回顧と展望

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イラン映画「別離」を観て

2020年05月23日 09時11分31秒 | 日記

別離、というとただ悲しいという語感があるのだが、場合によっては別離そのものよりもそれに至るまでの人間心理、あるいはそれをとりまく人間関係のほうが興味をひくものだ。映画は見終わった後にどんな感覚が残るかが重要。10年前に公開されたものを最近になって見たのだが、イラン映画「別離」は、映画にどういう終わり方があるか考えさせる点で十分成功したと思う(多くの映画祭での数々の受賞を考えれば当然かもしれないが)。

現代のイラン、銀行員の夫と教師の妻が、一人娘の将来について国外移住をめぐって対立、移住を主張する妻と、父親の介護もあってイランに残ることを希望する夫、究極の解決方法とし離婚を考えるが、聡明な娘は両親の間で揺れる。夫に抗議して家を出た妻、その不在の間に雇った臨時の家政婦の流産で夫に傷害致死の嫌疑がかけられ、家政婦の乱暴な夫が登場するという緊迫した状況、やっとその解決に目途がついて本題の離婚での娘の意向を確認する段になる。両親のどちらかにつくことを決めた娘だが、映画ではその決断は描かれずに、それを待つ離婚裁判所での夫婦の姿を映して終わる。

それぞれの思惑で対立する両親のうちのどちらかの選択を迫られる11歳の娘が長い苦しい逡巡のあと、下す結論とは?見る観客に、娘がどちらを選択したのか、想像に任せるものだ。任せられた観客としては、映画監督にここまで引っ張っておいてそれはないだろう無責任だ、と思うか、あるいは、こういう作りの映画もあってよいし、ここまでの話を丁寧に作り上げていることを評価するかもしれない。映画だから、結末(選択)をはっきりと示して、それへの賛否を問うということもありうるだろう。ただ、こんな重い選択を11歳の少女に迫るのである。どんな選択をしようと、それを責めることはできないだろうし、それを避けるためには、このように彼女の口から言わせることをぎりぎりで回避させたということで、観るほうはむしろ救われるのではないか。

エンドロールがペルシア語で表示され、まったく理解することができなかったが、この遮断されたような感覚を持つこともこの作品の一つの特色であり、これがイラン映画だということを改めて納得させられる。

イランの国花である薔薇の写真を添えて。

 

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