旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

聖通寺(しょうつうじ)

2024-12-25 11:26:25 | 香川
2024年12月22日、お参りしました。
説明書より「壺平山宝光院と号す。真言宗御室派別格本山、本尊は薬師如来です。当寺の開基は行基菩薩です。聖武天皇の御世に釈迦院とし開創された。弘仁年中(810-824)に弘法大師が当地に巡錫の折、安産と子孫繁栄の守り本尊として千手観音菩薩(国指定重要文化財)を自刻して安置した。868(貞観10)年聖宝理源大師によの再興した。当時は理源大師が起居し、厄除長生の行法を修した所である。大師は聖宝の二字を分けて、聖通寺宝光院と号し再興のしるしとした。その後、宇多天皇の寛平年中、讃岐のち勅使に勅して釈迦堂、仁王門を建立、豊作長久の勅願所となる。文永年中には亀山天皇の勅により、三重大塔、鐘楼鼓閣及び八十余坊を再興するが、星霜を経て伽藍は朽化する。後光厳天皇の文和年中(1352-1356)、小野僧正仁海の末流勢今宥僧正が当時に起居、御再興の勅許がある。1362(貞治元)年細川頼之は細川清氏との戦いの折、形勢不利の状態にあったが、神仏の擁護によって勝利を得るべしと住持勢宥僧正に薬師如来の冥威を祈らしめたところ、頼之側の大勝利となった。頼之は、これは薬師如来の威力神通なりと当寺に帰依、伽藍を再興して、鵜足・那珂二郡及び塩飽七島を以って当寺を旦那時としている。しかし天文年中(1532-1555)に兵火にかかり多くの伽藍及び宝物等を焼亡。生駒親正は讃岐国受封の折、引田城より聖道寺山字多津城に移っている。その子一正が嶋田寺を高松に移し弘憲寺と改めた時、命によって当時の宝物35種が弘憲寺に移され、堂塔2基は象頭山に移されている。1650(慶安3)年備後国常書院の宥長上人が当地に訪れ、伽藍焼却を嘆き、再興を期し当寺に住し、松平頼重讃岐国受封の後願により御再興仰出され1652(承応元)年起工、堂塔が建立されている。源英公は当寺に帰依、落成した薬師堂(本堂)は御自筆にて棟札を書いたと伝えられている。」

香川県宇多津町坂下2805
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寺標

庫裏





弁財天









大聖不動明王

鐘楼



忠魂碑

釈迦堂

釈迦如来坐像(宇多津町指定有形文化財)
「本造は右手を施無畏院、左手を弓願印とした通形の釈迦如来で、榧材の一木造りである。像高77.8センチメートルであるが、過多膝の張りが力強く、また体奥も極めて厚く堂々とした見事な像容を示している。制作年代は平安時代前期(10世紀)とみられ、かつて存在した釈迦堂に安置されていたと伝えられている。」



観音堂
「木造千手観音立像(重要文化財)を祀る。」







本堂(宇多津町指定有形文化財)












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白峯寺(しろみねじ)

2024-12-24 18:31:57 | 香川
2024年12月22日、お参りしました。
説明書より「四国第81番霊場、別格本山、綾松山洞林院と号す。白峯寺は、山上伽藍としての堂宇と、崇徳上皇を祀る頓證寺殿などが一体となった、類い稀な伽藍を形成している。本堂などの諸堂は異なる形式と時代的特質をもち、客殿は藩主御成に応じるための格式を備え、頓證寺殿は稀有な構成と気品ある意匠とするなど、四国霊場の隆盛と上皇崇敬の様相をよく示している。高松藩により整えられたこれらの堂宇は、その形式や細部に地方的特色が顕著に認められるとともに、技量も優れており、価値が高い。江戸時代中期から後期にかけて建てられた複数の建造物が残る点も貴重であり、本堂など九棟が国の重要文化財として指定された。」
縁起書より「当山は弘法・智証両大師の開基である。弘法大師は、815(弘仁6)年当山に登られ、峯に如意宝珠を埋め閼伽井を掘られた。かの宝珠の地滝壺となり、三方に流れて増減なしと云う。次いで860(貞観2)年10月の頃、瀬戸の海上に流木が出現し、光明に輝き異香四周に薫したので、国司の耳に入りこれを当時入唐留学より帰朝して金倉寺に止住せられていた善知識円珍和尚に尋ねられた。和尚、かの瑞光に導かれて当山に登り、山中を巡検して居ると白髪の老翁が現れて曰く、『吾は此の山の地主神、和尚は正法弘通の聖者なり、この山は七佛法輪を転じ、慈尊入定の霊地なり。相供に佛堂を建て、佛法を興隆せん、かの流木は補陀洛山のいかだなり。』との御神託あり、なお流木を山中に引き入れて、千手観音の尊像を彫み、当寺の本尊として佛堂を創建せられた。その後、1156(保元元)年、保元の乱に因り、第75代崇徳天皇当国に御配流、山麓林田郷綾高遠の館(雲井御所)に三か年、のち府中鼓ケ丘木丸殿(木丸殿御所)に移り六か年、都合九年間配所の月日を過ごされて、1164(長寛2)年旧8月26日崩御遊ばされ、御遺詔によって当山稚児獄上(御陵のあるところ)に荼毘し、御陵が営まれた。」

香川県坂出市青海町2635
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案内図



白峯五社稲荷大明神社

山門(七棟門)
「高麗門形式の門の左右に二棟の塀をつらねた珍しい門で、その棟数合わせ七棟、故にこの門を七棟門と呼んでいます。左右から中央に積上げられた屋根の形は面白く白峯寺名物の一つです。19世紀初頭に建てられたものと考えられます。」

御成門

護摩堂

勅使門



宝物館

弁天堂

手水舎

玉章の木

狛犬



勅額門(重要文化財)
「門には、扁額として、1414(応永21)年、上皇の250年遠忌に際し、讃岐守護の細川満元の依頼をうけた将軍足利義持の執奏によって、後小松上皇が額字をしたためた勅額が掲げられていたため、この門を勅額門と呼んでいる。勅額門は、独創的な構成のほか、欄間に透かし彫りされた牡丹唐草や、妻面の木鼻に彫られた雲などの意匠が優れている。」











頓証寺殿

















相模坊大権現
「白峯山の相模坊大権現様はかつて相模の国(神奈川県)の大山に君臨した修験の大行者でその名を相模坊と称した。後に讃岐の国、白峯山に入山し、当山の修験行者(山伏)集団の統括者(大先達)となり、その神通力、法力により行者集団から大権現として祭祀された。その無限大の法徳により、霊威にある聖地白峯山の守護神(鎮守)として崇め祀られた。崇徳天皇の守護神としても有名である。」

恵比寿天

西行

石灯籠(坂出市重要美術品)







鐘楼堂



薬師堂



福禄寿

行者堂

寿老人

阿弥陀堂(重要文化財)
「正面三間、側面二間、宝形造、本瓦葺で正側面に切目縁を廻す。内部は中敷居で内外陣に区分し、内陣後方に仏壇を造り、床は拭板敷、天井は棹縁天井とする。両脇間及び両側面前端間を連子窓とし、そのほかを堅板張とする。内部は赤色塗とし、外部の軸部に黒色塗、軒廻りに赤色塗痕跡が認められる。軒は一軒半繁垂木で、緩やかな反り増しをもつ垂木などに古式をとどめる。屋根頂部に陶製の露盤、宝珠を戴く。史料から1661(万治4)年に高松藩主松平頼重の寄進により建立され、境内最古の建造物である。内部中央に阿弥陀三尊立像を祀り、その後方に阿弥陀の小立像千体が安置されていることから、
されていることから、千体堂とも呼ばれる。」





布袋様



瑜祇塔
「瑜祇塔の正式名称は金剛峰楼閣瑜祇塔であり、金剛智三蔵訳の『金剛峰楼閣一切瑜祇伽瑜祇経」に基づいて建立されます。瑜祇経は密教の根本である金剛界と胎蔵界の両部は本来同一のものであるという精神を説いたもので、重要な経典の一津であります。古来より日本仏教は、伽藍建築様式を確立し各地に伽藍が建立されました。伽藍境内の最も特徴的な堂宇が多宝塔形式の塔(四角、六角、八角等の多角形の屋根を持つ建物又、三重、五重、七重、等の多層の屋根を持つ建物)であり、その多宝塔形式の原型とされるものが瑜祇塔で、古の形をインドのストゥーパー(塔)に求めることができます。当瑜祇塔は元三谷寺、法印圭應僧正、発願により1829(文政12)年、巳丑、仲春(陰暦2月)当山法印而住僧正代に建立された。

本堂(千手院観音堂)
「入母屋造りのこのお堂は本尊千手観音を祀る故に観音堂とも呼ばれ後嵯峨院の勅号により千手院とも称します。開基以来1382(弘和2)年、1539(天文8)年、天中年中、1596(慶長元)年等の数度の火災により焼失、現在の堂は1599(慶長4)年生駒近現公によって再建されたものです。本尊千手観音と智証大師と、当山鎮守白峯大権現の合作と伝えられ、脇侍として愛染明王、馬頭観音を祀っています。」



















大師堂
「寶形造りのこのお堂は弘法大師尊像を祀る故に大師堂と呼ばれ、1811(文化8)年高松藩主松平頼儀公の再建されたお堂で大師を中央に左に稚児大師像、右に庚申の本地仏青面金剛が祀られています。」

廻向堂

仏足石



宝篋印塔



地蔵尊

水子地蔵尊


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根香寺(ねごろじ)

2024-12-24 15:28:44 | 香川
2024年12月22日、お参りしました。
説明書より「根香寺は、急坂を登りつめた青峰山中腹にある、弘法大師により開創された木立の中のお寺です。なぜ、このような険しい山の中に建てられたのでしょう。奈良時代の仏教は、鎮護国家を目標としていましたが、平安時代になると仏教は、祈りやまじないが実現する不思議な力を得ようと、苦しい修行を重んじるようになりました。そのため、明るく華やかな場所ではなく、人里離れた山の中にお寺を建て、山中を修業の場としたのです。(このような仏教のあり方を、山岳仏教といい、このようなお寺を山岳寺院といいます。)お寺の境内に静かにたたずみ、自分の心を見つめてみましょう。また、ここは山の中です。目を閉じ、鳥の声、虫の声などに耳を傾けてみのしょう。」
香川県高松市中山町1506
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寺標

仁王門





説明書



牛鬼
「今から450年くらい昔、このあたりに人間を食べる恐ろしい怪獣、牛鬼が棲んでいて、人々を大変困らせていました。そこでこの地方の村人は、山田蔵人高清という弓の名人に牛鬼の退治を頼みました。高清は根香寺の本尊である千手観音に願をかけ、そのおかげで牛鬼を見つけ出し、見事に退治したそうです。そして、怪獣の角を根香寺に奉納し、その菩提を弔ったと伝えられています。」

案内図



参道



水かけ地蔵

牛頭観音

役の行者像



香炉

宝篋印塔

鐘楼



六角堂・延命地蔵尊

龍宮地蔵尊

大師堂

高松松平初代藩士の墓

白猴欅
「智証大師が当山開基の時、この樹下に山王権現が現れ、また、白い猿が下りてきて、大師を守護し創業を助けたと云う。樹齢約1600年、樹幹の周囲や区7メートル。」

本坊

五大堂
「木造五大尊像(香川県指定有形文化財)を祀る。軍茶利夜叉明王、降三世夜叉明王、大日大聖不動明王、金剛夜叉明王、大威徳夜叉明王の五佛である。弘法大師が、この地において五智如来を感得され、当寺を開基された。その五智如来の教令輪身たるお姿が五大尊である。燃えるような情熱をもって日夜私どもを愛し助けて下さる有難い佛様である。中央の大日大聖不動明王は、1286(弘安9)年元寇調伏祈願のために造られ、両脇の四明王は1683(天保3)年高松藩主が京都の佛師に造らせ五大尊として祀らせた。」





経蔵





本堂









回廊


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屋島寺

2024-12-23 17:17:38 | 香川
2024年12月22日、お参りました。
 南面山千光院と号す。
 由緒書より「当寺は唐僧鑑真和上過海大師が開創の基を開き、その弟子恵雲律師空鉢と号した人が初代の住職となったと伝えられ、初めは律宗であったが弘法大師が真言宗に改めた寺で、四国八十八か所の八十四番の札所であります。本尊千手観音は平安時代前期の作であり、本堂は鎌倉時代の末頃の建築で共に重要文化財に指定されています。書院裏には名園雪の庭があります。鐘楼の釣鐘は鎌倉時代の初め1223(貞応2)年に鋳たものです。なお、源平合戦の遺物など陳列した宝物館があり、狸で有名な蓑山明神の社もあります。」
 屋島は高松市の東、標高293メートルの火山台地の半島で、那須与一の扇の的や義経の弓流しなどで有名な源平合戦の古戦場の史蹟で知られる。屋島寺はその南嶺にある。鑑真和上は唐の学僧で、朝廷からの要請をうけ5度にわたって出航したが、暴風や難破で失明、天平勝宝5年(753)に苦難のすえ鹿児島に漂着した。翌年、東大寺に船で向かう途次、屋島の沖で山頂から立ちのぼる瑞光を感得され、屋島の北嶺に登った。そこに普賢堂を建てて、持参していた普賢菩薩像を安置し、経典を納めて創建されたという。
香川県高松市屋島東町1808
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寺標







本坊の御成門

可正桜
「この老桜は、高松藩士松平半左衛門可正が老後の楽しみとして1665(寛文5)年に、屋島寺石段に七株を植えました。そのうち六株は枯れ、残った一株を現在の地に移植したものです。」

東大門

由緒書

仁王門





四天門













宝物館

手水舎

五重塔







千躯堂







三躯堂





一願不動尊



大師堂

七福神

熊野権現社

蓑山大明神
由緒書より「その昔、弘法大師さんが四国八十八か所開創のみぎり、霧深い屋島で道に迷われ蓑笠を着た老人に山上まで案内されたと言う。のちにその老人こそ太三郎狸の変化術の姿であったと信じられております。屋島の太三郎狸は佐渡の団三郎狸、淡路の芝右衛門狸と共に日本三名狸に称されています。太三郎狸は屋島寺本尊十一面観音の御申狸又数多くの善行をつんだため、土地の地主の神として本堂の横に大切に祭られ、四国狸の総大将とあがめられ、その化け方の高尚さと変化妙技は日本一であった。尚屋島太三郎狸は一夫一婦の契も固く家庭円満、縁結び、水商売の神、特に子宝に恵まれない方に子宝を授け福運をもたらす狸として全国よりの信者が多い。」







蓑山塚



屋島稲荷社





寺務所



鐘楼堂

本堂(重要文化財)
「江戸前期の1618(元和4)年建築。桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝三間、本瓦葺。」













瑠璃宝の池(血の池)
「屋島寺伽藍早創のおり弘法大師が『遍照金剛、三密行所、当都率天、内院管門』と書き、宝珠とともにおさめ周囲を池としました。ところが龍神が宝珠を奪いに来ると伝えられ瑠璃宝の池の名があります。また、源平合戦のとき壇の浦で戦った武士たちが血刀を洗ったため、池の水が赤くなり血の池とも呼ばれるようになりました。」







源平屋島合戦の説明書



下山して麓の「わら家」で釜揚げうどん特大といなり寿司、天ぷらを食べました。


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津田石清水神社・鳴門市ドイツ館

2019-07-06 21:45:48 | 香川
2019年7月4日、四国観光で神戸に帰る途中にお参りしました。
津田石清水神社
説明書より「古くは難波津(ナニハヅ)と呼ばれ、海外では朝鮮半島と、又国内では畿内(大和朝廷)などと交易のあった津田浦の氏神社で、仁和年間(885~888)、山城国(京都男山)石清水八幡宮の分霊を勧請、現在地の西方にある雨滝山麓に津田八幡宮として鎮座しました。雨滝城主安富氏の保護も篤かったと伝えられています。1583(天正11)年、長宗我部軍の兵火により衰退しましたが、1592(文禄元)年8月に再興しました。この後、1600(慶長5)年、現在地に遷座しました。跡地は座殿池という名のため池となっています。1872(明治5)年、現在の石清水神社と改称しました。」
香川県さぬき市津田町津田106番
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境内案内図











狛犬



随神門









境内

手水舎

拝殿

狛狼(日本狼が祀られているのは珍しいですね。)



本殿



猫様が番をしていた。





神馬



三社









加茂神社







鳴門市ドイツ館
「1917年から1920年までの3年間、ドイツ兵俘虜と板東の人々のあたたかい交流から始まりました。第1次世界大戦が始まると、日本も参戦し、ドイツの租借地だった中国の山東半島にある青島を攻撃しました。敗れたドイツ兵士約5,000人が俘虜となり、日本各地の収容所に送られました。その内、四国の徳島・丸亀・松山に約1,000人が板東俘虜収容所で過ごしました。地域の人々は、俘虜たちの進んだ技術や文化を取り入れようと牧畜・製菓・西洋野菜栽培・建築・音楽・スポーツなどの指導を受けました。そして板東の街並みでは、俘虜たちを「ドイツさん」と呼び、彼らとの間で日常的な交歓風景があたれまえにみられるようになりました。1972(昭和47)年に旧ドイツ館が建設され、1974年に鳴門市とドイツ・リューネブルク市との間で姉妹都市盟約が締結されました。それ以降、両市は相互に親善訪問団を派遣するなど国際交流が活発に展開されるようになりました。1993年に新しいドイツ館が完成しました。」
徳島県鳴門市大麻町桧字東山田55-2
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賀川豊彦記念館
「賀川は、1889(明治21)年に神戸で生まれました。4歳の時に両親を亡くし、父の家がある鳴門市大麻町に引き取られました。孤独、家の破産、病苦など、多くの苦難を乗り越え、賀川は神戸神学校の学生だった21歳の時、神戸のスラムに入り、救済活動を行いました。その後、自伝的小説『死線を越えて』を執筆し、400万部を超えるベストセラーとなります。そして労働運動、農民運動、生活協同組合運動に献身し、関東大震災ではいち早く被災地に入り、救援活動に尽力しました。戦後は世界連邦運動を提唱し、世界平和を訴えました。ガンジやシュバイツァーと並んで世界の三大偉人と呼ばれ、現在も賀川の活動は、様々な組織で引き継がれています。」

第九の里物産館


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史跡高松城

2019-07-06 21:42:29 | 香川
2019年7月3日から4日の四国観光で行きました。
説明書より「高松城は、またの名を玉藻城と呼ばれていますが、その由来は万葉集で柿本人磨が讃岐の国の枕詞に「玉藻によし」と詠んだことに因んで、このあたりの海が玉藻の浦と呼ばれていたことによると言われています。
 この城は、1587(天正15)年に、豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正が、1588(天正16)から香東郡野原庄(篦原)と呼ばれていた現在地を高松と改め築城に着手した平城(水城)です。縄張り(設計)は、当時築城の名手であった黒田孝高(如水)とも細川忠興ともいわれています。瀬戸内の海水を外堀、中堀、内堀に引き込んだこの城は、日本の三大水城のひとつといわれています。城には、本丸を中心に時計廻りの方向に二の丸、三の丸、桜の馬場、西の丸が配され、三重の堀とともに堅固な構えとなっていました。
 生駒氏の治世は4代54年間続きましたが、1640(寛永17)年に生駒騒動といわれる御家騒動により、讃岐一国を召し上げられ、出羽国(秋田県)矢島1万石に移されました。このあと、1642(寛永19)年に当時常陸国(茨城県)下館藩主だった松平頼重が東讃岐12万石の領主として入城しました。頼重は徳川家康の孫で、徳川光圀(水戸黄門)の兄にあたります。将軍家と近親の関係にあった頼重は中国・四国の監察役を命じられていたといわれています。頼重以降、松平氏の治世は11代228年間にわたり、高松は松平氏の城下町として栄えました。
 お城は、1870(明治3)年に廃城伺を提出し許可され、一時、政府の所管となりましたが、1890(明治23)年に城跡の一部が松平家に払い下げになり、1945(昭和20)年には松平家から公益財団法人松平公益会に継承され、さらに1954(昭和29)年に高松市が譲り受けて、高松市立玉藻公園として一般開放されました。現在の玉藻公園の面積は79,587㎡(約2万4千坪)で、往時の城域66万㎡(約20万坪)と比べると8分の1ほどの広さです。城跡には重要文化財の月見櫓、水手御門、渡櫓や艮櫓とともに石垣や塀などが残り、国の史跡に指定されています。」
香川県高松市玉藻町2-1
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玉藻公園駐車場に車を停めます。(駐車料金無料)、入園料は200円です。
案内図

旭橋と旭門
「かつて、城の南側に桜の馬場の南中程に大手門がありましたが、1671(寛文11)年頃、三の丸に藩主の住居である旧披雲閣が建てられたため、これを廃して新たに東に旭橋を架け、それを渡って旭門から出入りするようになりました。」





旧東之丸艮櫓(重要文化財)
「艮櫓はもともと東の丸の北東の櫓(現在の県民ホール敷地内)にあった櫓で、北東の方角を丑寅ということからこの名前があります。完成は1677(延宝5)年といわれ、月見櫓と同時期につくられました。三重三階・入母屋造・本瓦葺で、形は月見櫓と似ていますが、初重に大きな千鳥破風があるのが特徴です。」







枡形

















天守閣跡
「生駒氏時代の天守は、絵図や古文書によると3重だったとされています。松平氏時代の1670(寛文10)年に改築された天守は3重5階の南蛮造りで四国最大を誇っていました。」



鞘橋
「本丸と二の丸を結んでいる唯一の連絡橋で、当初は欄干橋でしたが、江戸時代中期末頃にはこのような屋根付の橋になったようです。」

桜御門跡
「三の丸入口の櫓門で1945(昭和20)年の高松空襲により焼失しました。石垣には火災により赤く焼けた痕跡や、地面に残る礎石には柱に使用された金具の錆跡が茶色く残り、往時の姿を偲ぶことができます。」









披雲閣(重要文化財)
『披雲閣は、高松城跡の三の丸に所在する旧高松城主の松平家の別邸である。清水組の設計、施工により、大正6年に完成した。三の丸の南面に開く桜御門を正門として敷地の中央に本館を建て、海に面した北側に庭園をつくる。本館は、接客、居住、家政などの機能をもつ各部を廊下で接続する。江戸時代の御殿を意識した伝統的な配置や意匠をもち、百四十二畳敷の「大書院」から複数の小座敷を配した「杉の間」まで、充実した接客空間を擁する。 披雲閣は、旧城主によって近代に建設された大規模な和風住宅であり、江戸時代の城跡に再建された希少な事例である。また、近代的な組織体制により設計と施工の管理が徹底された住宅建築であり、大正時代におけるわが国の大規模和風住宅の技術的水準を示すものとして重要である。』





























披雲閣庭園















































報時鐘

北之丸月見櫓(重要文化財)
「月見櫓は北の丸の隅櫓として1676(延宝4)年頃に完成したといわれ、出入りする船を監視する役割を持つとともに、藩主が江戸から船で帰られるのをこの櫓から望み見たので[着見櫓]ともいわれています。総塗籠造りの三重三階・入母屋造・本瓦葺で、初重は千鳥破風、二重は唐破風と屋根の形を対象させています。月見櫓に連なる薬医門様式の水手海門は、いわば海の大手門です。」











水手御門(重要文化財)










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宇夫階神社(宇多津町)

2019-07-06 21:40:21 | 香川
2019年7月3日~4日の四国観光で宇夫階(うぶしな)神社にお参りしました。予讃線の宇多津駅より北東約800m位の位置です。
説明書より「日本武尊の皇子武殻王阿野郡に封を受け海上御巡視の折暴風雨に遭われ、宇夫志奈大神に御祈念遊ばされるや、一羽の鳥が飛び来る。王は水夫に命じて鳥の行く方に漕がしめられたところ、本島の泊に着き難を免れ給うた事により小鳥大神と仰がれるに至った。この社元津之郷に鎮座、平城天皇の807(大同2)年に現地に遷座、清和天皇の御代に神階従五位下を、宇多天皇の御代更に従五位上に昇叙された。国史に社名の見える国史現在社という古社で、明治27年県社に列せられた。」
香川県綾歌郡宇多津町1644
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鳥居

狛犬





社標

由緒書



参道の階段

手水舎

社務所(登録有形文化財)
「齋殿の東に接続する。入母屋造本瓦葺で、庇を設け、齋殿寄りに入母屋造本瓦葺の式台玄関を付ける。内部は中廊下式で正面側に応接室や事務関係、奥に座敷や居間を配し、西端に土間を設ける。座敷にはトコやトコ脇、平書院を構える。近代的な社務所の一例。」

鳥居

拝殿

神饌殿(登録有形文化財)
「拝殿の南隣に東西棟で建つ。桁行三間梁間三間、入母屋造妻入銅板葺。壇正積基壇上に建ち、方柱で舟肘木を置き、一軒疎垂木。正面中央に両開板戸をたて、側面前一間、背面中央一間に格子窓を開け、他は腰板張とする漆喰仕上げの真壁で、平明な外観を構成する。」

本殿(登録有形文化財)
「昭和28年の式年遷宮で造営された豊受大神宮の多賀宮御正殿。次の式年遷宮に際し解体,頒賜された。桁行3間,梁間2間,切妻造の茅葺型銅板葺屋根を架ける。縁を廻さず,棟持柱,堅魚木,千木をもつ正式の神明造で,掘立て柱の伝統的工法をよく残している。」





神輿蔵(登録有形文化財)
「本殿の南方に位置し北面する。桁行9.6m梁間4.8mの土蔵造、切妻造本瓦葺。石積基壇上に建ち、腰を黒色のモルタル仕上げ、上部を白漆喰仕上げとする。腰内部は二室に間仕切り、それぞれに緩い起りの切妻造銅板葺の庇を付けて、硬質な外観に変化を与える。」





忠魂社本殿(登録有形文化財)
「本殿の西南に位置し、東面する。高い亀甲積基壇上に建つ入母屋造銅板葺の浜縁付一間社。正側面に高欄付の切目縁をまわし、正面に木階を付ける。出組詰組、二軒繁垂木とするなど、塩竃神社本殿に比べて規模が小さいものの、同様の構造形式とする。」

神馬













末社金刀比羅宮拝殿及び幣殿(登録有形文化財)
「塩竈神社本殿の西北に南面して建つ。桁行三間梁間二間、入母屋造本瓦葺で、正面に向拝一間、背面に幣殿を付設する。内部は拭板敷で、棹縁天井を張り、正面に縁を付ける。向拝のみ三斗組とし、中備に波紋彫刻を置く。身舎は組物などを省略し簡明な外観とする。」







末社塩竃神社
鳥居





拝殿及び幣殿(登録有形文化財)
「塩竈神社本殿の正面に位置する。桁行三間梁間二間の入母屋造銅板葺で、正面に軒唐破風付一間向拝を付設。背面に桁行三間梁間三間切妻造の幣殿を突出する。正面中央に双折桟唐戸、両脇に蔀戸を装置する。安定感のある外観で、向拝の龍や鳳凰の彫刻は出色。」





本殿(登録有形文化財)
「小丘に占める境内の最上段、本殿の北方に位置し、高い亀甲積基壇上に建つ。桁行一間梁間一間、入母屋造、向拝一間、銅板葺の社殿で、正面に千鳥破風と軒唐破風を付ける。本支輪付の出組詰組とし、要所に彫物を飾る。二軒繁垂木。瀟洒ながら本格的な仕様になる。」

雑庫(登録有形文化財)
「明治中期(1868-1911)の建築、本殿の東南、一段低い位置に建つ。桁行5.0m梁間4.8mの2階建土蔵。切妻造本瓦葺で妻入とし、緩い起りの切妻造桟瓦葺の屋根を正面に付ける。腰は目地切をしたモルタル仕上げで、上部は白漆喰仕上げ。小屋組はトラス組。社頭景観を構成する一要素である。」


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神谷神社(かんだにじんじゃ)・坂出市

2017-12-31 20:11:32 | 香川
2017年12月29日、お参りしました。28日から香川観光で引田のまち並み散策、志度寺、琴平そして、塩江温泉のヴィラ塩江に宿泊し、国分寺の後に寄りました。
縁起「創建は不祥。神谷の渓谷にあった深い淵から自然に湧き出るような一人の僧が現れ、淵の傍にあった大岩の上に祭壇を設け祀られた社だという。その後、嵯峨天皇弘仁3年(812)に、弘法大師の叔父・阿刀大足によって社殿が造営され、春日神を配祀されたと伝える。」
香川県坂出市神谷町621
map
参道での残念切りの石
「その昔、他国から狼藉者が徒党を組んで当神谷神社の社殿及び境内で狼藉を働かんとして此処で来た時に熊蜂が群をなし飛び来たり境内に一歩も進むことかなわず残念のあまり傍らにあった石を刀でもって切り付けそのうっ積を晴らして退散したという言い伝えがある。」

参道

鳥居







狛犬







拝殿





本殿(国宝)
「鎌倉前期の建保7年(1219)建立、三間社流造、檜皮葺。荘官の刑部正長により旧本殿より再建された社殿で、建造年の明らかな神社建築としては日本最古である。」





お参りをして、岡山に進みます。
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国分寺・高松市

2017-12-31 20:10:54 | 香川
2017年12月29日、香川観光でヴィラ塩江に宿泊し、岡山に抜けます。途中、国分寺にお参りしました。
縁起略記「当山は、天平13年(741)聖武天皇の勅願行基菩薩の開基にして、国家安穏、五穀豊穣、万人豊楽等、祈願のため、また地方文化の発展を願って国ごとに建立された讃岐の国分寺(具には金光明四天王護国之寺と云う)である。創建当時の寺域は二町四方を有し、南より、南大門を入り、東側に七重塔・中央に中門・金堂、講堂の諸堂があった。現在、古義真言宗御室派の別格本山で四国第80番の札所である。」
高松市国分寺町国分2065
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案内図

仁王門











参道

千体地蔵堂

鐘楼

梵鐘(重要文化財)
「この鐘は当山創建当時(奈良時代)に鋳造された四国最古の鐘で、総高約五尺余(1.5メートル)、重量約300貫(1200キログラム)である。伝説のある鐘。」





閻魔堂

毘沙門堂





金箔縁結び







お願弁財天

手水舎



本堂(重要文化財)
「鎌倉後期(1275-1332)建造、桁行五間、梁間五間、一重、入母屋造、本瓦葺、廻縁を有し、柱は円柱、組物は和様出組、軒は二重繁垂木で、内部は内・外陣に分かれ、内陣天井は鏡天井、外陣は格天井となっている。」







延命地蔵尊

宝篋印塔

願掛け金箔大師

大師堂













福松、松の上部に傘のように松の葉が繁っています。
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志度寺

2017-12-31 20:09:04 | 香川
2017年12月28日、四国観光で、引田のまち並みを散策した後は志度寺に向かいます。国道11号線を高松方面に走行します。とりあえず、陣内うどん(香川県 東かがわ市 松原 926-5)で昼食。



天釜うどん730円です。

おなかも満ちたので、志度寺へ。
案内図

福聚山世尊院円通寺
「江戸時代、行基菩薩が開基。当寺は西林坊と呼ばれ、志度寺の塔頭七坊の一つであった。江戸時代の初め、志度寺の住職であった宥忍和尚が、自らの隠居所として再興し、依頼歴代住職の隠居所となる。江戸時代の中頃独立し現在の寺号となる。」









塔頭寺院の自性院常楽寺
「当院(真言宗善通寺派)のご本尊は、不動明王であるが、正面は、弘法大師をまつっている。これは当院本堂の場所は、元志度寺の御影堂(弘法大師をまつる)の跡とも伝えられている。当院は天正年間(約420年前)に志度に来住し繁栄した摂津兵庫県の豪族多田和泉守一族の創建による。平賀家は、当院の檀家である。源内さんは本草学薬草研究の他にエレキテル、火浣布、平線儀等様々な方面で有名である。」





源内さんの墓

志度寺
四国88か所霊場第86番札所、補陀洛山と号し、本尊は観世音菩薩を祀る。
由緒書より「仏教が、幾多の文化とまじわり困難を乗り越えながら日本に伝来(538)した後、讃王の時代には、寺に縁のある近江の越の凡薗子が「見仏聞法」に目覚め、推古33年(625)には、補陀洛渡海信仰に始まり、観音浄土の瀬戸の入口として、十一面観世音を新たに刻んで観音堂を造立し開創。亡き母の追善菩提のために藤原不比等の次男房前公が、行基の法華八講の修法を営ませ堂宇を建立、千基の石塔群に自ら写経して経塚に奉納したものが、現在の海女の墓である。これらの史跡を伝えながら、行基、最澄、覚阿、阿一入道が堂宇を修復し、細川頼之・勝元公の護持、藤原家の末裔の生駒親正公等の支援を得て、法相宗・天台宗・浄土宗・真言宗と時代により変遷しながら、初代高松藩松平頼重公が堂塔を寛文11年(1671)に寄進造営されて今日に至った古刹である。1万坪の広い境内には、人形浄瑠璃で有名な『花上野誉碑』の舞台となった奥書院、またその南側には池水を巡らした回遊式庭園、枯山水式の無染庭等がある。」
香川県さぬき市志度1102
map
仁王門(重要文化財)
「江戸中期の寛文10年頃(1670)建造、三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺。」









参道

鐘楼

五重塔







奪衣婆堂(香川県指定有形文化財)



本堂(重要文化財)
「江戸中期の寛文10年(1670)建造、桁行七間、梁間五間、一重、入母屋造、向拝三間、軒唐破風付、本瓦葺。」













案内図

大師堂















閻魔堂(香川県指定有形文化財)









薬師堂



庭園











お辻の井戸



書院



庫裏






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