている。永禄2年(1559)、8月の合戦で八幡山に陣を構えた遠藤盛数の軍勢一千余騎に愛宕山方面から攻められたてこもった常慶軍は10日間の死闘の末ついに落城し滅ぼされた。この激闘で追いつめられた城兵が断崖からころげ落ちて死んでいった東側を今も地獄谷と呼ぶ。」







奥の院



天守閣

人柱伝説「およしの物語」
「城の改修の際、工事が難航を極め、ついに人柱をたてることになりました。白羽の矢が立ったのは神路村(現大和町神路)の数え年17歳の美しい娘およし。用材となる大木の運搬を不思議な力で手助けしたと噂が奉行の耳に入っていたのです。お城を護る為にと意を決したおよしは、吉田川で身を清め純白の振袖と帯を纏い、人柱としてお城の下に眠ったのです。美しい乙女の魂が城を永えに守り抜いたというかなしくも美しい伝えを人々は忘れずに現在もおまつりを続けている。」



眺望





天守閣入口

駕籠



























































































首洗い井戸
「慶長合戦に際して討ち取られた寄せ手の名のある武士のチ泥で汚れた首が洗い浄められ、首実検に供されたという。」



次は郡上八幡の城下町の散策です。郡上八幡観光協会横の駐車場に移動します。
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美濃・うだつの上がる町並み

2017-06-30 09:59:41 | 岐阜
2017年6月27日、美濃・郡上八幡の散策で下呂温泉宿泊、名古屋城観光の1泊2日の旅行です。中国自動車道、名神高速道路、東海北陸自動車道の美濃ICで降ります。250Kmの走行です。最初の目的地は美濃市のうだつの上がる町並みで重要伝統的建造物群保存地区に指定されています。図書館横の無料駐車場に車を止めて反時計回りに散策します。
小倉山城櫓

















小倉公園に沿って長良川へ歩きます。葉もみじが素敵ですね。



美濃橋(重要文化財)
「大正5年(1916)建造、鋼製補剛吊橋、橋長113.0m、幅員3.1m、コンクリート造アンカーレイジ2基を含む。美濃橋は,美濃市街地の北部,小倉山の西方を長良川が湾曲して流れる地点に架かる吊橋である。岐阜県技師戸谷亥名蔵を中心に建設が進められ、大正4年8月起工、同5年8月に竣工した。橋長113m、支間116m、幅員3.1mの単径間補剛吊橋である。 両岸に据えられたアンカーレイジに、鉄筋コンクリート造の主塔から吊るされた主ケーブルを碇着し、吊ケーブルで支持された橋桁を鉄骨トラスで補剛する。美濃橋は、わが国に現存する最古の近代吊橋として、橋梁建設史上、高い価値がある。近代吊橋の要素を構造躯体全体に備え、建設当時わが国で最大級の支間を実現した、大正期を代表する吊橋として、重要といえる。」
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長良川



川沿いに西に進みます。
前野渡舟場跡
「この渡舟場は、室町時代から牧谷と上有知をつなぐ重要な通路であった。昔は下渡りに対して上の渡しといっていたと推察される。安毛から曽代に渡る道もあったが、前野に来てこの渡しを通り港町の坂を登り上条を経て上有知に入るのが近道であった。当時、上有知の町は上条の段丘下の低地にあったが、、関ヶ原戦後、金森長近によって新城下町上有知が造られ、この渡舟場近くに上有知湊が開かれた。」



川端地蔵さん
「長良川での水の犠牲者が多く出た。当時の清泰寺住職高林玄宝老師は深く是を憐れみ、水難者の霊を慰める共に今後は水難者のでないようにと、川端に延命地蔵尊の建立をしました。」





曽代用水(世界かんがい施設遺産)



近くにトイレがあります。



川湊灯台、上有知(こうづち)湊跡(岐阜県指定史跡)
「慶長6年(1601)、金森長近が領主となり小倉山城を築き、城下町上有知をつくりました。その繁栄策として、上有知湊を開き、番船40艘をおき、物資交流の要所としました。その後、江戸時代は美濃国四大川湊の一つとして明治末年電車が開通するまで水運の要点でした。この住吉灯台は水の守護神、住吉神社の献灯を兼ねて江戸末期に建てられました。川湊の灯台として現存する全国的にも珍しい貴重な建造物である。」





住吉神社



川沿いの道を進むとT字路で左に曲がり古い町並みへ進みます。途中右手に須田家です。
「須田家は代々万右衛門を襲名する素封家(大金持ち)でした。上有知一番の大地主と言われていた。戦後の農地解放で多くの田畑を失った。須田家は紙業の問屋を営んでいた時期もあつたが、明治27年には当主が国会議員に選出され、金鉱山の試掘や地元の有力者達と有知銀行をおこし、紙業会社類4商会を設立するなど大活躍した。」











梅村家住宅
「江戸時代の紙商、長瀬の武井助右衛門と共同事業として尾張藩の藩札を一手に引き受けたことも記録に残っている。」











旧武藤家
「豪華な屋敷構え、旧武藤家は上有知町づくりに際し、金森長近が関の刀匠を招いて移住させたと伝えられている。はじめは刀鍛冶、後に刃物金物を業として今日に至っていた。卯建造りの右と後方に大きな倉庫を並べ、いかにも富裕さを誇示するかのような構えである。建築年代は江戸末期であるが、装飾の多い卯建や塗籠の壁などは、明治時代になってからの改造であろう。家の前に円環をとりつけた石があるが、これは馬車の使用が多かった時代の馬繋石である。」









一番町通り



らんたんや









町並み案内図





願念寺、真宗大谷派の寺院
寺標



山門



鐘楼





本堂







寺院を出て、南に進みます。







左に曲がって、二番町通りを東向きに進みます。









鈴屋

町並みギャラリー、山田家住宅、入場料無料ですが、火曜日は休館日でした。

























小坂家住宅(重要文化財)
「小坂家は代々つくり酒屋を営む素封家で、母屋から後ろに続く酒蔵まで総べて江戸時代の建築である。むくり屋根の町家は珍しく、上方の影響を受けたものである。卯建飾りは鬼瓦を欠く古風なものである。元来は三本卯建の家であったが、明治時代に中央の卯建を取り除いて現在の姿となった。軒に吊るす杉玉は酒屋の印、四角の箱は火防の神を祀る。内部は一部、明治の改造であるが、帳場の構えや建具の一つ一つに江戸時代の美しい姿が残されている。」































古川家住宅
「古川家は大火焼失後、明治初期の建築である。平野家という呉服家であった。江戸時代には卯建に隣接して卯建を建てた事例はない。この家は明治の新しい自由な気風にのって、あえて隣家の間に空地をとり、立派な卯建造りを新築した。建ちもわずかながら高く、軒飾りも一層手がこんでいる。」



















北側に進み一番通りに行きます。









旧今井家住宅・美濃史料館(美濃市重要文化財)
「江戸時代中期の建築で、古い形式の卯建造り、美濃の代表的商家のひとつである。間口15.8m、奥行15.8mで8畳間9つどりを基本形にした最大規模の家屋である。江戸時代から紙の原料商として繁栄をつづけ、江戸末期には庄屋を、戦前には町の諸役を勤めた名家である。」



















大石家住宅
「明治5年の卯建造り、この家には棟札があり、建築年代がはっきりした家の一つである。この家は明治の頃は米屋を営み、若主人は自由民権運動の闘士として活躍した。卯建飾りは江戸時代より一層豪華となり大きい鬼瓦、太くして装飾一杯の破風瓦、大きな懸魚がつき、明治の卯建の特色を表わしている。」







寶勝院、真言宗醍醐派の寺院























庫裏









次は郡上八幡城に移動します。
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羽咋の妙成寺、はくさん街道市場

2017-06-23 22:32:22 | 石川
2017年6月20日、富山・石川2泊3日の旅行の最終日です。18日は神戸出発し、富山市八尾の街並み散策、富山城、富山市岩瀬の街並み散策、宇奈月温泉の杉乃井ホテルに宿泊し、19日は高岡の国宝の建物がある瑞龍寺、高岡大仏、重要伝統的建造物群保存地区の高岡市山町筋と金屋町の散策、日本のベニスといわれる射水市の内川、七尾の一本杉通り、高岡市の気多神社、和倉温泉で大観荘に宿泊、20日は神戸に帰路になります。無料の自動車専用道路の「のと里山海道」で柳田ICで降りて、羽咋の気多大社にお参りしし、次は妙成寺にお参りして、神戸に帰ります。
妙成寺(みょうじょうじ)
石川県羽咋市滝谷町ヨ-1
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拝観料500円です。
パンフレットより「当山は北陸に於ける日蓮宗の本山である。今から700有余年前の永仁2年(1294)日蓮聖人の弟子・日像聖人が師命により妙法を京都に広めんとして佐渡から都上がりの途中船中で能登石動山天平寺座主満蔵法印(日乗聖人)を教化改宗一寺を建立したのが当山のはじめである。今の建物は、加賀前田家初代から五代に亘って造営されたもので、殊に三代利常公は生母寿福院の菩提所として本堂・祖師堂・五重塔等を建立し、前田家御用大工坂上又三郎親子三代によって桃山建築の雄渾華麗な面が遺憾なく発揮されている。」
総門

売店



寺標

案内図

説明書

客殿









庫裏(重要文化財)
「江戸前期の文禄2年(1593)建立、桁行16.4m、梁間10.2m、一重、正面切妻造、背面入母屋造、東面庇付、妻入、こけら葺。妙成寺最古の建築である。前田家外護以前に当庫裏が存在していた。当地の大工の手になり地方特色が濃く、長押、鴨居等の技法に時代的古色を表している。床下の一部に地下穴蔵を造って倉庫として居室廻りなど簡単な間取りは建築様式上、極めて古式と伝えられるものである。」





境内



浄行堂
「浄行菩薩は法華経に出現する菩薩で水が垢や穢れを清めるが如く吾々の煩悩の汚泥を除く。古来この菩薩に水をそそぎたわしでこすって願いをかけてきた。当山開山日像菩薩は浄行菩薩の垂迹といわれている。」

二王門(重要文化財)
「江戸前期の寛永2年(1625)建立、三間一戸楼門、入母屋造、桟瓦葺。禅宗の重層三間とは対照的である。二王尊は阿行と吽行である。」















鐘楼(重要文化財)
「江戸前期の寛永2年(1625)建立、桁行三間、梁間二間、袴腰付、入母屋造、こけら葺。純和様を以て造られ袴腰と呼ばれる子市廻りの板囲いは入母屋屋根とよく均勢を保っている。本堂、祖師堂、五重塔と共に日蓮宗伽藍様式を小長するものである。」













開山堂(石川県指定文化財)
「延宝5年(1677)の建立、歴代供養笠塔婆を安置している。堂内には中世造立の石造笠塔婆七基を安置し、その内三基は市文化財に指定されている。」

経堂(重要文化財)
「江戸中期の寛文10年(1670)に四代藩主前田光高公の遺願によって建立された。桁行五間、梁間三間、一重、寄棟造、桟瓦葺。前一間通りを吹放しとし他は板壁を以て構成、天海版一切経を納める。北陸地方最古の法華経版木(応永22年)を蔵する。」





五重塔(重要文化財)
「江戸前期の元和4年(1618)建立、三間五重塔婆、とち葺。露盤下迄の高さ27.27m、総高34.18m、前田家御用大工坂上越後守嘉紹を棟梁として建立、北陸唯一の木造五重塔で、江戸時代初期の代表的傑作の一つでありとち葺の屋根は五重塔としては全国唯一である。」













北前船の豪商・西村家忠兵衛の墓



加賀騒動の大槻伝蔵の墓









浩妙院の墓
「3代藩主利常の長女」



寿福院の墓
「3代藩主利常の母」



丈六堂[釈迦堂](石川県指定文化財)
「貞享3年(1686)建立、丈六(約5m)立像の釈迦牟尼仏を奉安してある。重層入母屋造、柿葺。」







閻魔堂



三十番神堂拝殿(石川県指定文化財)



三十番神堂(重要文化財)
「桃山時代の慶長19年(1614)建立、三間社流造、正面軒唐破風付、こけら葺。桃山時代の技法をよく表わしている。一説に京都北野天満宮より移築したと伝えられ、洗練された美しさを有する。内陣には日本の国神三十体を祭祀するので三十番神堂と称し、日蓮宗伽藍として重要な堂舎である。」













三光堂(重要文化財)
「江戸前期の元和9年(1623)建立、桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、こけら葺。屋根大棟両端の鬼瓦は石造りで地方色をよく表わし、堂内に三光天(日天・月天・明星天)が安置されているので三光堂と云われ、鎮護国家の祈願が行われてきた。」



本堂(重要文化財)
「桃山時代の慶長19年(1604)三代藩主前田利常公の帰依により前田家御用大工坂上又三郎を棟梁として建立された。桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝一間、こけら葺。京都建仁寺流の流技により桃山時代の雄渾な手法を遺憾なく発揮し、構成(内部・内・外陣区画)の厳格な形式など密教風の古式な所がうかがわれる。本尊は、一塔両尊、四天王菩薩などである。」













回廊

祖師堂(重要文化財)
「桃山時代の寛永元年(1624)の建立と伝えられ、桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、こけら葺。坂上一統の手による建物で唐様式を主調とし妙成寺建築物中、出色の貴重なものである。堂内の厨子も重要文化財に指定され宗祖日蓮大菩薩の尊像を安置する。」







回廊



庭園(石川県指定名勝)
「自然の地形を利用して築造された蓬莱式池泉鑑賞庭園で、江戸時代前期の作庭である。」













書院(重要文化財)
「江戸前期の万治2年(1659)綱紀の代建立、桁行15.0m、梁間14.0m、一重、寄棟造、こけら葺。前田家代々の菩提と利常公生母寿福院殿、息女浩妙院殿の冥福を祈るための御霊屋を営んで併せて参拝の御座所として建てられたものである。装飾は多く用いず、構造美を主とし江戸時代の建築であるが桃山文化の豪快な面も有する。」









大鏡寺











本覚寺



善住寺





いよいよ神戸に帰ります。
はくさん街道市場
「北陸自動車道の徳光PAに併設されています。1階が海産物や土産物店、2階が飲食店となっています。」





















































3日間天気がよくて、ドライブと観光を充分楽しみました。お疲れ様でした。
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羽咋の気多大社

2017-06-23 21:26:38 | 石川
2017年6月20日、富山・石川2泊3日の旅行の最終日です。18日は神戸出発し、富山市八尾の街並み散策、富山城、富山市岩瀬の街並み散策、宇奈月温泉の杉乃井ホテルに宿泊し、19日は高岡の国宝の建物がある瑞龍寺、高岡大仏、重要伝統的建造物群保存地区の高岡市山町筋と金屋町の散策、日本のベニスといわれる射水市の内川、七尾の一本杉通り、高岡市の気多神社、和倉温泉で大観荘に宿泊、20日は神戸に帰路になります。輪島にも行きたかったのですが、今回の行程では無理なので、次回に機会があればと思います。無料の自動車専用道路の「のと里山海道」で柳田ICで降りて、羽咋の気多大社と妙成寺にお参りして、神戸に帰ります。
気多大社
石川県羽咋市寺家町ク
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説明書より「当大社の御祭神は、大国主命と申し、能登の地を開いた大神と仰がれています。創立年代は、第10代崇神天皇の御代と伝えられ、延喜の制では、名神大社に列しています。本殿背後約1万坪の社叢林(入らずの森)中央の奥宮には素戔嗚尊、奇稲田姫命が祀られています。





鳥居

参道、天気がよくて最高ですね。







養老大国像奉安殿

受付所



狛犬、天を仰いでいるような感じ。



手水舎

神門(重要文化財)
「室町後期の慶長年間(1467-1572)建立、四脚門、切妻造、檜皮葺。」





拝殿(重要文化財)
平成30年8月31日まで保存工事中でした。
「江戸前期の承応3年(1654)建立、桁行三間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、檜皮葺。」



本殿(重要文化財)
「江戸後期の天明7年(1787)建立、桁行三間、梁間四間、一重、両流造、向拝一間、檜皮葺。」




摂社白山神社本殿(重要文化財)
「江戸後期の天明7年(1787)建立、三間社流造、向拝一間、檜皮葺。」



摂社若宮神社本殿
「室町後期の永禄12年(1569)建立、一間社流造、檜皮葺。」

神庫(石川県指定有形文化財)

入らずの森

太玉神社







縁結びの道

菅原神社






正覚院
説明書より『当山は気多神社の神宮寺(別当寺)として創建され、元正天皇御代養老2年(718)に越前の大徳泰澄大師が、夢想のお告げから一堂を建立したと伝えられる。その後、文徳天皇斉衡2年(855)に亀鶴蓬莱山気多太神宮寺の勅号を給い、同時に「常住の僧を置き、出家の定数3人を認めるから永久に絶やすことのないように」との指令が出される(文徳実録)。以来、一千有余年神社に奉仕してきたが、明治維新の神仏分離令により、直接の関係を絶つ。しかし今でも神仏混淆当時の面影を残し、もと本殿奉安「八咫の神鏡」をはじめ、開かずの宮といわれる護摩堂本尊「不動明王」、重文「阿弥陀如来」など多くの寺宝を秘蔵する。』

山門



鐘楼



本堂













護摩堂





阿弥陀堂

次に妙成寺に移動します。約5km10分ほど北に走ります。
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和倉温泉・大観荘

2017-06-22 21:59:46 | 温泉、旅館、ホテル
2017年6月19日、富山・石川2泊3日の旅行の2目の宿です。和倉温泉は白鷺が傷を癒し、羽を休めた海のいで湯で、こころと体を安らげる。伝説の温泉地です。
プラン名は、量控えめ・あわび&和牛[本館]です。風呂は内湯と露天風呂、サウナ風呂があります。泉質は、含塩化土類食塩泉で結構塩辛いです。リーズナブルでいいですね。
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外観





部屋



おもてなし

部屋からの眺望





エレベーターホール



花嫁のれん







ロビー

売店









夕食は会場です。
あわび

えび

もずく

生えび

造り

牛の陶板焼き

茶碗蒸し

朝食



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七尾の一本杉通り、和倉温泉の街並み

2017-06-22 21:57:40 | 石川
2017年6月19日、2泊3日の富山・石川観光で、宇奈月温泉・杉乃井ホテルに宿泊し、2日目です。宇奈月温泉から高岡市に移動し、瑞龍寺、前田利長公墓所と繁久寺をお参りしました。移動し、高岡大仏、高岡古城公園、射水神社にお参りし、重要伝統的建築物群保存地区の土蔵造りの町並みの山町筋と金屋町、有磯正八幡宮をお参りして、日本のベニスといわれる射水市の内川、高岡市の気多神社をお参りし、七尾の一本杉通りに来ました。
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「一本杉通りは、七尾駅前を流れる御禊川にかかる紅い欄干の仙対橋から、桜川の小島橋までの約500mのまっすぐな通りで、600年以上の歴史があります。この一本杉通りには、50店舗あまりの店がたちならび、建物は主に寄棟造りの町家で、いくつかは国の登録有形文化財に指定されており、当時の面影を残しています。」
花嫁のれん
『幕末から明治にかけて加賀藩の領地である加賀・能登・越中に見られる庶民の風習です。花嫁のれんの色や柄には時代ごとに流行り廃りがあり、麻や綿のものも見られますが、多くは絹で加賀友禅の手法が用いられています。花嫁は嫁入りの際、玄関先で実家と婚家の水を半分ずつ混ぜて飲み干し、実家の紋を入れた花嫁のれんを婚家の仏間の前でくぐります。婚家の仏前で手を合わせ「どうぞよろしくお願します。」とお参りしてから結婚式が始まります。』



仙対橋









高澤ろうそく店(登録有形文化財)
「明治43頃(1910)建築、土蔵造2階建、瓦葺、建築面積89㎡。七尾の中心を東西に貫く通りに北面して建つ。桁行5間半梁間4間半、土蔵造2階建、切妻造、桟瓦葺で、内部は1階を店舗、2階に展示スペース、座敷を配す。2階は小窓以外は塗り込め、1階の両端部も壁とする閉鎖的なつくりで、重厚な町家の正面を構成する。」





鳥居醤油店主屋(登録有形文化財)
「明治41(1908)建築、土蔵造2階建、瓦葺、建築面積124㎡。七尾の中心を東西に貫く通りに北面して建つ。桁行7間半梁間4間半、土蔵造2階建、切妻造、桟瓦葺で、内部は1階を店や座敷、2階は主に物置とする。間口が広く、軒の出の小さい重厚な構えで、つし2階としたたちの低い外観は、町並の景観に欠かせない存在。」









北島屋茶店主屋(登録有形文化財)
「明治37頃(1904頃)/昭和8改造(1933)、木造2階建、瓦葺、建築面積93㎡。住宅として建てられ昭和8年茶舗となる。間口4間奥行6間半、切妻造、桟瓦葺で、1階東に通り庭、西に表からミセの間、居室を1列に並べ、2階には表裏にそれぞれ次の間付座敷をとる。大火以前に遡る稀少な建物で、七尾中心地の歴史的景観に欠かせない町家。」



花嫁のれん館









能登食祭市場
七尾市府中町員外13-1
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「七尾の路の駅です。1Fが水産物、土産などの店、2Fが飲食店になっています。」















和倉温泉の街並み







少比古神社
「創建は不詳ですが、社伝では当初湯涌谷に温泉が湧き出したのは神の恵みだとして、その祠を建て祀ったが、永承3年(930)年前地震で湯元が変ったので現在地に移転し元来湯の薬師堂であったのを明治28年11月に現在の少比古神社の社名にした。」
鳥居



狛犬



夫婦神木



拝殿





信行寺









青林寺

















本堂





























総湯、入浴料440円



足湯























お疲れ様でした。
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射水市の内川、高岡の気多神社、ひみ番屋街

2017-06-22 21:56:53 | 富山
2017年6月19日、2泊3日の富山・石川観光で、宇奈月温泉・杉乃井ホテルに宿泊し、2日目です。宇奈月温泉から高岡市に移動し、瑞龍寺、前田利長公墓所と繁久寺をお参りしました。移動し、高岡大仏、高岡古城公園、射水神社にお参りし、重要伝統的建築物群保存地区の土蔵造りの町並みの山町筋と金屋町、有磯正八幡宮をお参りして、射水市の内川へ。
日本のベニスと讃えられ新湊には映画やドラマのロケで使われた場所が多数あります。「川の駅新湊」に自動車を止めて散策です。
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神楽橋
「郷土出身の大伴二三弥氏の制作によるステンドグラスがはめ込まれている橋です。」























気多神社に行きます。
高岡市伏木一宮1丁目10−1
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説明書より「気多神社は、養老2年(718)に僧の行基が創建したと伝えられ、また天平宝字元年(757)に、越中から能登国が分立した後、越の大社として崇められていた能登の羽咋にある気多大社を、越中国府に近い現在地に勧請したともいわれている。盛時には越中一宮として境内の周囲に神宮寺である徳証寺をはじめとする大伽藍が並立していたと伝えられるが、寿永年間(1182)に木曽義仲、天文年間(1532~1554)には上杉軍と二度の兵火で、ことごとく焼失したという。現在の本殿は、永禄年間(1558~1569)に再建されたと伝えられる。構造は三間流造り、柿板葺きで、正面に一間の向拝を付け、軒は二重繁棰である。斗栱は和様の三ツ斗で、軒下両側の面柱の上は舟肘木を用いている。向拝の斗栱は同じ三ツ斗で、正面の虹梁の上には彫刻した蟇股があるが、これは後代につけ加えたと思われる。向拝の柱及び前面の第一列に方柱を用い、他はすべて円柱である。正面の三面及び両側面の一面は吹通しとし、意匠は簡単であるが、木割は大きく、全体に雄大な風格を備え、県内の本殿中もっとも優れた建築物である。気多神社本殿は、室町時代の特徴が充分にあらわれており、作風が優秀であると評価され、重要文化財に指定された。」

社標





鳥居

参道





神馬



狛犬



拝殿





本殿(重要文化財)





神輿堂

大伴神社





















2日目の富山観光も終わり、石川の和倉温泉をめざします。
途中、氷見市の路の駅「ひみ番屋街」によりました。
「氷見漁港場外市場として設置されています。食事処、鮮魚・干物、みやげなどのお店が35店舗並んでいます。隣の施設は氷見温泉郷として沿総湯の日帰り温泉施設があります。ナトリウム・塩化物強塩温泉で10時から23時、入浴料は600円です。」
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いよいよ和倉温泉を目指します。
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高岡市山町筋と金屋町(重伝地区)・有礒正八幡宮

2017-06-22 21:56:15 | 富山
2017年6月19日、2泊3日の富山・石川観光で、宇奈月温泉・杉乃井ホテルに宿泊し、2日目です。宇奈月温泉から高岡市に移動し、瑞龍寺、前田利長公墓所と繁久寺をお参りしました。移動し、高岡大仏、高岡古城公園、射水神社にお参りし、土蔵造りの町並みの山町筋に行きます。
高岡市山町筋(重要伝統的建造物群保存地区)
「土蔵造や真壁造の町家、全面を洋風に仕上げた町家、レンガ造の洋風建築の銀行など、明治中期から、大正、昭和初期に建築された伝統的な建築物が残されています。」
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菅野家住宅(重要文化財)
「菅野家は、代々伝右衛門を襲名した高岡の代表的な商家で、江戸時代末期から明治にかけて、廻船の隆盛に伴い財を築いた。明治22年(1889)には高岡銀行を設立、同36年には、高岡電燈を設立する一方で、政界にも進出するなど高岡の政財界の中心的な存在であった。主屋は明治33年(1900)の高岡の大火の直後に再建され、土蔵も同時期の再建と推定される。主屋は、土蔵造、建築面積288.45m2、二階建、桟瓦葺、背面西方浴室及び便所附属。外観は黒漆喰仕上げである。2階の窓には、観音開きの土扉を備えるなど全体に重厚な趣みとなっているが、大棟、防火壁正面の石柱、正面庇の天井飾りや軒を支える鋳物の支柱などの細部の要所には細やかな装飾が施され、華やかな意匠としている。」















木船町の交差点を右に曲がって、金屋町に進みます。
千保川の鳳鳴橋









高岡市金屋町(重要伝統的建造物群保存地区)
「高岡市は、富山県の北西部に位置する。前田利長は高岡城の外側にあたる千保川西岸に、砺波郡西部金屋から七人の鋳物師を招き、東西50間、南北100間の土地を与えた。この拝領地を中心として金屋町が成立する。元和元年(1615)、高岡城は廃城となり、城下町は一時衰退するが、三代利常は高岡を商業の町として再興するため、町政組織の改善や商業振興を図る。こうした中で鋳物師は諸役免除され、生活用品や用具といった鋳物製造を行ってきた。保存地区は、東西約140メートル、南北約450メートル、面積約6.4ヘクタールで、市街地を流れる千保川西岸、旧拝領地とその周辺の範囲からなる。保存地区の中央を南北に金屋町通りが縦断し、江戸期から昭和初期までに建てられた町家が密度高く残る。敷地は短冊形で、道路に面して主屋を建て、主屋背面の中庭をはさんで土蔵が建ち、さらにその背後に作業場が置かれる。作業場で火災が発生した際に主屋への延焼を防ぐための工夫とされる。主屋は真壁造として、切妻造平入で桟瓦葺を基本とする。正面は、一階は出入り口に大戸を建て構え、サマノコと呼ばれる格子を設けるものが一般的であり、古いものには蔀が残る。二階は袖壁を設け、長押、貫を化粧でみせ、白い漆喰壁とコントラストをなす。蔵は、土蔵造、二階建を基本として、屋根は切妻造、桟瓦葺で、平入と妻入が混在している。蔵を並べて建てる場合は、その間に土戸と呼ばれる防火のための扉を設け、作業場で火災が発生した際には、戸を閉め、主屋への延焼を防いだとされる。高岡市金屋町伝統的建造物群保存地区は、高岡城下の建設に伴い鋳物師が集住して形成された町並みが今日までよく継承され、意匠的に優れた外観や質の高い造作をもつ町家と作業場や土蔵など鋳物製造に関わる建物がともに良く残り、特色ある歴史的風致を良く伝え、我が国にとって価値が高い。」

石畳













金屋町の説明書



































石畳

宗泉寺
「このお寺に安置している十一面観世音菩薩坐像は、旧北陸道を往来する人馬の道中の安全祈願と、道端で亡くなった人々の供養として祀られた。この仏像は、高岡鋳物師の名工、若野四郎左衛門の作である。」
山門

本堂









勝景寺









有礒正八幡宮
高岡市横田町3-1-1
「高岡古城公園の小竹薮付近にあったが、利長公による高岡城築城に際し、横田正八幡宮と合祀された。境内を囲んでいる築城様式の石垣は、その折りに前田家より奉納されたもので、ご祭神として利長公も祀られている。」
鳥居









神輿(高岡市指定文化財)



鳥居

手水舎

御神木(高岡市保存樹木のケヤキ)







かえる石

有礒正八幡宮拝殿及び幣殿(登録有形文化財)
「昭和10年(1935)建築、木造平屋建、銅板葺、建築面積159㎡。拝殿は1室で,正側面の各間に板戸を建て込み,正面に向拝を付ける。幣殿は一段高い板敷の床とし,左右に翼室を張出す。屋根は両殿を一体化し,八棟造,銅板葺とし,棟に千木,鰹木を置く。社殿の正面を構成し,伝統技法を用いつつ変化に富んだ外観を見せる」









社務所





高岡古城公園に戻ります。
横田橋

万葉線の路面電車





路面電車で方原町より広小路まで乗ります。150円です。



次は射水市の内川周辺に行きます。
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高岡大仏・高岡古城公園・射水神社

2017-06-22 21:55:33 | 富山
2017年6月19日、2泊3日の富山・石川観光で、宇奈月温泉・杉乃井ホテルに宿泊し、2日目です。宇奈月温泉から高岡市に移動し、瑞龍寺、前田利長公墓所と繁久寺をお参りしました。移動し、高岡大仏です。
大仏寺
『浄土宗の寺院で鳳徳山、奈良、鎌倉につぐ日本3大仏「高岡大仏」は、前田利長公が高岡城築城の折りに、現在地に移転された。幾多の焼失により、不燃の大仏の鋳造をと、伝統の銅器製造技術の粋を集め、30年の歳月をかけて昭和8年(1933)に完成された。すべて地元の手による大仏は、銅器日本一のまち高岡の象徴です。総高15.85m、重量65トン。』
高岡駅から北に300mのところです。拝観用無料駐車場があります。拝観料はいりませんが、志納です。
高岡市大手町11-29
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高岡大仏(高岡市指定文化財)
「高岡大仏は、坂下町極楽寺第十五世等誉上人が大仏建立を誓い、延享2年(1745)、木造金色の仏像を建立したのが始まりである。しかし、その像は文政4年(1821)に焼失、その後天保12年(1841)に再興されたが、これもまた明治33年(1900)の大火で焼失した。現在の大仏は、篤信家の松木宗左衛門が大仏の再建を発願し、明治40年(1907)に造営事業が着手された。その後、中川原町の萩布宗四郎らの協力により、20有余年の歳月を経て昭和8年(1933)に全工程を完了、5月に開眼式が行われた。」











銅燈籠

鐘楼

時鐘(高岡市指定文化財)
「江戸時代にはまだ時計が普及していなかったので、町民に時刻を知らせる必要があった。それは規則的な生活を営み、共同生活の秩序を保ち、生産の能率を上げ災害を防止する上にも重要であった。当時の高岡町奉行寺島蔵人は時鐘の鋳造を計画し藩の許可をえたところ、金屋町に前田利長以来の藩の厚い保護に報いるためその鋳造を願い出て文化元年(1804)に出来上がった。そうして9月11日午前6時から二番町会所でつきはじめたが、間もなく割目が生じて改鋳にせまられた。坂下町の鍋屋仁左衛門は、高岡鋳造の名声を傷つけたことを悲しみ、自ら多額の金品を寄付し、浄財を集め工人を督励などして文化3年(1806)7月には遂に見事な大鐘を完成した。これがこの時鐘で、口径120cm、厚18cm、高さ197cm、重量2250kg、この鐘の東南西北の鏡面に皆川淇園の筆になる銘が刻まれている。」



本堂









次は高岡古城公園に移動します。こちらも無料駐車場があります。
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公園案内図







































射水神社、公園内にあります。



由緒書
「創始は太古のことで年代は不祥ですが、創建は千三百年余り前の奈良時代以前とされています。社伝によれば、養老年間、僧行基が二上山麓に建てた養老寺に、二上権現と称して祀ったのが二上神の鎮座といわれ、その後、承平、天正の二度にわたる兵火で焼失しますが、慶長十五年(1610)、加賀藩主・前田利家公により復興。」



結婚式のようです。

手水舎

拝殿













社務所





公園を出て、山町筋、金屋町に行きます。
本丸橋



駐春橋




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瑞龍寺(国宝・高岡市)・前田利長公墓所

2017-06-22 21:54:14 | 富山
2017年6月19日、2泊3日の富山・石川観光で、宇奈月温泉・杉乃井ホテルに宿泊し、2日目です。宇奈月温泉から高岡市に移動し、まずは瑞龍寺です。高岡駅に南に800mの位置です。拝観料500円です。
富山県高岡市関本街35
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パフレットより「曹洞宗高岡山瑞龍寺は、加賀二代藩主前田利長公の菩提をともらうため三代藩主利常公によって建立された寺である。利長公は、深くその恩を感じ、時の名匠山上善右衛門嘉広をして七堂伽藍を完備し、広山恕陽禅師をもって開山された。造営は、正保年間から、利長公の五十回忌の寛文3年(1663)までの約20年の歳月を要した。当時、寺域は3万6千坪、周囲に壕をめぐらし、まさに城郭の姿を思わせるものがあった。平成9年12月3日、山門、仏殿、法堂が国宝に指定された。また、総門、禅堂、大庫裏、回廊、大茶堂が国の重要文化財に指定されており、江戸初期の禅宗寺院建築として高く評価されている。」
寺標



瑞龍寺の沿革

伽藍配置図
「伽藍は、鎌倉時代広く我国にもたらされた中国の寺院建築を模して建立されたもので、総門・山門・仏殿・法堂を一直線に配列し、左右に禅堂と大庫裏を置き、加えて四周を回廊で結ぶなど、厳粛且つ整然たる伽藍構成である。名匠山上善右衛門嘉広は、利長公の代より前田家の信任厚く、禅宗様建築を良くし、近世工匠の中でも一流の域に達した名工の一人であった。なお善右衛門はこの瑞龍寺の他に、能州滝谷の妙成寺、加州那谷寺の諸堂、越中大岩日石寺、能州一の宮気多大社、加州小松の天満宮等、多くの建築を命じられた。」

総門(重要文化財)
「江戸前期、正保年間の建立、三間一戸薬医門、切妻造、こけら葺、左右袖壁附属。」
山門(国宝)、工事中です。
「正保2年(1645)に建立され万治年間に場所を変えて建直す。延享3年(1746)火災で焼失、現在の建物は文政3年(1820)に竣工した。当時としてはめずらしく和算により設計されている。左右に金剛力士像を安置し、楼上には釈迦如来、十六羅漢をまつる。」

大庫裏(重要文化財)
「調理配膳や寺務運営を行う堂である。天井が漆喰で曲線になり結露に配慮してある。正面には韋駄天尊像がまつられている。」



















回廊(重要文化財)









禅堂(重要文化財)
「江戸末期の寛永元年(1624)建立、桁行七間、梁間五間、正面向唐破風向拝付、背面・両側面庇附属、一重、切妻造、こけら葺。」



仏殿(国宝)
「万治2年(1659)に建立された。桁行三間、梁間三間、一重もこし付、入母屋造、鉛瓦葺。山上善右衛門嘉広の最も心血を注いだ力作の一つで、総欅造りである。屋根は鉛板をもって葺かれている。これは全国においても金沢城石川門にその例をみるだけである。上層軒組は、禅宗建築の純粋な形式で、屋根裏の扇垂木やエビ虹梁など複雑にして妙をえた架構法である。御本尊として中国明代の釈迦・文殊・普賢の三尊をまつる。」















初層は和様の垂木

上層は禅様の垂木



内部の天井











法堂(国宝)
『江戸前期の明暦元年(1655)建立、桁行十一間、梁間九間、一重、入母屋造、銅板葺、向拝 桁行二間、梁間一間、一重、向唐破風造、銅板葺。建坪186坪。境内第一の大建築、総桧造りとなっている。構造は方丈建築に書院建築を加味したもので、六室より成っている。中央奥の内陣には二代藩主利長の御位牌が安置されている。法名は「瑞龍院殿聖山英賢大居士」。中央二室の格天井には狩野安信の四季の百花草が描かれており、正面の欄間には高岡という地名の由来となった鳳凰が刻まれている。』



















鐘楼

大茶堂(重要文化財)
「創建当初に造られたもので、その存在は全国的にも類例は少ない。その構造は外壁や軒下を土蔵と同じ大壁とし、内部を土天井とした大変珍しい防火建築物である。」









石廟(重要文化財)
「前田利長、利家、織田信長、同室正覚院、織田信長の分骨廟。石廟の中には、宝篋印塔がまつられている。」









前田利長石廟











鬼瓦

瑞龍寺周辺案内図

前田利長公墓所
瑞龍寺から八丁道(870m)を進むとあります。
説明書『加賀藩二代藩主・利長公(1562~1614)は関野に新しい城を築き、街づくりを進めて「高岡」と命名、この地で他界しました。利長公を敬愛された異母弟の三代藩主・利常公(1593~1658)が33回忌までに建立された壮大なお墓です。当時は5万余坪(現在は1万平方m)の敷地に墓守寺を配置、墓碑は豪壮な戸室石の基檀を含めて高さ12mの偉容を誇ります。国宝瑞龍寺・八丁道とともに先代藩主への厚い思慕の念と百万石の力量で造りあげた石の建造物として高い評価を得ています。』

八丁道、真直ぐにに続いています。

墓所入口

















繁久寺
「曹洞宗の寺院で、前田利長墓所の廟守の寺として造営されたお寺です。回廊に五百羅漢が安置されています。」
山門

本堂

選仏堂

玄関







次は高岡の街並み散策します。
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