旅行 写真で紹介 

旅のあれこれ、見たこと、感じたこと 写真で現地を紹介します。

二宮神社

2014-04-27 15:10:00 | 神戸市中央区
2014年4月26日
 二宮神社(にのみやじんじゃ)は、生田神社の八柱の裔神を祀った一宮から八宮までの神社(生田裔神八社)の中の二柱目に当たり、天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)ならびに応神天皇を祀っています。
 古い記録がなく、創設された時期については不明です。伝承によれば、生田神社建立の際、神功皇后が現在の神戸市内の天皇家ゆかりの神々を祀る八社を巡拝したことにさかのぼるという。 境内には「稲荷神社」や「椋白龍社」(むくのきはくりゅうしゃ)が置かれています。なお、町名の「二宮町」はこの神社に由来します。
JR三ノ宮から北東400mくらいの場所です。
神戸市中央区二宮町3丁目1-12
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東の鳥居



本殿





南の鳥居







御神木





椋白龍社

稲荷神社


二宮神社の西側に商店街があります。
二宮センター街

二宮筋商店街

二宮市場




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鎮守稲荷神社と平経俊塚

2014-04-27 14:44:39 | 神戸市兵庫区
2014年4月26日
 鎮守稲荷神社の創建は定かではありませんが、高田屋嘉兵衛が海上交通の安全を祈り奉納の石灯籠があることから、寛政年間(1789~1801)には鎮座していたと思われています。境内の一角に清盛の弟で経盛(つねもり)の第2子の「経俊(つねとし)」の塚が祀られています。
神戸市兵庫区西出町680
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手水舎

平経俊塚





高田屋嘉兵衛の献上灯籠

境内の日向神社




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横溝正史生誕の地碑、蛭子神社

2014-04-27 14:05:43 | 神戸市中央区
2014年4月26日
横溝正史生誕の地碑
横溝正史は、明治35年(1902)神戸市東川崎町に生まれ、「八つ墓村」「犬神家の一族」などの作品で知られています。
神戸市中央区東川崎町4-2
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蛭子神社
平清盛の頃からの古い由緒のある神社なのですが、戦時中に川崎重工の拡張のために現在の場所に移転し、縮小されたということです。
神戸市中央区東川崎町7-4-12



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竹尾稲荷と高田屋嘉兵衛の顕彰碑

2014-04-27 14:04:53 | 神戸市兵庫区
2014年4月26日
竹尾稲荷神社の御祭神は宇迦御魂大神(うがたまのおおかみ)で、享和二年(1802)光格天皇の御代に、地元の人々が、京都の伏見稲荷大社の分霊を勧請し、奉祀したとのことです。
説明書きでは、創建は定かではありませんが、境内に、文化10年(1813)11月と文政元年(1818)6月との年号が刻まれた石灯籠が2基あり、その頃に造られたと推定されています。
 高田屋嘉兵衛の顕彰碑は、兵庫から蝦夷地にかけて活躍した嘉兵衛を称え、昭和28(1953)年入江小学校の門脇に建立されましたが、平成5(1993)年、竹尾稲荷神社の境内に移設されました。

神戸市兵庫区七宮町1-3-18
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高田屋嘉兵衛の顕彰碑

高田屋嘉兵衛本店の地
竹尾稲荷神社の道路向いにあります。
嘉兵衛は、津名郡志本村の生まれ、22歳のときに、西出町の廻船問屋・堺屋喜兵衛のもとに身をよせ、もちまえの勇気と努力で4年後には1500石の辰悦丸を建造し船持ち船頭になりました。やがて廻船問屋として独立し、蝦夷地(北海道)の開発、日露間の紛争解決などに活躍し、兵庫津の繁栄につくしました。






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七宮神社

2014-04-27 13:52:34 | 神戸市兵庫区
2014年4月26日
 七宮神社は、御祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、相殿に大日霊貴命(おおひるめむちのみこと)、天児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀っています。
 創建の年代は不詳です。延喜式に載する八部郡汝売神が七宮の前身と称えられ、主祭神の大己貴命(おおなむちのみこと)が七つの名(大国主命(おおくにぬしのみこと)、大物主命(おおものぬしのみこと)、葦原醜男(あしはらしこを)、八千矛神(やちほこ)、大国玉神(おほくにたま)、顧国玉神())を持つことより七宮(しちのみや)神社と言われている説と神功(じんぐう)皇后が201年に三韓征伐凱旋帰国の途中七番目に巡拝したという説があります。
 平家一族が尊崇した神社で、もとは清盛が兵庫津を整備するに当たり、経が島築造のために産土神として社殿を建立し整備したといわれています。
 また、1799年には豪商高田屋嘉兵衛(かへえ)翁が辰悦丸を含む持ち船三隻の模型を奉納し航海安全を祈願、それ以降、海上業者は七宮神社を参拝するようになった。

神戸市兵庫区七宮町2-3-21
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鳥居

本殿

狛犬





手水舎


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金光寺、山王神社、久遠寺、藤之寺、古代大和田泊の石椋など

2014-04-27 11:37:57 | 神戸市兵庫区
2014年4月26日
兵庫区の運河の様子

清盛くん


古代大和田泊の石椋(いしくら)
大和田泊は、平安時代のはじめに律令国家の管理のもとに造営された泊(港)です。当時、物資輸送や外交航路として重要視されていた瀬戸内海の航路と泊の整備が進められていました。石椋は、石を積み上げた防波堤や突堤の基礎などの港湾施設であったと考えられています。
来迎寺の南西の歩道に展示されています。


金光寺
高野山真言宗で、本尊は薬師如来です。承安3年(1173年)に隆真法印が創建したとされています。
1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災で、本堂、庫裡が全壊したが、再建された。
兵庫区西仲町2-12
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山王神社
近江国(滋賀県)の日吉神社の御分霊を勧進されたもので、創立年代は不詳です。門口町の守護神として地域の人たちに信仰されています。
神戸市兵庫区門口町36番

久遠寺
法華宗本門流のお寺です。
神戸市兵庫区門口町4-5
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阪神・淡路大震災の慰霊碑です。



由緒
このお寺は俗称「浜の寺」ともよばれており、これは平清盛が築島造成の当時は浜辺であったと思われます。








藤之寺
浄土宗の寺です。
寺伝によると、もとは北風家が佐比江に神功皇后から賜った御手形を御霊として主神に、相殿に春日明神を祀る社を建立し、奉仕する社僧のいた真言宗西光院であった。 のちに浄土宗の西光寺と改め、北風家の菩提寺であり、同家が白藤姓を名乗っていたことから俗に藤の寺とよばれるようになった。
兵庫区兵庫町1-3-6
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来迎寺

2014-04-27 10:51:21 | 神戸市兵庫区
2014年4月26日
来迎寺(らいごうじ)は、浄土宗西山派の仏教寺院です。
寺伝によると、平清盛公は我が国の貿易の中心地はこの兵庫であると確信して、良港を築くために海岸線を埋め立てる工事に着手した。
しかし、潮流が速く難工事であった。時の陰陽師が30人の人柱と一切経を書写した石を沈めるよう言上した。通行の旅人を捕らえたが肉親からの非歎は大きかった。このとき、清盛の侍童である讃岐香川領主大井民部の子、松王17歳が「人柱は罪が深い、わたしひとりを身代わりに沈めてください」と申し出た。応保元年(1161)7月13日、千僧読経のうちに松王は海底に沈み経ケ島造営は完成した。天皇は大いに感動され、松王の菩提を永く弔うために当寺を建立し、念仏の道場とされた。依って経島山来迎寺不断院と号し、通称築島寺の縁起です。

神戸市兵庫区島上町2-1-3
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清盛の寵姫妓王と妓女の墓
平家が壇の浦で敗れたため、平家ゆかりの兵庫の八棟寺(来迎寺の末寺)で一門の菩提を弔った。



松王小児入海之碑



珪化木
土中に埋もれた樹木が化石となったものです。








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海向山 阿彌陀寺と楠公供養石

2014-04-27 10:10:55 | 神戸市兵庫区
2014年4月26日
浄土宗西山禅林寺派のお寺で、文永8年(1271)浄音の開基といわれています。
神戸市兵庫区中之島2-3-1 
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本堂


楠公供養石
建武3年(1336)5月25日、湊川の戦いに大捷した足利尊氏が須佐の入江の奥にあった魚の御堂で楠正成の首改めをしたと言われる礎石です。この大石を黒田長政より絵屋が賜ったものを阿弥陀寺に寄贈された。昔の争いを水に流し平和を祈願して中庭より池中に納められた。


元和6年(1620)徳川期の大阪城再築普請に参加した加藤肥後守忠広の「加藤肥後守石場これより川南ひがし」と刻印された石です。



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史蹟 清盛塚と兵庫住吉神社

2014-04-27 09:41:08 | 神戸市兵庫区
2014年4月26日
 清盛塚は、清盛橋のたもとにそびえる十三重の石塔(県指定文化財)。平清盛墓と伝えられてきたが、発掘調査の結果、墳墓ではなく供養塔である事がわかりました。隣接する琵琶塚は、琵琶の形をした古墳を琵琶の名手であった平経正の墓として伝えてきたもので、ともに市電の道路拡幅工事により現在地に移されています。
兵庫住吉神社が同じ場所にあります。

神戸市兵庫区切戸町1-3
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史蹟 清盛塚



十三重の石塔
高さ約8.5メートルで「弘安9年(1286年)2月」の年号が刻まれています。



平清盛像
石塔の隣に、柳原義達(やなぎはらよしたつ)氏の作の像があります。

琵琶塚
琵琶の名手・平経正(つねまさ)にちなんだ碑が建てられています。


兵庫住吉神社
兵庫の津は、古来良港として発展してきました。明治10年、新川が開墾されて通じるとともに、神戸港の繁栄と守護の為に、浪速の住吉大社より勧進し、創建したとされています。

鳥居

本殿

境内にある橋本稲荷大明神


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真光寺と一遍上人五輪塔

2014-04-26 22:49:38 | 神戸市兵庫区
2014年4月25日
 真光寺は、仁明天皇(833年~850年)のころ、恵萼が唐より観世音を持ち帰り、和田岬で船が動かなくなったので、堂を建てて祀ったのが始まりという。
 真光寺は、もと兵庫輪田の崎島「光明福寺」に創まり宗祖一遍上人が念仏勧進の全国遊行の旅の途中、この地に立ちより正応二年(1289)八月二十三日観音堂に於いてご入寂、その後兵庫の信者達によって荼毘(火葬)に付され、霊骨を五輪塔に納められ、お木像を御影堂に祀り御遺徳を崇めました。
 御影堂において二祖真教上人が一遍上人の13回忌の法要を営んだと「遊行縁起(真光寺所蔵)」に記されていそうです。その頃二祖真教上人は、伏見天皇に奏して「真光寺」の寺名を拝受し、播州守護職赤松円心より寺領を寄進され、七堂伽藍は荘厳を極め、寺地三十八町四方に及んだといわれています。
 次いで後醍醐天皇より「西月山」の山号を勅賜され、南朝の皇族「尊観法親王」が住持されてより更に念仏の大道場として繁栄しました。

兵庫区松原通1丁目1-62
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門前の右です。


門前の左に「 一遍上人示寂之地」の石碑があります。


鐘楼

旅行柳
謡曲「遊行柳」によって知られている遊行十九代尊皓(そんこう)上人が、南無阿弥陀仏の名号をもって柳の精霊を済度された。安永3年(1744)10月、浪華の俳人佐々木泉明がその因縁をたどり、その柳の一枝を一遍上人示寂の地真光寺に移し植えたもの(今は枯れてしまってありません)で、この句碑を建てています。

一遍上人御廟
兵庫県指定記念物(史跡)(昭和46年4月1日指定)鎌倉時代後期
遺体は敬慕する沙弥教信のように野に捨てて獣に施せとの一遍の遺言であったが、在地の人々の結縁により観音堂前の松の根元で荼毘に付し、廟を設けたという。



五輪塔
花崗岩製石造五輪塔 兵庫県指定重要文化財(建造物)(昭和46年4月1日指定)鎌倉時代後期~南北朝時代
高さ1.95cm、阪神・淡路大震災で倒壊した時、中から骨灰が現れたという。



地蔵さん

六地蔵

平清盛公の御膳水の井戸
平清盛公が当寺に弁財天を勧進した時に、僧がこの井戸の水でお茶をたてて献上したと伝えられています。

境内にいくつかの句碑があります。
河野静雲先生句碑
「白露や永久に聖の御跡ど」
明治20年~昭和49年(1887~1947)
大正13年俳誌木犀発行、同9年ホトトギス同人、同16年冬野を発行。その生涯は虚子門下の俳僧として終始しました。

望月華山句碑
「菊剪ってわれ一介の祖廟守」
明治30年~昭和48年(1897~1973)
大正3年藤沢時宗宗学林に入り寮監河野静雲に俳句を習う。昭和21年神戸大檀林真光寺住職、同29年5月選挙によって法主候補に任じ、同45年1月多年の労作である『時衆年表』(角川書店)刊行しました。

境内にある熊野権現社
文永11年の夏(1274)、一遍上人が熊野証誠殿に参篭し、御神示を感得され、御託宣を受け、念仏勧進の遊行の旅を続けられたといわれています。以来、時宗にては熊野権現を守護神として尊崇しているとのことです。


和田の笠松の歌碑
寺の北側の須佐野公園にありました。
和田の笠松は、須佐の入江に聳え、入港船の目標となり、東西往還の目印となっていた。鎌倉時代初期の歌人、藤原為家の歌に「秋風の吹き来る峯の村雨に、さして宿かる和田の笠松」と歌われており、古くから有名な松であった。戦災で焼失したが、神戸史談会の記念事業としてこの地に植えた。


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