回顧と展望

思いついたことや趣味の写真などを備忘録風に

空港

2020年05月25日 05時36分56秒 | 日記

前夜遅くに胃潰瘍で大量出血し、緊急手術を受けて都内の大学病院のICUで治療を受けている親族を見舞うために、昨日、家人を千歳空港まで送っていった。外出自粛がまだ解除されていないので、移動人数を最小限にしようということで今回自分は北海道に残った。午前7時55分発の始発便に乗ろうと、高速道路を飛ばしたのだが間に合わず、今はキャンセル便が続出してJALの場合、羽田行きは次が9時55分なので止む無くそのまま2時間空港で待つことになってしまった。空港では駐車場からカウンターまで誰一人として会う人はいない、日曜日の朝とはいえ、これまでであれば考えられない無人の空港。あたかも、何年も放置された空き家か遺跡にでも入った気分で、結局、2-3人の乗客と空港職員、警備員の姿が見えるのみだった。外出自粛とは言うものの、そこに見える風景は、戒厳令でも敷かれた時のようなものだった。

そもそも戒厳令などというのは極めて異常な状態である。これまで、一度だけ戒厳令下の国を訪れたことがある。1980年代ポーランドではレフ・ヴァウェンサ(日本ではレフ・ワレサと呼ばれることが多い)率いる「連帯」運動によって民主化の動きが強まり、他の東欧諸国への波及を恐れ、それを抑え込むために当時のソ連が軍事介入しようとした。その介入を防ぐために(実質的に対抗するため)、当時の首相、ヴォイチェフ・ヤルゼルスキが1981年12月13日にポーランド全土に戒厳令を敷いて独裁権限を掌握した。ちょうどその時分、累積債務問題で西側債権者団の一員として特別に許可を受けてワルシャワに入ったことがある。戒厳令下ということで市内の各所に軍隊が展開していた。我々は指定された、西側の常識に比べれば質素なホテルに滞在して連日相手方(当時のワルシャワ商業銀行)と返済条件に付いて長時間交渉をした。

戒厳令下で夜間外出禁止令が出ており、午後8時だったか9時だったかは忘れたが、それ以降は決して外出できない。もし外出でもして見つかれば、最悪その場で兵士に射殺されてもしかたのないということ。そのため、少し余裕をみて会議を終えホテルに急いだ。日が短くなっていた季節のことであり、すでに暗くなった人っ子一人見当たらない街を同僚とホテルに急いでいると歩哨に立っている若い兵士がこちらに向かってやってくる。何か問題でもあるのかと恐怖感が沸き上がってきた。銃剣を帯びた兵士は1メートルくらいまで近づいて正面に立つと、何も言わずに、指2本を口元にもっていって、たばこを吸う仕草をする。同僚が持っていたマールボロのひと箱を差し出すとさっと受け取ってそのまま踵を返して遠ざかっていった。多分東洋人を観たので念のため確認に行ったが問題はないとでも上官に報告したのだろうか。当時東欧諸国では西側のたばこ特にマールボロは人気があり、お土産によく持って行った物だったから、たばこをやり取りするというのは、特に異常なことではなかった。

空港がこんな閑散としていては、いくら自粛が解除となっても以前のような賑わいや雑踏が戻ってくるのには相当な時間がかかるだろう。そもそも、生活や仕事の形が変わってしまった今、同じように風景を再び観ることはないのではないかとさえ思われた。

見送りを終えてガランとした駐車場に戻ろうとしたとき、ワルシャワの街に展開していた装甲車からかすかに漂ってくる火薬と鉄、それに重油のにおいがふっと蘇ってきたような気がした。あの時も車の姿はほとんどなかった。

コメント
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