昨日5日は3年ほど前に亡くなった父の月命日。月忌法要で檀家になっている近くのお寺からお経をあげに来てもらっている。この寺の住職は大正生まれの96歳と高齢だが、今でも体調が良ければ檀家回りをしている。さすがに体の衰えは隠せないが、自分で立つことも歩くこともできるし、耳も目もしかりしている。住職はいつもは寺の若い(と言えっても30代)の僧侶の運転する車で来て、お経をあげてくれた後しばらくお茶を飲みながら話をするのが慣例になっている。この頃は、住職の昔話に付き合わされることが多くなった。彼は寺の三男として香川県に生まれ、子供のころの生家の寺や生活の様子(海水浴や山登りといった)、中国での従軍・行軍、長兄の戦死、戦後復員の様子、そして30歳を前に北海道に移ってきて気候の激変に驚いたことや、当時の冬道での法事や檀家回りの苦労、など。月ごとに違ったテーマで、驚くほど正確詳細な話をしてくれる。そして時折話の最後に「自分の中で最も大きな出来事は戦争。これを繰り返してはいけない」とも。父がこの寺の総代を長年つとめていたので、我が家には特に義理を感じているのか、それとなく気を使ってくれる。
昨日は住職に代わっていつもは車を運転している若い僧侶ひとりが来た。聞けば、今回のウイルス感染拡大で、葬儀のやり方も様変わりだという。お寺の仕事には休日もない。檀家から呼ばれればいつでも出かけなければならない。今のような時期でも、檀家が望む限り月忌法要も続けていると。これまでのような大人数の葬式や法事はもう行われないかもしれない。寺も行事を中止したり変更したりと大変そうだ。(仏間の隅と隅に座って十分な距離を保とうとしつつ)聞いているうちに医療従事者に加え今後は宗教関係者への感染もあるのではないかとふと心配になってきた。
人生における免れない四つの苦悩、生老病死は仏教の教えの説くところであり、それに背を向けることはできないからだ。
たまたま昨日は立夏でもあった。立春と違ってこの言葉には心躍らせるものはなく地味。東京であればその日差しの強さの中に夏を感じてこの言葉を納得することができたが、北海道では梅や桜がまだ咲いている時だけにいささか違和感がある。
眺められる梅は毎年咲く、眺める人は毎年同じとは限らない。庭の片隅で強い芳香を放っている。