旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

敦賀散策、銀河鉄道999と宇宙戦艦ヤマト・気比神宮・敦賀ムゼウム

2017-07-27 17:37:33 | 福井
2017年7月26日、友人達と敦賀散策をした。西神中央駅7時50分集合で、地下鉄の新長田駅、JRに乗り換え、青春18切符で各駅停車で神戸駅から敦賀行の新快速に乗車した。通勤時間帯でもあるので、結構混んでいたが大阪付近からは座って、終点まで2時間半の列車の旅です。敦賀駅には11時15分に着きました。
駅ホームのベンチには、恐竜のモニュメントが座っています。

改札を出たところのコンコースでSLがお出迎えです。

敦賀散策案内図

敦賀駅





都怒我阿羅斯等像
駅前のロータリーにあります。
『「日本書紀」伝説の人物といわれ、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという。角鹿が訛り敦賀となれました。地名「敦賀(つるが)」の由来があるとされている。』

シンボルロード
敦賀駅から気比神宮までの道をシンボルロードとなっています。歩道に「銀河鉄道999」と「宇宙戦艦ヤマト」のモニュメントが展示されています。港の町、鉄道の町として観光客を出迎えています。
「心の旅―まほろばへの道―」まほろばは桃源郷のことで、敦賀がいつまでも平和でまほろばとなることを願っています。





銀河鉄道999



商店街のアーケード

少年 星野鉄郎

メーテルとの出会い

母との記憶

旅立ち



永遠の星の海

商店街、人通りが無いですね。

迷いの星

ガラスのクレア

エメラルダス

時間城

商店街の前の国道は、直角駐車、できるだけ2時間以内に移動をと書かれていました。

友の眠る星

ソ連領事館跡

日本原子力発電(株)敦賀事業本部、ソ連領事館跡地に建っています。

フロメシューム

限りあるいの地のための戦い

商店街、ほとんどがシャッターが降りています。ガイドさんに水曜日が定休日ですかと聞きましたが、人口減少、原発の廃炉での補助金削減、観光客が来ないことなどを含め、深刻な状況を見ました。
敦賀原発は今年の4月に廃炉が決定されて原子力規制委員会が計画承認されています。24年をかけて解体がされます。駅前の「まほろば」の想いについて、これからの敦賀の模索があるように感じました。

別離

青春の幻影

気比神宮
『当神宮はの主神祭伊奢沙別命は筍飯大神、御食津大神とも称し、悠久二千有余年、天筒の嶺に霊跡を垂れ、境内の聖地に降臨したと伝承、今に神籬磐境の形態を留めております。文武天皇の大宝2年(702)、勅命により当宮が修営、皇室の祖神として崇められる第十四代仲哀天皇、神功皇后を合祀され本宮となし、後に日本武尊、応神天皇、玉姫命、武内宿禰命を奉斎「四社之宮」とし当宮が創建されました。上古より北陸差う鎮守として、海には航海安全、水産漁業隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏にご神徳、霊験著しく鎮座されております。現在の大鳥居は、平安時代(810年)東参道口に建立された初代に次ぐ二代目、今より372年前の正保2年(1645)、小浜藩主酒井忠勝の再建によります。旧神輌地佐渡国居ケ原から伐採の榁樹一木かで建立された高さ36尺(10.9m)、柱間24d尺(7.3m)の木造両部型本朱漆塗。春日大社、厳島神社の大鳥居と並ぶ日本三大木造鳥居として名高い。昭和20年の敦賀空襲では境内建造物が悉く焼失する中、唯一その戦火を免れました。』
map



平成29年12月31日まで補修工事がされています。









社務所

手水舎

鳥居

旗掛松

ユーカリ(敦賀市指定天然記念物)



松尾芭蕉の像

句碑





回廊と東門



拝殿





受付所

末社































再びシンボルロードへ
英雄の丘

スターシャ

別れ-出会い

商店街、12時過ぎですが、人影はない

マンホール、気比の松原をイメージしています。

まるいち
創作和処、ホテルつるや1階です。敦賀市津内町2-1-5
map

お昼のメニューで「おすすめ日替わり膳」を食べました。暑いかったので、ビールで乾杯しながらの昼食です。月曜日から金曜日はウイークリーサービスで税込1350円です。

ビールで乾杯、前菜

刺し身盛り合わせ

天ぷら

鯵の塩焼き

御飯と汁物が出ました。そして、食後のコーヒー付きです。
再び、シンボルロードを通り、海岸沿いにある金ケ﨑緑地に行きます。
アナライザー

お砂持ち神事







敦賀鉄道資料館(旧敦賀港駅舎)
「敦賀鉄道資料館である旧敦賀港駅舎は、かつて金ケ﨑の鉄道桟橋にあった駅舎を模して再現して平成11(1999)年に敦賀港開港100年を記念して再現したものです。旧敦賀港駅は、明治15年(1882)3月10日、敦賀に鉄道が開通したとき、金前寺前に金ケ﨑駅として開業しました。その後、敦賀港の第1次港改修工事に併せて、大正2年11月に鉄道桟橋に新たに金ケ﨑駅を新築移転し、大正8年(1919)1月11日には、金ケ﨑駅は敦賀港駅と改称しました。」









赤レンガ倉庫
「敦賀港の東側に2棟並んで建っています。福井県においても有数のレンガ建築物で、国の登録有形文化財です。外国人技師の設計によって1905年に建てられた当時は石油貯蔵庫として使われ、数年前までは昆布貯蔵庫としても使用されていました。」





人道の港 敦賀ムゼウム
『敦賀港は、1920年に「ポーランド孤児」、1940年には「命のビザ」を持ったユダヤ人難民が上陸した日本で唯一の港です。敦賀港は、明治32年(1899)に開港場(外国貿易港)の指定を受け、1902年には、敦賀港とウラジオストーク間に直通航路が開設されました。また、1910年に駐日ロシア領事館が開庁されました。さらには、1912年にはシベリア鉄道を利用して、ヨーロッパの各都市を結ぶ拠点港となり、新橋駅(東京)・金ケ﨑駅(敦賀)間には欧亜国際連絡列車が運行され、名実とも「東洋の波止場」として繁栄しました。』
「日本赤十字社の救助によりポーランド孤児763人が、敦賀港に無事上陸した。1920年から22年のことです。1920年7月23日、ロシアのウラジオストークから陸軍の輸送船が敦賀港に入港しました。乗船していたのは粗末な服を着て、哀れなほどやせ細った青白い顔の子どもたちでした。子どもたちは町内の小学校で疲れた体を休め、そして昼食をとった後、列車で東京に向かいました。彼らは、動乱のシベリアで家族を失ったポーランド孤児でした。第1次で計5回、第2次と合わせて763人の孤児が救出されました。上陸した孤児たちに敦賀町では、菓子・玩具・絵葉書等を差し入れ、宿泊・休憩所などの施設を提供し、地元の有志をはじめ婦人会でも菓子・果物などの差し入れを行い、敦賀での彼らの滞在は、数時間、長くても1日というものでしたが、当時の敦賀の人たちはその短い時間でも、かわいそうな子ども達にできるだけ限りの温かい手を差し伸べました。」

杉原千畝の「命のビザ」
「昭和15年(1940)7月18日の早朝、ユダヤ人難民がナチスの魔手から逃れるため、リトアニアの日本領事館に日本通過ビザを求め押し寄せました。当時の日本外務省は、杉原千畝領事代理にピザ発給を許しませんでした。彼は悩み苦しんだ末、外務省に背いてビザ発給を決断します。ビザを手に入れたユダヤ人難民は、シベリア鉄道の道中でも所持品の強奪や強制連行といった憂き目にあいます。そうした過酷な運命に翻弄されながら、彼らはやっとの思いで敦賀にたどり着いたのです。彼らに対して、敦賀の人達は、銭湯を無料で提供したり、リンゴやミカンなどの果物、食べ物を無償で提供をしました。」館内では当時のユダヤ人が時計店で現金に交換したものの展示やビデオ上映があります。館内撮影は禁止です。

ぐるっと敦賀周遊バス、1乗車200円



駅前の土産物店で買い物しました。お疲れ様でした。 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浦野龍也と仲間たち&盲導犬テラ

2017-07-24 16:49:56 | 神戸市西区
今日、福祉センターでディサービスがありました。そこのイベントとして盲導犬の紹介とイベントです。
途中で糖尿病を患い視力障害となり、点字の楽譜で練習をし、ギターが弾けるようになった。大変な苦労である。
 盲導犬と一緒にバスに乗っていた時、白杖を持って公園での散歩の時など暴言がしばしばだとか。誰もがいつ何時、交通事故あるいは病気などで体が不自由になるかもしれない。
 ひとりの人間として大事にされたいと。浦野さんは、ジョークを交えながら、楽しく語らいをしてくれました。この歌は、盲導犬とともに一緒に歩くことを伝えています。
 誰もが安心して生活できる国であってほしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

道の駅のはしご

2017-07-14 15:02:08 | 鳥取
2017年7月13日、大山ロイヤルホテルに宿泊して、大山寺、大神山神社奥宮にお参りしての帰路。米子から鳥取に向けての無料の自動車道の山陰道、北条バイパスが続きます。途中に何か所もの道の駅があります。旅行はその地での買い物もまたいい。
物産館ことうら

ここでは、メロンとピーマン海苔の佃煮を買った。

お台場市場

ここで東伯のがぶりこスイカを買った。

北条オートキャンプ場にある一菜ふく福

北栄スイカを買った。

道の駅・北条公園、ここでは長いもを買った。

道の駅・はわい

倉吉のスイカを買った。

スイカが冷蔵庫に入らないので、まだ食べていない。メロンを食べたが、とても甘くておいしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大山寺と大神山神社奥宮

2017-07-14 11:28:59 | 鳥取
2017年7月12日に大山ロイヤルホテルに宿泊し、翌日、大山寺と奥宮をお参りしました。大山情報館の駐車場に車を止めて、歩いてお参りです。昨日と打って変わって、快晴です。
大山情報館



案内図

大山自然歴史館



案内板

参道、坂道です。





地蔵さん、一町ごとにあるそうです。
「天保12年(1841)に建立された。天保8年には天下の大飢饉で、大塩平八郎の乱があった年でもある。この前後に多く人が餓死したという。これを供養して二度とこのようなことが無いようにとの願いが込められている。」



参道



地蔵さん

大山への登山者のようです。

本社迄5丁と書かれている。メートルで慣れている者に丁は良く判らないが、とにかく545m歩くことにした。

石碑

宝物館霊宝閣

案内板
「雄大な自然に抱かれた、ここには、烏天狗伝説が伝わるなど、神秘さもあり、多くの修行僧と山岳信仰の地として栄えた歴史を持つ。数多くの地蔵や石碑が残る。」

石碑

とう然の碑
「寛政8年福生村に生まれ、文化3年大山寺に入り円流院住職となった。学識優れ、弘化3年大山雑考を編む。」

牛霊碑



大山寺
鳥取県西伯郡大山町大山9
map
「大山寺は、奈良時代に創建されたと伝わる大山信仰の霊場で、中国地方を代表する天台宗寺院(別格本山)のひとつである。」
燈籠





山門

境内側から

手水舎

寺標

参道の階段

あじさいがお出迎えです。





下山観音堂
伯耆霊場第15番札所、中国霊場第29番札所と書かれています。

お寺ですが、狛犬ではなく、狐様がいます。









灯明杉
「その昔、日本海を航行する船が難航の折、この杉の頂から、一大尖光を発し、方向を変えたため難をのがれたといわれる霊木で、この名がある。」





護摩堂、不動明王を祀っている。

再び、階段の参道









鐘楼





本堂、和様の建物です。





びんずるさん







大神山神社に進みます。





石畳の参道、ごつごつの道です。雨上がりは滑りそうです。











金門への参道

















鳥居

御神水

本坊西楽院跡



ここから石段の参道

旧の参道は草木が茂っていました。

神門(鳥取県指定文化財)







再び参道の階段

狛犬、少し前足が長い感じだ。





拝殿、後光が差している。



大神山神社奥宮(重要文化財)
「江戸後期の文化2年(1805)建築、本殿は 桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝三間、幣殿・拝殿 桁行八間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、正面軒唐破風付、幣殿左右庇、拝殿正面両脇小部屋附属、拝殿左右長廊 各桁行九間、梁間二間、一重、入母屋造、背面本殿に接続、総こけら葺。日本最大級の権現造りの神社である。
大神山神社奥宮は大山中腹に鎮座する。
 社殿は、本殿を最も奥におき、その前に幣殿・拝殿をつらね、拝殿の左右両側に長大な翼廊をもった複合社殿である。本殿内部は素木のままであるが、正面と向拝廻りは金箔や漆などを施して飾り、幣殿の天井は花草の絵でうめるなど意匠をこらしている。
  奥宮は境内の環境もよく、社殿は規模雄大な複合社殿で、意匠・技法もすぐれ、江戸時代後期を代表する神社建築であり、末社もあわせて価値が高い。」





















末社下山神社本殿・幣殿・拝殿(重要文化財)
「奥宮と同時期に建築、本殿 桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、向拝三間、幣殿・拝殿 桁行五間、梁間三間、一重、入母屋造、妻入、向拝一間、唐破風造、拝殿左右突出部 各桁行一間、梁間二間、一重、入母屋造、背面本殿に接続、総こけら葺。
 末社下山神社は、奥宮社殿を一回り小さくした規模の複合社殿である。幣殿の天井に草花の絵を描くほかは、漆や彩色などを施さず簡素なあつかいになっているが、奥宮社殿と同時期、同手法による建築である。」















弁財天社





吉持地蔵





和合の岩





無名の橋







かわいいです。













お疲れ様でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大山ロイヤルホテル

2017-07-13 21:08:12 | 温泉、旅館、ホテル
2017年7月12日、宿泊しました。
大山を望める自然豊かなところにあります。大和ハウスグループのホテルです。バイキングプラン[和室]で山側を希望していましたので、大山が望める部屋でした。露天風呂の温泉はアルカリ、ナトリウムの塩化物泉でPh6.8で少しだけ塩味がします。壺湯、サウナ風呂、大浴場があります。夕食、朝食ともバイキング形式です。広々としたホテルでゆったりとしており、その上リーズナブルで、スタッフも丁寧な応対でした。
鳥取県西伯郡伯耆町丸山中祖1647-13
map
外観



玄関



客室、10畳と広縁



部屋からの眺望



エレベーターホールの休憩場所

廊下

エレベーター

ラウンジ







売店

エントランス









夕食です。バイキング形式です。海鮮丼は自分の好みで刺し身を盛り付けします。
海鮮丼、マグロ・イクラ・鰹のたたき・サケなど、鳥取牛のステーキ、刺し身盛り合わせ、天ぷら、地元食材、ソバ、サラダなど。
生ビールを2杯飲みながら、おいしくいただきました。

会場、中央で板前さんが調理しています。

デザート、スイカとリンゴ、それ以外にケーキ類があります。

朝食です。バイキング形式。パンをメーンにしました。

後で、スタッフが作ったおにぎりとしじみ汁、香の物で満腹です。

翌日の12階でのマウントビューからの大山です。昨日は曇りでしたが、今日は最高の天気です。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

名古屋城

2017-07-02 16:57:35 | 愛知
2017年6月28日、岐阜の美濃、郡上八幡の古い町並み散策、下呂温泉宿泊での1泊2日の旅行です。神戸に帰る前に名古屋城観光しました。
名古屋市中区本丸1-1
map
拝観料500円です。
パンフレットより「関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、慶長14年(1609)豊臣方への備えとして名古屋城の築城と、清須から新城下への街まるごと引越しを決定。この新たに造られた碁盤割の街が現在の名古屋の原型となり、町や橋の名前も受け継がれています。
 慶長15年(1610)名古屋城築城にあたって徳川家康は、加藤清正・福島正則ら西国大名20家に普請(土木工事)を命じました。これを天下普請といいます。天守や櫓の作事(建築工事)は小堀遠州・中井正清らに命じられ、慶長17年(1612)にほぼ完成しました。尾張初代藩主として家康九男の義直が入り、以降名古屋城は御三家筆頭尾張徳川家の居城として栄ました。
 維新後も名古屋離宮としてその美しいたたずまいを誇った名古屋城は、昭和5年(1930)、城郭建築における初めての国宝に指定されましたが、昭和20年(1945)の名古屋空襲によって本丸のほとんどが焼失しました。しかし、名古屋のシンボルとしての天守の再建を望む市民の声は日に日に高まり、昭和34年(1959)ついに天守が再建されました。」
案内図









正門





金のシャチ
「鯱は空想上の生き物で、水を呼ぶと言われることから火除けのまじないとされてきました。名古屋城の創建時の金鯱は、徳川家の権力・財力を誇るもので、貼られた金の量は慶長大判で1940枚といわれています。現在のシャチは南側で高さ2.579m、重量1,215kg、金板の種類18k、金板の厚さ0.15mm、うろこの枚数126枚、金量43.39kg。」



西南隅櫓(重要文化財)
『桃山時代の慶長17年(1612)頃建造、二重三階、本瓦葺。規模・構造は東南隅櫓と同じですが、「石落し」の破風の形が異なっています。』



内堀



石垣

表二之門(重要文化財)
「高麗門、本瓦葺。本丸南側にあり、鉄板張りとして用材は木割りが太く堅固に造られています。袖掘は土塀で鉄砲狭間を開いています。」



内堀

東南隅櫓(重要文化財)
『二重三階、本瓦葺。本丸の南東隅にある櫓、出窓には「石落し」が設けられています。かつては武具が納められていました。』











本丸表一之門跡
「古名は南一之門、本丸大手の主門で、外門である表二之門とともに枡形を形成していた。入母屋造・本瓦葺の二階建てで、門扉の上には石落しが設けられていた。昭和20年(1945)の空襲で焼失した。」












本丸御殿
「この建物は、尾張藩主の住居・政庁として慶長20年(1615)に建てられた書院造を複元したものです。御殿は木曽地方などで育った天然の桧をたくさん使ってつくられています。桧の香りが漂う建物に入ると、虎の障壁画が見る者を圧倒します。これは復元模写した作品で、描かれた当時の色彩を複元しています。襖の引手金具や長押の釘隠など、いろいろな所にある金具も部屋の威厳を高めています。表書院は名古屋城本丸で一番広く、各式を重視した建物です。玄関は竿縁天井だったのが、ここからは格天井に変わります。部屋にも差をつけて、藩主の座る部屋「上段之間」は床や天井を一段と高くし、床や違棚、付書院、帳台構という座敷飾があります。対面所上段之間の格天井は二重折上げ小組格天井で、格縁には黒漆を施し、天井板には金箔が押しています。」

玄関・車寄
「本丸御殿を訪れた人がまず通され、取り次ぎを待つ建物です。玄関といえども、一之間(18畳)・二之間(28畳)の2部屋からなっており、一之間には床もあります。四周の壁や襖には、来訪者を威圧する勇猛な虎や豹が描かれています。」









ハート形になっています。釘隠

玄関の襖絵、一之間

















表書院
「正規の謁見に用いられた広大な建物です。上段之間(15畳)、一之間(24畳半)、二之間(24畳半)、三之間(39畳)、納戸之間(24畳)の5部屋からなり、江戸時代は大広間と呼ばれていました。障壁画は、松、桜、雉子などの華やかな花鳥図です。」















対面所
「藩主と身内や家臣の私的な対面や宴席に用いられた建物です。上段の間(18畳)、次之間(18畳)、納戸一之間(24畳)、納戸二之間(24畳)の4部屋があり、上段之間と次之間には、京都や和歌山の名所が、多くの人物とともに描かれています。」















格の表現
「高位の人が座る位置に、座敷飾を設けたり、床を一段高くすることにより、一見して高位の人が使う部屋であることが分かるように工夫しています。天井は、竿縁天井や格天井、折上げ天井など、建物や部屋らよって使い分けられています。表書院の上段之間の天井は折上げ小組天井ですが、対面所上段之間では二重折上げ小組格天井で、しかも格縁は黒漆塗であり天井板には金箔が押してあります。」













下御膳所
「長囲炉裏が備えられており、料理の配膳や温めなおしのための建物だと考えられています。」





天井に煙出し

本丸御殿ミュージアムショップ

天守閣
「地下1階、地上7階」





排水溝

天守の入口

















金鯱

案内図

エレベーターで5階まで上がり、そして展望室に階段で上ります。階段を歩いて下り見学します。

石引き

展示物



三千両箱



千両箱



軒丸瓦と瓦釘

天守からの眺望





















釘隠の金具





展示物



風俗図













天井の絵















鉄砲

御用部屋











駕籠









対面所



食事の再現





















































































城下模型



骨組模型







東一之門跡



清正石
「名古屋城で最大の石垣石材。」









旧二之丸東二之門(重要文化財)
「高麗門形式で、二之丸東鉄門(ひがしくろがねもん)枡形にあったものです。」



内堀

清正公石曳きの像

青松葉事件遺跡
「慶応4年(1868)正月20日、二之丸御殿向屋敷の庭前で尾張徳川家の三重臣が斬首され、いわゆる青松葉事件があった。」



二之丸広場から名勝二之丸庭園へ
「元和年間(1615~23)二之丸御殿の造営にともなって同御殿の北側に設けられた庭園です。享保年間(1716~36)以降、たびたび改修され、枯山水回遊式庭園に改められました。」



庭園案内図

那古野城跡









































南池







二之丸東庭園





石垣の刻印(刻紋)
『城内の石垣には多種多様の記号を刻んだ石があります。これは石垣の築造を命じられた諸大名が、他大名と区別するために刻んだ「目じるし」です。』























お疲れ様でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下呂温泉の森八幡神社

2017-07-01 17:40:33 | 岐阜
2017年6月27日、岐阜美濃市の町並み、郡上八幡城と町並み散策し、下呂温泉の小川屋に宿泊です。1泊2日の旅行です。下呂温泉は2回目です。下呂温泉の町並みは2015年10月を参照してください。⇒下呂温泉の街並み
今回は、前回にお参りできなかった森八幡神社にお参りします。
旅館に着いてから、入浴し夕食までの時間に行きました。
マンホール「いい湯 いいまち 下呂のまち」、白鷺が表示されています。





下呂温泉観光案内図





森八幡神社
『木造神像は国の重要文化財にしていされています。10体の木造神像が保管されており、像高は30~60cmで、平安時代から鎌倉時代にかけて飛騨の匠の手によって彫られました。神像は、風俗的にも彫刻的にも地方色を生かした素朴なもので貴重です。田の神祭は国指定重要無形民族文化財で、本神社の祭事として毎年2月14日に境内で行われます。中世以来の田遊びの芸能が規模、様式ともに継承されており、稀にみる貴重な民俗資料とされています。4人の若者が、大きな色とりどりのかぶり笠をつけて踊ることから、別名「花笠祭」と言われ、飛騨で最も早い祭であることから、「飛騨路に春を告げる祭」として賑わいます。』
map

鳥居







参道

手水舎

狛犬



拝殿







下呂の大杉





神庫







願い石



本殿





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小川屋・下呂温泉

2017-07-01 17:29:20 | 温泉、旅館、ホテル
2017年6月28日、美濃・郡上八幡観光の1泊2日旅行で利用しました。下呂温泉は2度目です。小川屋を選択したのは、100帖の広さの大浴場に畳が敷かれての面白さとリーズナブルな料金からです。大浴場は地下1階にあります。露天風呂はさらに1階下です。建物が川沿いに立地していますので、フロントが3階で、地下1階ですが河川を望めることができます。地下2階の露天風呂から川で釣りや対岸を眺望できます。泉質はアルカリ性単純温泉です。Ph8.9で、浸かると肌がすべすべという感じです。女性用の露天風呂は白濁の湯とのことです。朝夕入れ替えがなく残念。
プラン名は豚の朴葉焼き会席[川側]です。
岐阜県下呂市湯乃島570
map
外観



玄関



室内、15畳と広縁





踏み込み

おもてなし

ラウンジ









眺望、飛騨川





廊下



装飾







































おみやげ処



ロビーの足湯

浴場の待合











温泉の説明書





















日帰り入浴の案内

エレベーターは外が見れます。







エレベーターホール

夕食です。下呂の地ビールを飲みながらおいしくいただきました。
お献立

先付けの胡麻豆腐

揚げ物、天ぷらです。

吸物替り、海老と地元の野菜

造り、鮪・烏賊・鯛など

焼き物、鮎塩焼き

塩辛くなく、品のいい味付けです。

蟹せいろ蒸し

茶碗蒸し

飛騨産豚の朴葉焼き



止め椀と香の物

牛乳プリン、上品でおいしいです。

部屋からの夜景

朝食はバイキング形式です。

リーズナブルな料金で、食事もおいしくいただき、温泉はいいし、スタッフの応対は丁寧です。下呂でのお薦めのホテルです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

郡上八幡(重伝地区)

2017-07-01 11:46:01 | 岐阜
2017年6月27日、美濃のうだつの上がる町並み(重要伝統的建造物群保存地区)、郡上八幡城、郡上八幡の町並み(重要伝統的建造物群保存地区)、下呂温泉、名古屋城と1泊2日の岐阜観光旅行です。郡上八幡城を観光し、城下の郡上八幡観光協会の駐車場に移動です。
岐阜県郡上八幡町島谷520-1
map
吉田川





郡上八幡旧庁舎記念館(登録有形文化財)
「昭和11年(1936)建築、木造2階建、瓦葺、建築面積797㎡。非対称型になる木造2階建の洋風の庁舎で、正面に玄関ポ-チが付く。内部は1階が町政執務関係、2階が議会関係に使用された。設計は野村建築事務所で、施工は地元の大工棟梁水谷藤兵衛。外壁は軒廻りを除き下見板張とし、縦長の窓を配した端正な建物である。」





内部は観光案内所、お土産、軽食などがあります。

新橋を渡り町並みへ

神農薬師如来
「当町、市島林組の富豪治左エ門方に立ち寄った一巡礼が、厚いもてなしを受けたお礼に薬師如来を置いて立ち去った。天明5年(1781)その薬師如来を同地の竹林内に安置奉安した。その後、325名余名の神農講会員により、昭和4年1月8日薬師如来をもらいうけ、同年7月28日の馬市を利用し、当巌窟に奉還して、入佛式を奉行した。尚、神農薬師は、商売繁盛の外、諸病、諸難一切を払い給うと言い伝えられ、多くの人々より信仰されている。」





郡上市郡上八幡北町(重要伝統的建造物群保存地区)
「郡上市は岐阜県の中央部に位置する。郡上市の中心にあたる旧八幡町は、永禄2年(1559)、戦国時代より当地域一円を支配していた郡上(ぐじょう)東(とう)氏(し)を攻めるため、遠藤盛数(もりかず)が八幡山に陣営を構えたことに始まる。江戸時代後期には、吉田川を挟んで北側は北町、南側は南町と称され、それぞれ名主がおかれた。
北町は、八幡山に築かれた八幡城跡の西に位置し、北、西、南の三方を川に囲まれた旧城下町の一部である。南北行き三筋の通りが配され、東の通りに沿って柳町、中央の通りに沿って殿町、西側の通りに沿っては、北から職人町、鍛冶屋町、本町とされる。
山上には本丸が、山麓の二の丸には居館が置かれた。柳町及び殿町には武家地が配され、職人町、鍛冶屋町、本町及び大手町には町人地が形成された。大正8年、北町一帯が焼失する大火が発生する。復興にあたり、武家地が細分化され町家が建ち、屋根の不燃化が進められた。
 郡上市郡上八幡北町伝統的建造物群保存地区は、東西約589メートル、南北約525メートルで旧武家地、旧町人地並びに八幡城跡から構成される面積約14.1ヘクタールの範囲である。主屋は総二階建で、切妻造平入、真壁造で木部を弁柄(べんがら)塗とし、壁を漆喰塗とするものが多い。袖壁を設けるのが一般的で、屋根は鉄板葺又は桟瓦葺を基本とする。敷地の傾斜を利用して、主屋一階の床下にシタヤと呼ばれる居室やムロと呼ばれる貯蔵庫を設けるものもある。通りに沿ってそれぞれ水路が引かれ、現在でも生活用水として利用されている。
 郡上市郡上八幡北町伝統的建造物群保存地区は、四方を山と川に囲まれた自然地形をいかした城下町の一部で、統一された様式を持つ町家が密度高く建ち並ぶとともに、湧水をいかした水利施設とが一体となって、城下町としての歴史的風致を今日に良く伝え、我が国にとって価値が高い。」





郡上八幡博覧館

浄因寺、真宗大谷派の寺院







左に曲がり、職人町へ



職人町の角に長敬寺があります。
長敬寺と凌霜隊
『八幡城第二代と第四代の城主であった遠藤慶隆が、古今伝授で有名な「東氏」の子孫が飛騨高山の照蓮寺に仮住まいしていることを知り、慶長6年(1601)に招いて建立したのが長敬寺である。本堂裏に遠藤慶隆のものと伝えられている墓が残っている。また古絵図によると寺の裏近くに矢場が記されている。
 慶応4年(1868)4月江戸城開城の折、郡上藩士45名が「凌霜隊」を編成、佐幕派の中心会津へ救援隊として出発し、会津若松城の「白虎隊」と共に政府軍と戦った。
 9月、会津の降伏により凌霜隊士は郡上へ護送され獄舎に入れられた。きびしい獄舎の生活に犠牲者の出るのをみた城下寺院の嘆願が聞き入れられ、明治2年長敬寺に移された。明治3年釈放されたものの彼らの一生は苦しいものがあった。」

山門





龍の彫刻







本堂

















鐘楼





職人町・鍛冶屋町









蓮生寺









再び通りへ、小川が流れています。





















宗祇水
「文明年間連歌の宗匠飯尾宗祇が東常縁から古今伝授を受けるため、この泉のほとりに草庵を結び、この清水を愛用したところから名づけられた。昭和60年全国名水百選の一番手として指定を受けた。」









清水橋













直井家住宅主屋(登録有形文化財)
「明治22年(1889)/昭和初期(1926-1988)増築、木造2階建、鉄板葺、建築面積252㎡。歴史的な町並みの中心となる交差点角に建つ。建築面積252㎡、木造2階建、鉄板葺。南側は昭和初期に増築された居室で、西隣には土蔵を接続する。2階は旧規を良くとどめ、通りに面して連続する出格子を設け、落ち着いた佇まいの街角景観を形成している。」







やなか水のこみち
「風情のある水辺のポケットパーク。別名美術館通りとして、界隈に3つの美術館・民芸館があります。」





野中稲荷神社
「野中稲荷神社は、この一帯に郡上藩三代藩主遠藤常友の弟大助が家臣とともに住んだ長屋群があり、その遠藤家の屋敷と土地を守る屋敷神であったとされる。」















願蓮寺
「願蓮寺は、明応3年(1494)に腰細村(相生)に正円が僧庵をむすび、親鸞聖人が開顕された浄土真宗宣布の道場から歩みが始まり、爾来十七代に渡り法灯が相続され今日に至っています。時は戦国時代であり、僧侶と言え、歴代住職の中では武士としての面を持っていたようあります。二代正専のころ、永禄12年(1569)に飛騨の三木自綱が郡上を来襲する事件があり、時の城主遠藤慶隆から寺院側に援軍の要請があり、正専も三参戦し畑佐の砦を襲撃し大激戦の末、敵軍はついに砦をすてて境外に退去したのですが、その戦いの中で、正専は奮闘するもついに敵刃に散ったのであります。元和9年(1623)、五代目慶傳の代に本山から寺号公称(願蓮寺)が許可されました。」

















日吉神社
「御祭神は大山咋神で、往古この地は原野にして宇大美屋と称し西に向いて一小祠あり開基は判らず。天正年中(1573~1591)遠藤慶隆この社に戦勝を祈り安久田村日吉村をも勧請合併して社殿を営み城南の鎮護とした。」

鳥居



拝殿

狛犬





稲荷社





最勝寺
『浄土真宗本願寺派の寺院で山号を玅高山と称する。本尊は阿弥陀如来である。当寺創立は、越前(福井県)田野最勝寺文書に「清和天皇十五代の末孫伊予守源宗政が貞永2年(1233)上洛し親鸞聖人に帰依し直弟となり、法名を専修と言い姓を多田と称して一宇を建立した」とあるように摂津国多田庄(兵庫県川辺郡)に一宇を建立したのが始まりである。郡上での一向宗寺院としての活動は、郡上九ケ所門徒道場などで以前からなされていたが、延徳元年(1489)九世専宗の時、美濃国郡上群市島村(郡上八幡)に最勝寺の道場堂宇が建立された。永禄9年(1566)十一世専賢の時、郡上をめぐる合戦による兵火のため市島の堂宇・宝物などすべてを焼失し、隣の川佐村に移転したことがあった。その後、越前国大野郡(福井県大野市)に移ったが、世継ぎの関係で3つに分かれ、その一つが郡上八幡に建立された。他の二つは、福井県大野郡上据村の最勝寺(本願寺派)と同県大野市明倫町の最勝寺(大谷派)である。寛文6年(1665)に郡上八幡の六代城主遠藤常友の城下町整備に伴なう政策ににより現在地(八幡町赤谷山本)に寺領が与えられ、現在に至っている。』

山門

鐘楼

本堂

道路のマンホールは魚

慈恩護国禅寺
「臨済宗妙心寺派の寺院である。当寺は戦国時代末期、八幡城主遠藤慶隆公深く禅門に帰依され、京都花園妙心寺に定慧円明国師(南北玄興禅師)を訪ね、その弟半山紹碩禅師を当地に迎えて教えをこわれ、慶長11年(1606)国泰民安を祈願して建立、半山禅師を創建開山と仰がれる御本尊は、釈迦如来である。」

山門











鐘楼



庫裏・玄関





本堂



町並みに戻ります。

乙姫川沿い

左京稲荷
「このあたりは旗本三千石金森左京の屋敷跡ですので左京町といわれております。金森左京は、元郡上藩主金森頼錦の分家です。本家が宝暦の百姓一揆で断絶したとき一族でただ一人特に存続を許され、明治維新まで栄ました。この稲荷神社は好運児金森左京の守護神でありました。こんにちも一家の繁栄を願う多くの人々から崇敬されています。」







宝暦騒動(郡上一揆)1754~1758
「江戸時代の宝暦年間に、郡上の百姓たちが年貢の取り立て方法変更等の藩政に対して蜂起した百姓一揆。藩主、金森氏を改易に追い込むほか、老中・若年寄など幕府の中枢も失脚となる歴史的な事件となりました。」
町並みへ

駐車場にもどりました。
いがわの小径
「いがわのこみち」は、民家に囲まれた用水沿いに続く、長さ119m、幅1mの小さな生活道路です。(当地では古くから、生活に利用する小河川、用水路のことを「いがわ」と呼んでいます。)この用水(島谷用水)は、周辺の有志の人達(いがわと親しむ会)によって、自主的に管理されている鯉や、岩魚、あまご、鮎などが泳いでいます。」













お疲れ様でした。下呂温泉に向かいます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする