回顧と展望

思いついたことや趣味の写真などを備忘録風に

週末

2020年05月30日 08時55分12秒 | 日記

平日と週末の朝の違いを実感するのは音からだと思う。土曜日の朝は、第一に交通量が少なく車に関した音も少ない。ついで、生活音。平日なら、決まった時間の朝の食器の当たる音や通勤通学のための家を出る際のドアの開閉音が週末の朝には聞こえない。窓からに見える自然や建物には大きな変化はないから、専ら週末の朝は音が違う。

今後、これまで通勤していた人たちの在宅勤務が定着したら、出勤に伴う生活音は聞こえなくなるのだろうか。そうなると朝の違いもなくなってしまうのだろうか。自宅にいたまま、いつの間にか仕事が始まり、いつの間にか終わるとしたら。出勤や職場での仕事、という行動自体がなくなてしまうと平日と週末の違いが見えなくなる。しかし、生活には一定のリズムと切り替えは必要だ。オンとオフの違いがないと、心身のリズムが狂ってしまうかもしれない。そしてそれがひいては社会の規範の弛緩につながるのでは・・・

最初にイギリスに転勤したとき、当時の日本はいわゆるモーレツ社員なることばがあり、今ならブラック企業の代名詞としか言えない「24時間戦えますか」という栄養剤「リゲイン(挽回!!)」のCMが堂々と流されていて、とにかく昼も夜も週末も平日もなく働くことが、皮肉を込めたとはいえ、一種のファッションになっていたという、今では考えられない時期があった。一方、イギリスに着任してみるとひどい不況にもかかわらず、深夜まで働いたり週末返上というモーレツなど全くなく、定時には退社し、当然週末は休む。考えてみれば、週休2日というのは労働運動の結果としても、日曜日はキリスト教では神という超越的な存在が決めた休息日なのだからそれに反することなど考えられない。ただ、その時は、日本と比較しての労働意欲の低さがイギリスの経済低迷の原因であり、日本風に働けば少しは良くなるのではと思ったのも事実で、随分な思い上がりである。その後の日本の、90年代からの低迷ぶりを考えればいかに的外れな感慨だったかがわかる。今どきあのような働き方はあり得ないし、犯罪である。

一度、イギリスの現地採用職員(日本人ではないが日本のメンタリテイをよく理解し、かつ会社に対して忠誠心の高い職員)に週末にかかる出張を命じようとしたことがあった。彼は一瞬躊躇したが、とくに異議は唱えなかった。しかし、しばらくしてから彼の奥方から電話があり、我が家では週末の予定があるので、出張させないようにしてもらえないか、と。週末に予定があり、そして家族が反対するのなら出張させるわけにはいかない。仕事の相手方もそれによってスケジュールが変更になっても理解してくれるだろうと思ったのでその場で彼の出張を取りやめた。結局問題は起きなかったが、ただ、この顛末が公になることにはためらいがあった。というのはえてしてこのような話は当時の日本人社員の間で、彼の奥方に「猛妻」というレッテルが貼り付けられ兼ねないし、それで彼が不快な思いをすることも避けたかったからだ(実際、彼の奥方は極めて淑やかな、温厚なひとだった)。

週末と言っても人間の生活は続くし、自然はそんなことにかかわり移ろってゆく。平日と週末の違いは無くなっていくのだろうか。それとも、これまでとは違った形でこの区切り、けじめがつけられてゆくようになるのだろうか。少なくともこれまでのような通勤風景は、在宅勤務によって変わっていくだろう。ロンドンでは週末になると街に音が無くなり静寂に包まれて平日の喧騒がうそのようだった。その違いに驚いたものだったが、しかしある週末、特に予定も決めずに、気ままなドライブをして、田舎の、農家が営むB&B(いわゆる民泊と言っていい)に泊まったときのこと、そのB&Bは農場に隣接した素朴な、しかし清潔で気持ちの良い民家で、部屋には朝早くから鶏や牛の鳴き声が聞こえてきた。B&Bの主人も朝から鶏や牛の世話をしている。動物たちには週末はなかった。

庭の片隅でひっそりと牡丹が(週末にもかかわらず?)花開いていた。

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