2007.2.22(木)雨、曇り
7:55 起床
15:30 民宿中間荘発~歴史民俗資料館~東線
朝にかけて雨の音が激しく鳴り、いつまでたっても断続的に降っている。昨夜よくぞキャンプしなかったことか。今日は一番船で本島に戻り行けるところまで行く予定だったがこの雨では走る気もしない。朝食の後再度宿泊を決め、雨読とする。女将に図書館はないかと聞くが、残念ながら無いそうだ。ごろごろしていたら、女将が立派な「伊平屋村史」を持ってきてくれた。実は昨日島中を巡ったのだが、島の民俗や習慣について疑問がいくつかあってもやもやしていたのだ。早速読み始めるがなにしろ538ページにわたる大作である、読破まで6時間もかかってしまった。その間泡盛が一瓶開いたのも言うまでもない。この島の泡盛は照島という銘柄で沖縄返還(昭和47年5月15日)までは伊平屋島でしか飲めなかった代物だ。
伊平屋村史(昭和56年12月25日発行)と照島
伊平屋には驚くほどの多くの風俗行事、年中行事や宗教的行事が残っている。有名なものは旧暦7月に行われるウンジャミ(海神祭)で一日がかりの海神をお迎えして海の幸を祈願する祭りである。月の内10日ぐらいは行事があり、事細かにしきたりがあるようだ。
勿論今日では廃れている行事もあるが、かなりのものが残っているということだ。まさに民俗学の宝庫である。
もう一つ興味深いのは沖縄戦における米軍の占領である。守備隊の存在しない離島における沖縄戦はどのようなものであったか知るよしもなかったのだが、村史あるいは歴史民族資料館の資料で悲惨な占領の事実を知ることとなった。伊平屋村に米軍が上陸したのは昭和20年6月3日のことである。島民は島の東海岸を航行する米艦隊百数十隻を見て、奄美大島か本土に向かうものと思ったそうである。ところがいきなり艦隊に包囲され攻撃が始まったのである。島中大騒ぎになるが、住民ばかりなのであっという間に占領され、3日後には総ての島民は田名に集められ、捕虜生活を余儀なくされたのである。この辺の戦前、戦中、占領時、米軍撤退後の様子がその後村長を務められた新垣安助氏の名文で具体的に事細かに記されてある。41ぺーじにわたる大作だが一気に読んでしまった。実は住民ばかりでなく、不時着した特攻隊員の生き残りや特務機関の軍属が村民の中に隠れており、ついには米軍に発見されることとなる。そのあたりのいきさつはまさに息を呑む状況なのだが、結果は殺されることはなく本土に帰還することとなる。民族資料館には米軍提供の占領下の伊平屋村の写真が数百枚展示してあり島民の悲惨な様子(本島や伊江島など戦闘地域とは比べるべくもないが)や荒垣氏の文章を裏付ける貴重な資料となっている。
その他亀甲墓に代表する沖縄における葬祭制度について詳しい内容が村史に載っていた。これらについては後日改めてご紹介したい。
夕方雨が上がったので、いつものようにビールを買いに農協へ行き、腹ごなしのために東海岸を少し走ってみる。島の道路はどこも立派で、広い歩道と花壇が着いている。初めて宮古島に行ったときに、島の案内の方が、「島の第一の産業は何かと思います、サトウキビでも観光でもないのです、それは島に落ちる離島振興対策費という補助金で行う土木や建築なんです。」と言っておられた。どことも同様で例え車が通らなくても道路は整備されていくのだろう。
左:昨日登った腰岳 中:前泊のシヌグ堂 右:東線
左:港の正面にある虎頭岩 中:中間荘の宿泊棟 右:前泊の内
走行距離 5Km 累計 6、400Km 経費 800円
★民宿中間荘 国頭郡伊平屋村前泊 1泊2食6,000円 広い敷地の平屋で、トイレ
シャワー付 コインランドリーもあって旅には便利。