回顧と展望

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終着駅

2020年05月07日 08時48分59秒 | 日記

終着駅というと映画や歌謡曲の題名にも使われる趣のある言葉。終着駅には、個々の列車にとってはこれ以上先には進めない(先がない)という終末的な意味がある一方で、駅である以上、受け入れる一方だけで無制限に列車(汽車)を止めておくことはできないから、出発もさせなければいけない、到着と出発を繰り返す、すなわち、終着駅とは出発駅でもなければならない。翻って、世界の主要都市の主要な駅の多くは多数の乗降客が利用する終着(出発)駅であって通過・経由駅ではない。例えば、ロンドンのキングス・クロス、ヴィクトリア、ウオータールー、パリのサン・ラザール,ノール(北)、リオン、ニューヨークのグランドセントラルなどがそれで、これらの駅では終着駅らしく列車が到着するホームには、万一の場合に備えて巨大な車止め(列車止め)が設置されているのが特徴だ。こういう終着駅が一般的なのは、イギリス、フランス・アメリカの鉄道の発祥時に主として民間事業者により、営業地域が分割され、それぞれのフランチャイズに向けて各社が列車を運行していたから、相互につながることなどは考えずに独立した駅が建設されたという歴史的な背景による。そこで繰り広げられる別れや邂逅、出発、さらには絶望や希望といった、人生を象徴するようなできごとが終着駅という言葉に味わい深い雰囲気を与えていったのだ。

日本の主要駅は、かつては上野駅にその名残があったが、東京駅や名古屋駅、大阪駅などの旧国鉄の流れをくむ駅は乗降客は多いけれども必ずしも行き止まりばかりとなるような終着駅ではない、これははじめから全国ネットワークという発想から、相互につながるものとしての通過・経由駅という性格も持っていたからだ。東京駅は多くの列車の終点ではあってもいわゆる終着駅というものではないと思う。日本では、諸外国と同じく私鉄の駅が、たとえば東京の東急の渋谷や京王、小田急の新宿、大阪の近鉄、阪急などの駅が終着駅の雰囲気を持っていたが、それも最近では相互乗り入れによって実質上通過駅となって、終着駅の風情がだいぶ失われてしまった。利便性の向上によって味わい深い雰囲気が失われたと感じるのは合理性や効率性からみれば単なる懐古趣味なのだろうが。

ロンドンにあるそんな終着駅の一つが金融街シティに近いリバプールストリート駅。人生の終末が近いからというわけではなく、到着と出発の両方の意味をかけて、かつてシティで働いていた自分の会社の同僚が年に一度交友を温める会がそこの構内のパブで開かれている。ちょうどその時期にロンドンに行く用事があるので毎年参加していた。その集まりは6月の第二週金曜日に開催されているのだが、今年は当然中止に。幹事役からの中止連絡と前後して、このメンバーの一人が最近、コロナウイルスに感染し、治療の甲斐もなく肺炎で亡くなったと、そしてそれを悼むメールがメンバーから発せられてコピーがいくつも手元に届いた。この病気による身近で初めての訃報である。ロックダウンにより友人の葬儀への出席は不可であり、家族の悲しさ、寂しさは察して余りある。遠いロンドンでの話ではあるもののいつの間にかコロナウイルスの脅威が身近に迫ってきたという実感を持った。

エミール・ゾラが絶賛し、のちの彼の小説「獣人」はこの絵の寓意を含んだものともいわれる、クロード・モネ作「サン・ラザール駅(1877年、オルセー美術館)」。この絵に描かれた駅舎と風景は今でもヨーロッパの多くの駅にみられる。

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