旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

越前大野城

2019-09-28 18:50:11 | 福井
2019年9月25日、1泊2日の北陸観光で勝山城のあとに立ち寄りました。
越前大野城は、標高約249mの亀山に築かれた平山城で、1576(天正4)年頃、織田信長より大野郡の3分の2を与えられた金森長近により、4年の歳月をかけて築城されました。 土台となる石垣は、自然石をそのまま積み上げた野面積みという工法で作られています。 現在の天守は、昭和43年に絵図や同時代の城を参考に再建されたものです。
福井県大野市城町2
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非常に勾配のある階段です。





土井利忠像



案内図











































権現宮跡

お福池



城門

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大野市(福井県)のまち並み

2019-09-28 16:07:29 | 福井
2019年9月25日、1泊2日の北陸観光で越前大野城を見学し、大野市の町を散策しました。
大野の街並み
『大野は古くから、越前・美濃両国を結ぶ交通の要所として栄えてきました。 1575(天正3)年には、金森長近が、戦功により大野の大部分を統治するようになり、 長近はまず亀山に城を構築するとともに、京都に似た碁盤目状(短冊型)の城下町の建設に着手しました。 大野が「北陸の小京都」と呼ばれる所以となります。これが現市街地の起源となり、以後約430年間、大野は奥越前の中心地として栄えてきました。』
幕末の大野藩
「土井利忠は、1818(文政元)年、8歳で大野藩主となった。当時の藩財政は非常に苦しく、洪水、火事、凶作など度重なる災害によって多額の借金をかかえていた。そこで、利忠による藩政改革は、1842(天保13)年、「更始の令」というかつてないほどの倹約令ではじめられ、まず、藩財政の立て直しと、有能な人材の登用及び養成を柱にして進められました。1843(天保14)年、藩校「明倫館」を開設し、内山隆佐ほか数人を世話役に抜擢した。藩の収入の100分の4を学費にあて、武士の子弟のみならず、庶民の子ども達も入学できるようにした。教科書には、朱子学を学ばせるため、四書五経が使われた。その他、武術、砲術などの訓練も含められていた。また、藩が力をいれたものに蘭学の研究がある。1856(安政3)年には、藩校「洋学館」を開設し、緒方洪庵の適塾の塾頭伊藤慎蔵を教師に招いた。洋書の翻訳や出版された書物は多数にのぼり、さらに教えを受ける者は全国各地から集まった。藩の財政を少しでもゆとりあるものにするため、内山七郎右衛門(良休)は、大野の産物を大阪やその他の都市へ売り出して利益をあげることを提案した。そこで、1855(安政2)年、大阪に「大野屋」を開店した。良く寝んには、北海道の函館、翌々年には、大野城下一番町に「大野屋本店」、さらに全国各地に店を出した。商品は煙草・生糸・麻・漆などの大野の物産、また面谷鉱山の銅・金銀を売り、藩の財政を助けた。時同じくして、蝦夷地(北海道及び樺太)開拓を志願するものは申し出るようにというお触れが出された。そこで、幕府に伺いを立て、翌年、内山隆佐、早川弥五左衛門、吉田拙蔵らは、蝦夷地探索に向かった。探索の結果を幕府に報告し、口蝦夷開拓許可願を申し出たが、許可は得られなかった。1857(安政4)年、再び蝦夷地の探索に向かい、奥蝦夷地(樺太)の西海岸での開拓を許可され、早川は屯田司令となった。このときに、早川らが最も不便に感じていたのは藩に船がないことであった。そのため、内山隆佐は、利忠の許可を得て、江戸で長さ十八間、幅四間、深さ三間の西洋型二本マストの帆船「大野丸」をつくらせた。そして、幕府の海軍所で操縦術を学んだ吉田拙蔵が船長となり、1859(安政6)年以降、敦賀から函館間を航行し、奥蝦夷地開拓に活躍し、奥蝦夷地が大野藩の準領地として幕府に認められるまでになった。この頃、蝦夷地における大野藩の努力を背景にして、大野屋の商売は一段とのびていった。このほかにも、他藩に先駆けて、福利厚生の面でも優れた治世ぶりで、1854(安政元)年に広く一般に種痘をすすめ、1857(安政4)年には「済生病院」を開設し、いろいろな治療にあたり、現在に通じる医学書を揃え、研究も怠らなかった。」
大野市観光協会( 福井県大野市元町10−23)に自動車を止めて散策です。反時計回りに進みます。
元町会館

越前大野の案内図

七間通り、400年以上の歴史を誇る七間朝市が開かれる通り、和菓子や酒屋、醤油など様々な商店が並ぶ。

五番通り、菓子屋や玩具屋、呉服屋、金物屋、造り酒屋などが並ぶ。







寺町通り
「織田信長の武将金森長近は、城づくりと同じ城下町づくりも行いました。町筋は東西にのびる六筋と南北六筋が直交する区画とし、この南北筋の東端には寺町を設け、城下をかためる型としました。京を模してつくられた町筋は、現在でも城下町の風情を残しています。」


妙典寺、日蓮宗一乗山
「啓蒙医・松村矩明の墓がある。実父は中村寿仙、藩主の命により九山の養嗣となる。1842年に生まれ1877年没す。伊藤慎蔵に蘭学、松本良順に洋医学を学び大坂大学大教授になる。解剖医学書の著書が多い。」









圓立寺
「日蓮宗・真應山で、1556(弘治二)年創建。もと土橋の庄にありましたが、城下町建設1576(天正四)年の際、現在地に移転しました。代々領主の帰依厚く、祈願所となり、殊には松平直良の菩提寺でした。本堂にある扇の欄間は大野市指定文化財。」















大雄院
「鉄路の王者・加賀山家、元国鉄総裁加賀山之雄氏の菩提寺で代々の墓碑がある。先主は細川家、奥田姓で土井家に士官し1871年加賀山に改姓、藩内の信厚く各地の藩店大野屋経営に業績をあげてきた。」







大宝寺
「真言宗高野派で山号は恵日山、正平年中(1346~1370)創建。歴代城主の祈願所で、蘭学者・山崎譲の墓所がある。1855年選ばれて適塾に入門、後大野藩蘭館助学教授となり藩内の人材育成に精勤し1864年没す。」













願成寺
「高野山真言宗で、薬師如来を本尊とし、河濯大権現を合祀する珍しい寺院。寺には子宝や子どもの成長を願って奉納された人形が多く保存されている。梅屋治助が作った土人形は、大野市文化財に指定されている。」



箱館戦争戦死者墓碑
「大野藩兵は箱館戦争に200名出征し11名戦士した。」





長興寺
「琴祠橋の生みの親・尾崎琴洞墓、大野の農民史、産業経済史、社会福祉史、政治史に不朽の名を残している。又その人柄が皆に慕われ町の南郊明治の宮に祭神として祀られている。万葉かな碑文がその業績を残す・中村岱佐墓、1853年藩医となり、1856年大野藩の蝦夷地探検に加わり翌年船医として藩船大野丸に乗船、帰藩後も洋医として種痘普及に尽力する。」







奥の院・時宗遍照山





善導寺
「1558(永禄元)年、大譽鏡山和尚が一宇を建立したのが始まりと言われています。浄土宗光明山で、大野藩主・土井家の菩提寺。立派な鐘楼と長屋門があります。」















誓念寺・浄土真宗本願寺派
「開基は道覚、1560(永禄3)年泉庄内中津川村に一宇を草創し、第三代道順が1665(寛文5)年松平但馬守直良の招請により現在の境内地を拝領して現在にいたる。本尊は阿弥陀如来」







八幡神社



願了寺
「浄土真宗本願寺派、本尊は阿弥陀如来、開基は1390(明徳元)年、第三世坊賢願い1457(長禄元)年に現在地に移し、1461(寛正元)年寺号を元了寺と許可される。1746(延享3)年寺号を願了寺と改め今日に至る。」





毘沙門通り

長勝寺・浄土真宗本願寺派、北袋山
「宝徳年間(1449-1451)に創立、開基は西順で旧大野郡野向村北野津又に一宇建立、四代空順平泉寺に移り、五代正順が松平出羽守直政郷より現在地免許の上移転し現在に至る。」















塀に狭間があります。



浄勝寺・浄土真宗本願寺派、柴雲山
「西實法師の開基、1626(寛永3)年2月、松平大和守より領受、一宇の後1597(慶長2)年4月5日建立、後大火に遭い再建後、勝山猪野口の寺に譲渡し元本堂を昭和18年に完成し現在に至る。鐘楼堂は1857(安政4)年、山門は1858(安政5)年に建立。」









再び通りに



石灯籠通り



三番通り交差点



案内図

井戸



二番通り、昔は「捌(さばき)屋敷」と呼ばれた借家が多く、細工職人や大工屋、煙草屋、紺屋などの職人が多く、藩の御典医や町医者も住んでいた。

石灯籠地蔵尊
「石灯籠地蔵尊の安置は、いまは去る400余年前にさかのぼると伝えられている。時の領主は織田信長の武将金守長近であった。長近は、天正年間(1573-1593)、亀山山頂に天守閣を築き、東麓に二の丸・三の丸をおいた。また、京都にならい城下町の建設をすすめた。武家屋敷は、二の丸・三の丸を囲み、商工業者の居住地として、南北に一番町・二番町・三番町・四番町・五番町・寺町の六筋をおき、東西には大鋸町・六間町・七間町・八間町・石灯籠通り、正膳町の六筋を区画した。こうして奥越前に、碁盤目の区画の美しい小京都が出現した。この城下町縄張り(測量)の基点とされた石灯籠通り一番町見付けに、測量縄その他の用具が埋められ、その地に石灯籠地蔵尊が安置されたといわれている。」



石灯籠会館、休憩所になっています。









溝は当時の生活で小川として利用していた面影がありますね。

武家屋敷旧田村家(大野市指定文化財)
「旧田村家は大野藩の家老を勤めた田村又左衛門家の屋敷跡です。1759(宝暦9)年、代々家老を勤めた田村左兵衛家から分家し、大野城の外堀の内、三の丸に屋敷が与えられました。禄高は100石から始まりましたが、二代目の俊強が家老を勤めると、1839(天保10)年に300石に加増されました。主屋は、1827(文政10)年の類焼後に、農村部から古屋を移築・改築した建物で、県内でも数少ない現存する武家住宅の一つです。」










武家屋敷旧内山家
「旧内山家は城郭の東にあり、大野城の百間堀はこの旧内山家の前にのみ残っている。敷地は約三千㎡で、西は柳町通りに面し、東に排水路が通る。これは一番通りとの背割線である。敷地はかつて南北91~96mあったが、南の約30mは隣接の病院等に割譲し、現在の広さとなった。旧内山家住宅は、明治15年頃に建てられた母屋と大正期に建てられた離れが渡り廊下でななめに繋がれ、門の脇に味噌蔵、南西隅に米蔵、その北に隣接して衣装蔵がある。これらに囲まれて二つの池を流れで結んだ庭園を築くが、これは離れの建築を機に作り直した可能性がある。」









時鐘
「明治時代の初めごろ、鐘を打ち鳴らして時を知らせる時鐘という建物が、西一番にあった。時鐘は1888(明治21)年の大野町大火で焼けたが、つられていた鐘は大野町役場の屋根上の小屋に移された。1922(大正11)年、町役場は現在の越前おおの結楽座のあたりに移転したが、鐘もいっしょに移され、昭和時代まで時を知らせていた。」



結ステーション





芹川清水







藩主隠居所
「この建物は、幕末の大野藩主土井利忠(大野藩主土井家七代)が1862(文久2)年に家督を三男利恒に譲り、1868(明治元)年12月に死去するまでの間、生活していた隠居所だったと伝えられています。」





柳廼社
「第七代大野藩主井利忠公の遺徳を顕彰して建立され、今日まで大野の鎮守として親しまれ、祭礼には多くの露店が並び全市をあげての祭りとして賑わって参りました。」
参道

狛犬



拝殿



本殿

末社

内山良休の碑





旅館三浦屋







ゆっくりと一日かけて回るといい町ですね。
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勝山城・白山稚児神社

2019-09-27 18:42:34 | 福井
2019年9月25日、1泊2日の北陸観光の2日目です。勝山城に寄りました。
勝山城
「勝山城の名が歴史に登場するのは、1580(天正8)年柴田勝家の一族、柴田勝安が加賀一向一揆を討伐し城を築き、村岡山の別名勝山にちなみ、勝山城と名付けたのが最初である。その後1583(天正11)年には、丹羽長秀の老臣成田弥左衛門重政、1600(慶長5)年には、結城秀康の家臣林長門定正、1624(寛永元)年には、結城秀康の六男直基、1635(寛永12)年には七男直良とそれぞれ入封するが、築城工事は難航し、1822(文政5)年に出火して建物のほとんどが焼失、未完成のまま廃城となった。
福井県勝山市平泉寺町平泉寺85-26-1
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白山稚児神社
説明書より「当社は元正天皇(680-748)の頃、養老年中泰澄大師によって開創された。これより前、泰澄大師は越知山を下りて白山開創の途次、伊野原に至りて祈念を凝らし、夢告を得て平泉寺の林泉に至るが、伊野原は大師の御生母誕生の地を以て、一社を建立し児宮と称した。白山中宮平泉寺全盛の時代、その48社の一であり平泉寺古図等に明らかである。1574(天正2)年4月、一向一揆勢による白山中宮平泉寺焼打の際、当社もまた焼失したが、近世に至り再興され、白山中宮平泉寺の管轄を離れ、猪野区民の氏神として尊崇されてきた。一方境内社の日之御前社もまた泰澄大師の開創によるものであり、48社の一つであった。近世に於ては現在地の社を丸山社と称し、日之御前を奉祀、児宮は丸山の下手に鎮座し、児社あるいは下宮と称されていた。明治初年、二社を現在地に統合し白山稚児社と称し、後白山稚児神社と称するに至った。境内社の一つである高田神社は泰澄大師御孕の尊像を奉祀申し上げている。」
福井県勝山市猪野大宿り10
手水舎

鳥居



狛犬



拝殿

本殿

末社


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片山津温泉街散策

2019-09-27 13:51:29 | 石川
2019年9月25日、1泊2日の北陸観光で片山津温泉の加賀観光ホテルに宿泊し、温泉街を散策しました。

地域猫ですね。桜耳しています。







愛染寺
『愛染寺の起りは六百年以上前で、かつては「愛染坊」と称し、兼六園近くに建立されていました。慶長年間、卯辰山に新寺を建立するにあたり、寺号を廃止し仏像などを譲ったと云われております。1649(慶安2)年には加賀藩五代藩主・前田綱紀公が当山の再興を発願しました。鎮護山・愛染院として再建され、以来、前田家の安産祈願所とされました。片山津温泉の守護寺として、地元の方には「愛染寺」という名前よりも、親しみを込めて「お薬師さん」と呼ばれています。』
参道







温泉掘りの鉄棒、持ち主が分からず境内で保管されています。





石標

本堂





















再び、街並みへ

片山津温泉総湯







竜神と娘「(片山津の伝説)
「柴山潟が今よりずっと大きく、片山津の村がとても貧しかった時代の話です。いつしか湖におろちが棲むようになりました。夜中になると村人を襲ったり、近くの家を荒らすのもしばしば、困り果てた村人たちは「なんとか村をお守り下さい」とお薬師さまにお参りをかさねたのです。それから何日か経った後、一人の美しい娘が倒れているのが見つかりました。村人たちは心から看病をしたのですが、夜になると姿がありません。「あぶないっ。あんなところにいたらおろちに食われてしまう。」村人たちがそう思った瞬間、突然おろちが大きな口を開き、湖面から現れました。しかし娘は逃げもせず、手にもつ琵琶をかき鳴らし始めます。それはたいへんうっとりとする音色で、おろちの顔つきまでやさしくなってしまったそうです。「あまえは今、生まれ変わった。これからは竜神として村の守り神となれ。」そう言うと娘は天へ、おろちは水中へと消え、二度と姿を見せませんでした。その後、柴山潟から湯源が発見され、片山津は北陸屈指の温泉街へと発展しました。」













温泉配湯所



足の湯えんがわ





芸妓検番所
「片山津温泉街の中心にあるべんがら格子の芸妓検番は、大正9年に芸妓の練習の場として建てられた建物です。」



御菓子城加賀藩























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加賀観光ホテル

2019-09-27 11:45:00 | 温泉、旅館、ホテル
2019年9月24日、1泊2日の北陸観光で利用しました。
片山津温泉の始まりは江戸時代にさかのぼります。1653(承応2)年、当時この地を治めていた大聖寺藩二代藩主、前田利明公が加賀三湖の一つ「柴山潟」に鷹狩りに訪れた際、水面に水鳥が群れていることから湖底の温泉を発見したと伝えられます。利明公はこの温泉を利用しようと、藩費で何度も工事を行うものの難航、その後幾人もの手によって温泉開発の試みが続けられましたが、水中にある湯源を確保することは叶いませんでした。1876(明治9)年になって、柴山潟で使用松材三万本、埋め立て面積一町歩(約1ヘクタール)に及ぶ大規模な埋め立て工事が行われます。その結果つくられた人工島に湖畔から橋が架けられ、ようやく人々が温泉入浴できるようになりました。翌1877(明治10)年には片山津最初の温泉旅館が開業されました。」
【スペシャルプライスプラン】お手頃価格シンプルプラン♪ゆらら館・和室10畳/2食付でした。
温泉の泉質はナトリウム・カルシウム塩化物泉です。かなり塩辛い泉質ですね。泉温は72.5℃です。湯船が多種あり、温泉が楽しめますね。
石川県加賀市片山津温泉ウ41
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外観



部屋















おもてなし

景色



廊下





エレベーターホールの滝

ゲームコーナー







ロビー















飲食店コーナー





売店



マンガコーナー

庭園







夢湯パーク、お風呂の見取り図、日帰り入浴もしています。



夕食(美月会席)
生ビール、白ワイン、いちご酒で食事をおいしくいただきました。
食事会場

旬彩(豆腐、百合根、鮎南蛮漬け、ラディシュ、なめこ蕎麦のみ和え、和菓子)

造里(勘八、甘海老、鮪)

吸物鍋(小鯛、鱧ふかし、生麩)

煮物(鰤大根、子芋)

合肴(一口麺、長芋、山菜八方煮)

洋皿(ローストフビーフ、五色海藻麺)

いちご酒

焼物(朴葉焼き、団子)



茶碗蒸し(鰻蒲焼、銀杏、三つ葉、百合根、小海老)

香の物、留椀

水菓子

朝食、バイキング形式でした。


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春日神社(鯖江市)

2019-09-27 08:17:43 | 福井
2019年9月24日、1泊2日の北陸旅行でお参りしました。
「春日神社は創始は不祥であるが、延喜式神名帳にみられる大山御板神社とされ、この付近十五ケ村の総社で、1068(治暦4)年に社号を春日神社に改められたという。延元、天正と度々の戦火によって社殿が被災したが、1613(慶長18)年に再建され、現在の本殿はこの時のものと考えられる。」
福井県鯖江市鳥井町12
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二の鳥居

境内

参道

記念碑

狛犬



拝殿

本殿(重要文化財)
「桃山時代の1613(慶長18)年再建、三間社流造、こけら葺。覆屋に入っている。細部手法に見るべきものがあり、越前地方の神社建築の流れを知る上に重要な遺例である。」






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岡太神社・大瀧神社

2019-09-27 08:16:59 | 福井
2019年9月24日、1泊2日の北陸旅行でお参りしました。
パンフレットより『岡太神社は雄略天皇の御代(457~79)に創建され、この五箇地区に紙漉の業を伝えた女神[川上御前]を紙祖の神として祀り、「延喜式神明帳」「(926)にも記載されている古社である。大瀧神社の創建は推古天皇の御代(592~638)大伴連が勧請したのが始まりと伝えられている。
 719(養老3)年、平泉寺水波神社を開いた泰澄大師は、この地を訪れ、水波能賣神である「川上御前」を守護神として祀り、「国常立尊」・「伊弉諾尊」を主祭神として「十一面観世音菩薩」を本地とする神仏習合の社を創建、大瀧児権現と称して別当大瀧寺を建立した。
 中世に入ると白山信仰の拠点の1つとして栄え、境内には七堂伽藍が建ち並び48坊の堂塔、社僧700余名を擁し隆盛を極めた。南北朝の動乱や織田信長の一向一揆討伐などの兵火で度々衰退の危機が訪れるが、その後の領主となった丹羽長秀や結城秀康をはじめとする歴代領主の保護により再度復興され、社伝の造営、改修が行われた。
 明治時代初頭に発令された神仏分離により仏式が廃され、大瀧児権現は現在の社号である大瀧神社に改称した。
 1923(大正12)年には大蔵省印刷局抄紙部に「川上御前」の御分霊が奉祀されて岡太神社は名実共に全国紙業界の総鎮守となった。
 岡太神社・大瀧神社の社殿がある境内を下宮というのに対し、背後にある権現山には山自体が御神体として信仰されていて山で、山頂付近に大瀧神社や岡太神社本殿、八照神社が並び立つ上宮は「奥の院」と呼ばれている。』
福井県越前市大滝町23-10
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一の鳥居

二の鳥居











手水舎

狛犬



神馬

狛犬



神門

拝殿・本殿(重要文化財)
「現在の大瀧神社下宮社殿は1843(天保14)年に再建されたもので、拝殿は入母屋、向拝一唐破風造、檜皮葺、本殿は大型一間社流造、檜皮葺、拝殿と本殿が一体化した複合社殿で、山の峰を集めたような、あるいは、幾重もの波が寄せあうような屋根、複雑さの中に流があり、重厚さの中に躍動があるなど、形容のしようがない独特の屋根形状である。建物全体に施されている獅子、龍、鳳凰、草花の彫刻も精緻かつ華麗な秀作とされている。」





















観音堂
「越前市指定有形文化財の十一面観音座像を安置しています。」



末社

神輿




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御誕生寺(猫寺)

2019-09-27 08:16:10 | 福井
2019年9月24日、1泊2日の北陸旅行でお参りしました。
説明書より『山号は萬象山曹洞宗の寺院である。1948(昭和23)年、上田全之によって、大本山總持寺の開山瑩山紹瑾の生誕地である帆山に小堂が建立されるも、その後荒廃。2002(平成14)年、元曹洞宗管長板橋興宗によって宇野酸素より土地を寄進された現在地に小堂建立。寺の建設中に捨て猫を4 匹拾ったことが「猫寺」としての始まりでした。曹洞宗には大本山永平寺と大本山総持寺の二大本山がある。永平寺の御開山・道元禅師の生誕地は京都の深草である。総持寺の御開山・瑩山禅師の誕生地について、従来2ケ所のいい伝えがあった。一つは丸岡町であり、一つは越前市帆山町である。』
福井県越前市庄田町32−1−1
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猫さん達がゆっくりと寛いでいました。











おみくじの番をしている(=^・^=)








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武生の街並み

2019-09-27 08:14:33 | 福井
2019年9月24日、1泊2日の北陸観光で立ち寄りました。
観光用のまちなか無料駐車場(越前市幸町3-16)に車を止めての散策です。
越前市武生
 「この地は北陸道の門戸の位置にあって早くから開け、古代律令制時代には国府が置かれていました。その後中世・近世には府中町と呼ばれていましたが、明治2年より武生町と改称され、平成17年より越前市と改称されたまし。1601(慶長6)年、結城秀康が越前の領主となって入国すると、その家臣本多富正が府中城に入り、城下町が建設され現在の武生市街の基盤が出来、国府が置かれ、国分寺が建立されました。紫式部が幼少時代、父の藤原為時の国司任官に伴って訪れ、1年余を過ごした土地柄です。レトロな達物が随所に残っています。」












国分寺
「当山は今を去る事、1200有余年の昔時の高僧行基菩薩が聖武天皇の勅命により鎮護国家の祈願道場として739(天平11)年越前国の国分寺として当地に建立された。当時の越前国は今の石川県をも行政下にあった国内有数の大国であった為、国分寺の規模も国中屈指のもので、三大国分寺の一つに数えられた事もある。当時は七堂伽藍を連ねしも、度々の火災により面影も留めないが、天拝薬師如来は行基菩薩の一刀三礼の御作として、奇跡的にも難を免れ、現在ご本尊として安置されている。」











総社大神宮
「当神社に祀られている主祭神の大己貴命は、人々の生活の基礎を作られた国土の守護神であり、農・工・商・漁業・医療の神、また厄病・結びの神として商売繁盛・開運招福など広大無辺な御神徳を持ち、古くから人々の心の拠り所として親しまれ厚い信仰を受けておられる神様です。」
福井県越前市京町1丁目4-35
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鳥居

手水舎

狛犬









蓬莱夫婦松

神馬

拝殿

本殿





天満宮





忠魂堂



正覚寺
「1366(貞治5)年、良如上人によって建立された浄土宗寺院で、5つの塔頭寺院がある。」



山門(越前市指定文化財)
「江戸時代建立、旧府中城の表門を移築した高麗門。正面約3.26m、側面約2.05mの切妻屋根の小さな単層の門である。」

鐘楼



納骨堂





本堂

地蔵堂

勝蓮院

常勝院

神明宮







街並み









蔵の辻
「この地区では江戸時代以降関西から北陸方面への物資の中継基地として栄えており、それぞれ商人たちの蔵が並んでいました。今は市街地活性化の一環として整備されました。」
















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紫式部公園

2019-09-27 08:10:53 | 福井
2019年9月24日、1泊2日の北陸観光で立ち寄りました。
寝殿造庭園と釣殿
説明書より「源氏物語の作者紫式部は、996(長徳2)年越前守に任じられた父藤原為時とともに、多感な青春時代のひとときを武生の国府で過ごした。当時の国府の館は、平安貴族の住宅用式となっていた寝殿造であったと考えられる。寝殿造とは、寝殿(正殿)を中心とした数棟の建物と、池や築山(つきやま)などを配した庭園で構成された邸宅である。風光明媚な越前海岸の景観をとり入れた石組や洲浜中島などが配された約7百坪の池には朱塗りの勾欄の橋が架けられ、四季おりおりの移りゆく自然の姿を美しく水面に映し出す。源氏物語や枕草子に、音の涼しげなのを賛美している遣水、ゆるやかな起伏をつくり、草むらにすだく虫の音に耳を澄ます野筋など、平安時代の作庭精神が随所に生かされている。寝殿などの主な建築は、その輪郭を生かし、寝殿の位置には芝を張り、東の対屋、渡殿などは四季の花壇とした。消夏のために池を生かし、空間性豊かに建築の工夫をこらした釣殿は、納涼や月見の宴、詩歌管弦の場所であり、紫式部日記絵巻に描かれているように、風雅な舟遊びのための乗降場所でもあった。このような寝殿造庭園と釣殿が、平安時代の趣のままに再現されたのは、全国でも初めてのことである。」
福井県越前市東千福町20
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越前市紫式部公園横 藤波亭の駐車場に車を止めて散策です。





























紫式部像
「高さ約3mの金箔のブロンズ像、文化勲章受章者の圓鍔勝三氏が製作したもの。十二単衣に桧扇をかざす下脹れの丸顔、引目鈎鼻、後髪は成人の女性の常として背高に余まして垂らした金箔の式部像が、足先は都の方を向け、立つ視線の先をたどれば、すっきりとした稜線を描く日野山。ここから見る日野山は特に美しいといわれています。」











シロシキブ

ムラサキシキブ











カワセミが岩に留まっています。














コメント
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