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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

迫力のない地獄 3/14

2007-03-19 | 旅行記

 2007.3.14(水)快晴

 8:00 起床 
 9:00 北郷温泉丸新荘発~都井岬~えびの高原~
17:00 えびの高原荘着

 佐多岬に行けなかったので、せめて都井岬に行ってみようと思い南に向かう。南国らしい海岸が続き、飽きない風景だ。都井岬には野生の馬が居ると聞く。本当に居るのだろうか、居たとして見る事が出来るのだろうか。心配ご無用、あちこちに草をはむ馬が居る。
北海道のどさんこの様なずんぐりとした馬たちだ。約90頭が放牧され野生の形で生息しているという。一体何のために放牧したのか、観光の為なのだろうか。とにかくあちらこちら、意外なところまで糞が落ちており、出没しているんのだろう。Img_3207 Img_3208 Img_3213





 都井岬に至る海岸と野生の馬

 白蛇が居るというので、細い山道を辿ってゆくと神社があり、神妙にお祭りしてある。
もともと白蛇伝説のあるところに現れたと言うから、何ともありがたいことだ。岩国や東北で見たものと同様、社のような所でじっとしているが、ここは写真に撮れないのでお見せできない。
 岬の近くに御岬神社があり、岩壁の凄いところに社がある。周りはソテツの群生で、自生としては北限ということである。このあたりにも馬の糞が落ちていて、どこにでも居るのだなあと感心する。都井岬灯台は有料なので、写真だけ撮って引き返す。Img_3215_1 Img_3220 Img_3224





左:白蛇様神社  中:御岬神社とソテツの群生  右:都井岬灯台

 帰り道には猿の軍団が現れ、車で来て良かったと思う。自転車だとちょっとやばい。
都井岬から北上し、都城、霧島を通過し、えびの高原に行く。自転車だと2日がかりの行程を数時間でこなす。文明の利器とは素晴らしい。えびの高原には鹿が多く住んでいる。雄の雉も現れ、今日は野生動物のオンパレードだ。
 時間があるので、不動池、大地獄、小地獄など散歩する。かつての火山活動の遺物なのだが、噴煙の止まってしまった地獄はなんとも寂しい。宿の温泉も地下数百メートルから掘り出しているとか、火山の真っ只中としては、らしい温泉ではなかった。Img_3228 Img_3232

不動池と硫黄山、死んでしまった地獄




 走行距離 0Km    累計 7、164Km   経費9,000円

★えびの高原荘の湯 カルシューム、ナトリウム、マグネシューム硫酸塩化物炭酸塩泉
源泉掛け流し 露天風呂、サウナあり。透明で少し臭いがある。お湯の出口に錠剤が設置されており、厳密には源泉掛け流しとは言えないのではないか。立ち寄りは500円

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北郷温泉 3/13

2007-03-18 | 旅行記

 2007.3.13(火)快晴

 8:00 起床 
10:00 東横イン宮崎駅発~鬼の洗濯板~鵜戸神宮~飫肥(おび)城址~
17:00 北郷温泉丸新荘着

 駅前でレンタカーを借りて出発、たまには運転をしないと、不安になってしまう。宮崎の道は車でも気持がいい。鬼の洗濯板は青島はじめいろんな所にあるのだが、地形的にはすこぶる奇妙な形である。詳しくは総合博物館に行けば解るが、要するに砂と泥の沈降の差があのような地形を生んだということである。青島は客引きのおばさんが列をなしていたので通過する。青島でなくても鬼の洗濯板はいくらでもある。Img_3192 Img_3193

フェニックス道路と鬼の洗濯板


 宮崎の名物のひとつは伊勢海老である。伊勢でないのに伊勢海老とは、と思うがとにかく宮崎の海で捕れるらしい。今日の宿泊の北郷温泉では伊勢海老祭りというのをやっており、今夜は伊勢海老を堪能する予定なのだが、高価なもの故期待はしていない。
 鵜戸神宮なるところに寄る。高校の修学旅行で行ったような行かないような。「運玉こりゃええけなもんだ」という歌を覚えているのは、行ったような気もするのだが、亀石を見ても、神殿を見ても思い出せないのは一体何だ。Img_3200Img_3197

本殿と亀石、ここに運玉を投げ入れる。

  飫肥城(おびじょう)は伊東氏の居城とされているが、戦国時代には島津氏との確執やらなんやらいろいろと有ったわけである。NHKの連続小説「わかば」で有名となったそうだが、私はそのドラマを見ていないのでよく解らない。しかしお城も城下町も大変情緒がある、時間があればゆっくり廻りたい所だ。ここの名物はオビ天という薩摩揚げのような食べ物だ。揚げたては美味しいかと思うが、買って帰って冷えたものはどうもいただけないものであった。Img_3201 Img_3206

飫肥城大手櫓門と旧本丸跡


 北郷温泉のお風呂と伊勢海老は素晴らしいものであった。伊勢海老は造りに始まって洋風、和風、都合5回ほど楽しませていただいた。伊勢ホテルなら4,5万円かかりそうだ。いいお湯といい料理、北郷は納得。

 走行距離 0Km    累計 7、164Km   経費12,000円

★北郷温泉丸新荘 含ヨウ素炭酸ナトリウム塩泉 動力泉(800m) 源泉掛け流し 露天風呂あり 半濁のツルッとした、いわゆる美人の湯で有名。この地区の源泉となっているようだ。地元の人が沢山来ているので、ここのお湯が最も良さそうだ。よく暖まる。

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宮崎市内の温泉 3/12

2007-03-18 | 旅行記

 2007.3.12(月)快晴

 7:00 起床 
 9:00 東横イン宮崎駅発~宮崎県総合博物館~宮崎空港~
17:00 東横イン宮崎駅前

 明日から4日間来客有り、自転車を中断して車での旅となる。今日の午前中は自転車で彷徨できるので、宮崎神宮にある宮崎県総合博物館に行く。広い敷地に民家園も併設し、立派な設備と豊富な学芸員がいても入場は無料である。ここも2年前からということなので宮崎県のアミューズメントはすべてそうなっているようだ。日本中廻ってきたが素晴らしい施策だと思う。郷土の事を知ろうとする子供達から100円200円のお金を取ろうという考えがおかしいのだ。Img_3172宮崎の東海岸に分布する鬼の洗濯板と呼ばれる地形がいかにしてできたか、宮崎に独特の横穴墓、小藩分立故に起こった百姓一揆や逃散など興味深い事項が音響、映像を駆使して丁寧に教えてくれる。最も興味深かったのは椎葉村の焼き畑農業である。柳田国男の民俗学の出発点ともいえる椎葉村の焼き畑農業が、今も続けられているのだ。訪れてみたいのだが、あまりに山深く、多分行けそうにないので特に気に掛かった。
 民家を見るのはなぜか楽しい。古い民家はいまや博物館や民家園で移転、再建されたものを見るしかできないが、地方地方の特色が出ていて楽しい。ここには四棟の民家があるが一棟は補修中で三棟をみることができる。オモテとヘンヤからなるシンプルな農家が宮崎では最も古い民家だそうだ。Img_3177

テノマという棟の繋ぎの部分がある旧黒木家住宅


 宮崎市の北方には石崎浜、南方には青島の温泉があるが、実は市街の中心部橘公園にも温泉があるのだ。立ち寄り専門の施設は無いが、ホテル等数軒が立ち寄り温泉を行っている。宮崎リゾート温泉たまゆらの湯というらしい。料金が高いのが玉に瑕だが、大きな施設にかかわらず、地元の人が連日来ているようで、挨拶や世間話が飛び交っている。このあたりは最も南国らしい地域で、プロムナードコースはフェニックスの間に色とりどりの花が植えられ、しゃれたお店もあったりして、デートコースには最適だ。Img_3188 Img_3189

入浴前と入浴後



 走行距離 10Km    累計 7、164Km   経費8,260円

★宮崎リゾート温泉たまゆらの湯 宮崎プラザホテル1,000円(バスタオル等付)
 ナトリウム塩化物線泉 循環、加温 ジェットバス、サウナ、露天風呂等が併設され
 ゆったり入浴できる。

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南国は冬 3/11

2007-03-13 | 旅行記

 2007.3.11(日)快晴

 7:00 起床 
 9:00 都城ユースホステル発~R10~天ヶ城~みやざき歴史文化館~
17:00 東横イン宮崎駅前

 久々に快晴の朝が来た。ところが寒くてたまらない。合羽着ても寒さでガタガタ来る。
韓国岳、高千穂峰からの吹き下ろしがもの凄く、真っ直ぐ走れない。車道は怖いので、歩道をゆっくりゆっくり走る。高岡というところに天ヶ城歴史民俗資料館がある。資料館のお城は天守閣があって、実際の天ヶ城とは関係がない。どうせなら史実に基づいて造って欲しかった。昼食に名物のだご汁なるものを頂く。なんてことはない団子汁であるが、ゆず胡椒をうんと効かせるとなかなかおいしい。Img_3138
Img_3136
天ヶ城民俗資料館と10号線沿いのコブシ


 宮崎が近づくと道が上等になってくる。歩道も広くきれいでのんびり走れる。明日は休館なので歴史文化館に行く。とても大きな立派な資料館なのだが無料なのである。きくと2年前から無料になっているという。東国原知事が就任前にもいい施策をやっているのだ。
みやざき歴史文化館の目玉は、蓮ヶ池横穴群であり、80数基の墳墓がある。6世紀から
8世紀のもので大小様々横穴がある。時間的に余裕がないので心ゆくまで見られなかったのだが、なんとも独特の横穴墓である。
Img_3154
Img_3148Img_3151




左:みやざき歴史文化館   中:横穴墓  右:その内部
 
 宮崎市内の道路は、至極走りやすい。橘通り等は自転車専用部分があり、自動車の駐車や店舗の侵略もなく、今後の自転車道路の見本のような道路である。青森市も同様の自転車道があったが、これほど走りやすいものではなかった。それとゴミが無い。往来数が少ないからだろうか、とにかくタバコの吸い殻や空き缶などのゴミが一切見られない。日本中を廻ってきた私にとっても、この町はピカイチである。Img_3162

 走行距離 75Km    累計 7、154Km   経費7,645円

★東横イン 宮崎駅前  4,095円(一泊朝食無料) 駅から1分

 

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雨、風、坂 3/10

2007-03-12 | 旅行記

 2007.3.10(土)雨
 7:15 起床 
 9:14 桜島ユースホステル発~県道26号線~黒神~R220~福山~県道478
号線~R10~都城市~
16:30 都城ユースホステル着

 薩摩半島、大隅半島のどちらを廻るか、随分悩んできた。薩摩半島は3回、大隅半島は1回訪問しているが、大隅半島は鹿屋を一度訪れただけなので、今回は大隅半島、それも佐多岬をまわろうというのが私の予定である。今日は鹿屋ぐらいで一泊と余裕の朝食をとっていたのだが、何気なく見ていた南日本新聞のある記事に愕然とする。「本土南端1,100円佐多岬ロードパーク」の見出しの記事は凄い文章で始まっていた。「この季節になると国道220号線は本州最南端を目指す自転車や徒歩の旅行者を多く見るが、彼らはその目的は達することが出来ない」という意味のコラムである。県道68号線から先の4Kmあまりは佐多岬ロードパークといって自転車、徒歩は禁止の観光ロードなのだそうだ。
1,000円の駐車料金と最後の歩道は有料100円だそうだ。徒歩で本州最南端を目指すならば、海岸沿いを渡ってゆくか、南国のジャングルを踏破するしかないということだ。観光的にはすっかり寂れてしまって、本州最南端という意味だけが残っているというのが記事の主題である。これじゃ湯殿山と一緒じゃねいか。自転車で入れない所なんてまっぴらだ。よくぞその朝、その記事を掲載してくれた。そしてよくぞその記事を見つけた。
きびすを返して宮崎に向かうこととする。とりあえず都城へ行くこととするが、天気予報に反して雨が降ってきた。準備をしている間にやんだ降ったりしているが、たいしたことはないだろう。意を決して出発するが桜島内で10分走っては10分雨宿り、垂水までに3度も雨宿りする。防災のシェルターがあるので雨宿りには事欠かない。黒神というところには大正噴火により埋没した門中や鳥居の遺跡があり、噴火の壮絶さを今に伝えている。Img_3117
Img_3121Img_3123




左:あちこちにある退避壕  中:黒神の埋没した門柱  右:同、鳥居

桜島は名のとおり島なのだが、現在では半島となっている。噴火により湾が埋まって半島となったのだ。それって凄い事じゃない。垂水から向かい風が凄くなり、雨も連続的に降ってきた。3月とあってそこら中で道路工事をやっている。右手に鉄路の跡のような遺跡がある。交通整理の人に聞くと、20年ぐらい前まで鹿児島から鹿屋に続く路線が有ったそうだ。今では朽ちるに任せている。Img_3126
 福山から国道を離れ日州街道の峠を登る。福山は黒酢の産地であちこちに壺を並べて熟成している。旧道は天窮坂といわれ難所といわれている。雨、風とも強くなり、坂も強烈である。向かい風になったときには歩くより遅い速度となる。沖縄ではあまり坂が無かったので、身体も慣れていない。国道10号線にはいると雨は常時降りかかり、手指の感覚は既に無くシフトチェンジもままならない。昨年12月、白浜に向かう道中を思い出す。3月の南国とは思えない。欲も得も無くなった頃に都城ユースホステルに着く。冷え切った身体にお風呂がありがたい。Img_3133 Img_3129 Img_3131

左:酢の熟成  中:旧日州街道案内板  右:旧日州街道、恐ろしい坂である。

 走行距離 84Km    累計 7、079Km   経費4,410円

★都城ユースホステル 4,410円(一泊2食付き) 夕食はYHらしくない、上等な食事であった。

★峠列伝(35)天窮坂 難易度4 風景2 水場不明

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爆発対策 3/9

2007-03-12 | 旅行記

 2007.3.9(金)曇り
 7:00 起床 
 9:20 鹿児島港着~歴史資料センター黎明館~桜島フェリー~
14:40 桜島ユースホステル着~湯之平展望台~
17:00 桜島ユースホステル着

 出航の遅れはそのまま到着の遅れとなるが、一向に構わない。仕事の人には申し訳ない。船を降りるとめっちゃ寒い。長袖の上にウィンドブレーカーでも寒くて、雨具を着る。送り返してしまったヤッケが恨めしい。天文館などの繁華街を越え、歴史資料センター黎明館に行く。鶴丸城跡に建つこの資料館は素晴らしい規模だ。鹿児島の歴史、民俗をたっぷり見せてくれる。学芸員さんも居て、質問も可能だ。早速西郷どんの大島、徳之島の蟄居の理由を聞く。Img_3094 島津斉彬の共をして門司に来たとき、殿をさしおいて京に上ったとか。何とも納得いかないが、大島についても沖永良部についてもよく解らないのだ。とりあえず銅像の写真を撮って桜島フェリー乗り場に急ぐ。桜島フェリーは鹿児島と桜島を15分で結ぶフェリーで、24時間運行しており、昼間は10分おきに出航している。おそらく日本一便数の多いフェリーだろう。錦江湾を回ってゆけば100Km近くかかるところを4Km程でつなげるのだから、これほど効率的なルートもない。自転車250円は価値ある値段である。桜島に上陸すると優美などと言ってられない、強烈な形相の桜島が迫ってくる。ユースホステルに荷物を置いて、湯之平展望台まで登ることとする。どうもその辺までしか行かれないようだ。展望台へは赤水というところから登る。道中には避難シェルターが設備され、物々しいコースだ。少し登ったところにお墓がある。石塔は鹿児島ならではの立派な石塔なのだが、すべて屋根付きなのである。溶岩や噴石には耐えられないが、降灰には充分の立派な屋根である。
Img_3100
お墓はみんな屋根付きである。



展望台まで7Km、ぐんぐん高度を稼いで錦江湾と薩摩半島の全貌が見えてくる。遠くに開聞岳の薄い輪郭も見えてくる。逆に桜島火山は段々細部まで見えるようになり、真ん中の山の直下は南ア北岳のバットレス(頂上直下の岩場)の様である。その下は大きな沢になっており、土石流の危険地帯となっている。いやあこれほど登高意欲をかき立てる山はない。ひょっとしたら未踏かも知れない。いや、学術関係者は登っているだろうなどと色々考えてしまう。登るとしたら左の稜線だ。Img_3101 Img_3103

バットレスがあるのは中岳、全体的には右図のように見えるが、今噴煙を上げているのは右手の南岳。


 壁はボロボロで登れないだろう。 Img_3112_2 Img_3114
Img_3115





左:大正噴火、桜州高等尋常小学校埋没跡の碑  中:温泉湯気噴出  右:桜島ユースホステル

 走行距離 27Km    累計 6、995Km   経費6,352円

★桜島ユースホステル 3,870円(一泊2食付き) 公営で安くて、設備も整っている。温泉がいい。

★桜島ユースホステルの温泉 ナトリウム塩化物線 有馬のように黄土色の温泉で、塩味がする。よく暖まる。地下1,000mから汲み上げているとか。

★峠列伝(34)桜島湯之平展望台 難易度3 風景5 水場無し
 赤水から7Km、丁度一時間かかった。 峠とは言えないが、雄大な桜島と錦江湾の景色は最高。

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石當散?? 3/8

2007-03-11 | 旅行記

 2007.3.8(木)曇り
 7:00 起床 
 9:00 民宿内田荘発~亀徳郵便局~県道80号線~県道629号線~金見ソテツのトンネルムシロ瀬~ユイの館(天城町)~県道80号線~亀徳港
17:00亀徳港~9日9:10鹿児島港着

 徳之島北半分を廻っていないので、出航までに一周しようと思う。沖縄で使ったガイドブックやパンフレットなどを小包で送る。沖縄や奄美列島では小包の料金が高いのでEXパック(500円均一)を如何に上手に使うかである。無理矢理詰め込んでガムテープで包装しても大丈夫なので、旅行の荷物などは最適である。また、郵貯カードも旅行では便利である。その県で最も大きい郵便局では土曜日曜の払い出しも可能である。
 昨日訪れた花徳まではあっという間に着き、県道629号線を北上する。ひっきりなしに走っていたサトウキビ運搬のトラックも姿を消し、気持ちよく走ることが出来る。海の景色は見えないところが多いが、適度なアップダウンがあり、バイク、ランニングの練習にはもってこいのコースだ。高橋尚子がトレーニングしたコースとあって「尚子ロード」というそうだ。徳之島トライアスロンのバイクコースでもあり、ここを2周する。Img_3050 Img_2989 Img_3053

浜と面縄の古井戸、右は尚子ロード



 途中浜というところに古井戸が保存されている。伊仙町の面縄にも古井戸の遺跡があったが、島にとっては井戸は生活の根源であり重要な場所であったのだろう。
 島の北東端、金見崎にはソテツのトンネルがある。結構長い距離が自然のソテツでトンネルとなっており、情緒がある。Img_3051_1
Img_3055_1
 ソテツのトンネルと爆弾鐘


その先手々(てて)というおかしな地名の中学校に、爆弾鐘というのがある。戦時中残された爆弾を利用して、鐘とし時を告げていたというのだ。まだ時計が一般にない時代なので重宝されたという。手々中学校の正門前に鎖でつるされている。
 そして少しの所で今日のメインエベント、ムシロ瀬(ムシロゼ)がある。沖縄もそうだが岩と言えば隆起石灰岩ばかりで、この花崗岩は珍しい。しかも名のとおりむしろのように海岸に広がっている様は壮観である。波の浸食により奇妙な形をした大岩も随所にあり、ボルダリング(道具を使わないで登る岩登り)にいい岩が沢山ある。海は右は太平洋、左は東シナ海というところだろうが折からの風で、今日も波が荒い。あちこちで潮吹きが楽しめる。しばし眺めて県道を南下する。Img_3056_1 Img_3059 Img_3062_1





ムシロ瀬、大岩・大波が楽しい

 岡前というところで、西郷南州先生謫居之跡という看板がある。あれ、西郷隆盛が流されていたのは奄美大島ではないのか。通り過ぎようとしていたのをバックして丘の上に登る。パパイヤのたわわになった奥に確かにその跡がある。大島に流された後に再度徳之島に流されたようである。一体何があって流されたのだろうか。Img_3068

西郷南州先生謫居之跡


 天城町のユイの館という資料館に立ち寄る。西郷隆盛の島流しの件を訪ねると、どうもはっきりしない様子である。その代わりといってはへんだが、戦時中の様子をかいま見ることができた。徳之島については軍隊も居らずたいした戦闘も無いと理解していたのだが中々どうして、天城の北、浅間というところに飛行場があり九州の知覧などから飛び立った特攻機が燃料の補給にここに寄って、再度沖縄に向かって飛び立ったということである。平土野の旅館に特攻隊員の記した辞世の文章が残っており、その写しがユイの館に展示してある。自衛隊が是非欲しいと言っているそうだが、貴重な資料なので断っているそうだ。自衛隊が一体何に使うつもりなのだろう。Img_3070

ユイの館

 改葬の件についても質問してみるが、天城町でも総て火葬にしているようで、改葬というのは行われていないということである。となると伊仙町で見たあの本の文章は一体何なのだ。「火葬の施設があっても火葬にするのは本土からの移住者のみであって云々」という文章は真偽を疑わざるを得ない。古い本なら致し方ないが、3年前の出版物なのである。どうも時間的なずれ、もしくは誇張が有るとしか思われない。
 徳之島町に帰ってくるとまたしてもサトウキビ運搬のトラックが急増する。収穫の最盛期とあって致し方ないが、問題はその積載量とスピードである。サトウキビは機械刈りのものは3,40cmに切られ、手刈りのものは長いまま束にして積み込まれる。これが荷台のギリギリの高さまで積まれ、スピードを出すもんだから、カーブでは必ず数本のキビが落ちている。島津藩の役人が見たら、島中死罪になりそうだ。このキビが人に当たることは無かったのだろうか、あるいは交通事故は起きていないのだろうか。徳和瀬のあたりでキビを植えている畑を見つけた。30cmぐらいに切って挿し木をするのである。長いままのキビと、切ったキビと、挿し木したキビがあり、植え付けの行程がよく解る。サトウキビは刈り取った後、毎年勝手に生えてくるものとばかり思っていたのだが、手刈りの場合4,5年で、機械刈りの場合2年くらいで植え替えを行うそうである。機械刈りの場合は刈り取る際に根に負担を掛けるので、長持ちしないそうである。Img_3075 Img_3077
道路上に散乱するキビと植え付け中のキビ畑



 徳之島はやはり琉球文化圏である。島津藩により宗教的なものは強烈な弾圧を受けたが細々と生き残り、持ち込まれ、強制された仏教や神道は見事に拒否された。民俗的な行事や葬制など琉球文化に由来するものが多いが、現在はその総てにおいて琉球色が消えつつあるように思える。沖縄の象徴であるシーサーは私が見つけた限りでは1件のみであった。
石敢當は西海岸に多く見られたが、「石散當」であったり、ついには「石當散」になっているものもあった。意味は同じようなものだから、まいいか。Img_3010
 3日間滞在した徳之島を去ることとなる。奄美諸島はジャガイモの最盛期で、その積み込みのため毎日フェリーは遅れている。明日の朝は本土、九州に到着する。南西諸島はいくら居ても飽きないところだ。
 
 走行距離 78Km    累計 6、968Km   経費29,770円

★民宿内田荘 徳之島町亀徳 5,000円(一泊2食付き)料理が多くて食べきれない。
 洗濯などもしてもらって恐縮至極。

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洞穴墓を探す 3/7

2007-03-11 | 旅行記

 2007.3.7(水)曇り時々雨
 6:45 起床 
13:20 民宿内田荘発~神の嶺海水浴場~県道80号線~井之川~母間(ぼま)~
里久浜~県道80号線~県道617号線~旭が丘~徳和瀬(とくわせ)ナーバマ~なごみの岬公園~
17:30 民宿内田荘着

 今日は早起きして島内北部を廻り、夕方の便で鹿児島に渡るべく準備をしていたのだが、朝目を覚ますと、強烈な雨の音、柔な神経は一気に萎縮する。「おかあさん、もう一泊頼みます」というわけで、昨日買った「奄美の債務奴隷ヤンチュ」を読むこととする。沖縄ではいわゆる沖縄本という沖縄関連書物に驚かせられるが、奄美もどうしてしっかり奄美本が有るのだ。これは島唄の存在に相饗するものがある。本というものは骨董品と同じでその品物が「私を買ってくれ」と叫んでいるのだ。そうなると値段は二の次で、買うか買わないかの意志の問題となる。私が一番勇気が要った本はガッシャブルムⅣ峰の登山記で30年ほど前の売値で7,000円である。神田の専門店の値段は20,000円だから買い得なのかも知れないが勇気は必要だった。買った後その本を読んでいないのは、私自身一体何だったのか、反省すべき事である。話は横にはずれてしまったが、奄美の債務奴隷云ヤンチュは私の今最も知りたい部分を赤裸々に表しているようである。具志頭の民俗資料館にその地方の債務奴隷(なんと言われているのか気にとめなかった)についての表記があった。2,000円の高価な本を思わず買ってしまう何かがあった。
 雨は断続的に降っている。読書には最高だ。ヤンチュ(家人)は奄美群島における債務奴隷、いわゆる借金、現実には納税の不足分を借りたが為の隷属である。島津藩による「換糖上納制」と「砂糖の総買い入れ制度」によって生み出された債務奴隷の数は幕末時において住民の2~3割に達していた。島津藩による非常に狡猾なやり方において、いわゆる島人による島人の管理、収奪という図柄である。納税分に不足する黒糖を、豪農に借りたが故にヤンチュとして隷属することとなる。ヤンチュは黒糖何斤分ということで契約として隷属する。年限を10年とか区切るわけだが、年利が何割というとんでもない利息なので、一生隷属するケースがほとんどである。経済的な債権債務関係なので、被差別に見られるような、身分的差別ではないのだ。債務さえ解消すれば隷属関係は消滅するものであるが、現実にそのようなケースは希である。ヤンチュである限り、人間ではなく物と見なされ、売買の対象にもなるわけである。女性の場合、今で言う性的虐待は日常茶飯事、生まれた子供はその子には債務関係もなにも無いはずなのに、ヤンチュの持ち主、豪農の所有物となるのである。どこかの野蛮国の厚生大臣が「女は子供を産む機械」などとおっしゃったそうだが、まさにそのとおりの世界であったわけだ。この本はヤンチュの生活、事件、実態、各地の解放闘争、他の隷属民などを網羅し、問題点をえぐり出している。
 島津藩の圧政は例えば徳川幕府の税制は六公四民、薩摩藩内七公三民、奄美八公二民といわれているので、当時の生産性から考えて、自分の食べるものはほとんど無い状況だったのである。そのうえ生産はサトウキビのみの単作となっていたから、飢饉や災害時にはたまらない。備蓄食糧は皆無であるから、飢えるしかない。この地方の非常食料といわれ、戦時中にも増産が推奨されたソテツが実は常食であったのだ。ソテツは青酸を含み、うまく処理しないと猛毒となる。ソテツ地獄といわれるのはその所以である。
 島津藩の圧政の中で抵抗の足跡があるのが、母間(ぼかん)騒動と犬田布騒動である。Img_3024 Img_3021
母間の集落と自生しているソテツ





 特に母間騒動は岩手で出逢った「三閉伊一揆」を思い起こすほどの民衆の怒りが沸騰した事件で、島津藩としては最大の反抗運動なのである。今日はこの地を目で見てみたい気持と、昨日以来の徳和瀬のハマオリの浜を見てみたいものである。
 午後になると薄日が射してきた。早速初恋号を駆り、東海岸沿いの道を北上する。ところがハマオリの浜など観光地にもならず、ましてや古い墓地など案内もあるはずもなく、一体どこか解らない。やむなく神之嶺キャンプ場の浜に行く。シーズンなら海水浴客で賑わうだろう美しい浜である。でも私の期待する浜ではない。Img_3012
 県道に合流すると井之川となる。ここは横綱朝潮太郎、喜劇人八波むと志の生誕の地である。この小さな集落から偉大な二人が生まれ出た、凄いことである。その横に毒蛇被害消滅祈願の神社がある。毒蛇、ハブのことだろうが、その神社の由来に変なものを感じる。
「花徳前山神社殿を造るよう命ぜられたが区民が反対したため云々」である。毒蛇の被害を消滅させる祈願を誰が反対するのだろう。否、毒蛇被害祈願に反対したのではなく、神社そのものに反対したのではないか。それは次の安住寺の命運も同様である。従来仏教も神道も存在しない、祖先崇拝、自然崇拝の島に島津藩は無理矢理仏教を導入した。しかし島人はそれを拒否し、安住寺は八年の短期間で亀津に移転せざるを得なかった。その後も檀家は集まらず、寺が流浪したそうである。現在も仏教は定着していない、それは沖縄と同様の状態であるが、ノロ、ユタという琉球文化に由来する宗教も島津藩による徹底的な弾圧で消滅させられた。島津時代には経済的にも宗教的にも収奪されたのである。Img_3017 Img_3014 Img_3013





左:朝潮の像  中:毒蛇避け八幡社 右:安住寺跡地に建つ看板

 奄美大島に通っている際に、飲み屋の女将さんが「私たちは鹿児島県民でも沖縄県民でも無いのよ。奄美県人なのよ。」と言っていた。もし私が奄美群島に生まれていたら、自分が鹿児島県人であることは許せない。そして一番みんなに知って欲しいことは、日本の夜明け、明治の国家建設の最も基本的な財政の一翼を担っていたのは非人間的な生活を強いられ、多くの命さえうばわれた奄美群島の人々であったことである。
 様々の碑が好きな島の人なら島津藩を最大に苦しめた快挙、母間騒動の碑は必ず有るだろうと母間を訪れた。三閉伊一揆など資料館まで建てて居るんだぞ。母間には母間郵便局発祥の碑というすこぶる立派な碑があったが、母間騒動があまりに偉大なだけに陳腐としか写らなかった。朝潮より八波むと志より泉重千代より本郷かまとより泉芳郎(だれだこれ)より高橋尚子より最も徳之島島人として誇らしい人々、母門騒動の人々をたたえないのだ。近代日本の本当の礎であった、日の当たらない人達だったのじゃないか。
 久里浜で折り返す。なんとしても徳和瀬のナーバマ(ハマオリの浜)が見たくて、郵便局で聞いてみる。若い方だったためか解らないということで、商店を紹介してもらう。そこに行くと、孫を抱いたおばあさんとその息子らしい方がいる。「徳和瀬のハマオリの浜を教えてください」というと、息子の方はどうもよく解らないらしい。おばあさんにあそこの場所だといわれ納得、地図に書いてくれる。行事があれば中心になるべき年齢の息子さんがよく解ってないのは、ちょっと意外である。それでもおばあさんに教えてもらい、地図を書いてくれた。「左手にお墓がありますから、そこを浜に降りてください」予想通りだ。新墓があって、その辺に洞穴墓があるのだ。ハマオリはその洞穴墓の前で行われるという。ドキドキしながら浜に降りる。神之嶺浜同様美しい景色なのだが、どうも資料館で見た絵図と一致しない。しかもすぐそこには廃棄物の処理場があって廃棄物が山積みされ、処理の音がゴウゴウと響いている。村にとって神聖な場所ならば、いくら私有地であっても廃棄場にはしないだろう。新墓の付近は洞穴墓となるような場所ではない。空き缶やゴミのこの浜が、先祖を敬い、五穀豊穣を祈念しハマオリオヤドリなどが厳格に決められている浜なのだろうか。一応洞穴墓があってもいいような岩場がある。しかしいつものゾクッとする感じがしないのだ。勝手に思いこんでいるおまえが悪いのか。徳之島、残念だけど只算の香りがする。Img_3034 Img_3036
洞穴墓があるとしたら、このあたりか。右は浜に降りる道
この上に新墓があるが、洞穴墓があるような地形ではない。

 

走行距離 36Km    累計 6、890Km   経費969円

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犬の門蓋 3/6

2007-03-11 | 旅行記

 2007.3.6(火)曇り時々雨
 7:45 起床 
 9:30 民宿内田荘発~県道80号線~伊仙町歴史民俗資料館~県道83号線~
天城町平土野~犬の門蓋(いんのじょうぶた)~県道83号線~県道617号線~
16:30 民宿内田荘着

 朝になっても鉛色の空が重しのようにのしかかっている。トロピカルな海を求めてきたわけじゃなし、まいいか、てんでスタートする。頼りは港でもらった観光パンフのみ。徳之島は徳之島町、伊仙町、天城町の3町で成り立っている。周囲80数キロの島、町村合併の今日この頃ならひとつの町でいいと思うのだが、なかなかうまくいかないようだ。離島になればなるほど、良きにつけ悪しきにつけポリシーが強烈である様に思う。そこには思想的なものだけでなく、経済的というか利権というかお金の問題があることも否めないようだ。事ほど左様にこの島においても主要産業は土木の様である。土木建築会社の社屋は町役場よりも立派な御殿である。県道を走る車はダンプ、サトウキビ運搬車、その他の順であるる
 徳之島と言えば闘牛である。ウィークディとあって開催は無いが、途中に銅像があった。
かつての横綱かなんかの像らしい。夕方にはトレーニングの牛が道路に出てくるので注意の看板もある。見れば舗道上に牛の糞があちこち見られる。犬や猫のように小さくないので処理出来ないのだろうか。観光行政としては最低である。大体沖縄や奄美の闘牛は公営ギャンブルと思っていた。ところが私的なギャンブルでやくざの資金源になっているということで、すっかり興ざめ、公営ならいいってもんでもないけどね。うんこぐらい始末しろよな。Img_2984_1 Img_2985_1

闘牛の像と歩道上の牛の糞



 伊仙町の歴史民族資料館に行く。無料の小さな資料館だが凄い資料がある。弥生時代の完全な人骨(実物)があるのだ。そして、遺跡地図には風葬の跡2カ所、グスク跡2カ所、岩穴墓数カ所、旧日本軍慰霊地2カ所などの表示がある。沖縄同様風葬の文化がこの地にもあるのだ。この地の墓は内地と同様の石塔の墓で、沖縄のものとは全然違う。従って風葬などの習慣は無いのかなと思っていたのだが、、、、。
 徳之島の文化は複雑である。琉球の文化、大和の文化、その中間にあって両文化に影響を受けながらも頑迷に拒否している、頑固さが有るのだ。例えば風葬の習慣に対し明治政府は衛生的な見地から土葬にするよう指導したのだが、あっさり土葬もしくは火葬になっている沖縄に比しこの地では土葬にするも3,5,7年目を選んで遺骨を掘り起こし、潮水や酒で清めて壺に入れ再度埋葬する改葬を行っているのである。これは徳之島で約3分の2地域で行われ、その他の地域でも土葬のために墓を掘り起こした際に出てくる遺骨を同様に壺に収めて居るそうである。2004年出版の徳之島の民俗(松山光秀著)では火葬をするのは本土からの移住者のみで島のものはしないと記されている。Img_2991

弥生時代の人骨、本物



 徳之島における墓制の発展は、風葬の場である洞穴墓「フッキョオ」特に断崖をその地とした様である。これは「ハンタ」と言い、断崖あるいは境を意味した。旧暦7月に行われるハマオリ行事は「ナーバマ」という浜を舞台に行われる。ハンタに先祖の洞穴墓があり、その下のナーバマで行われる五穀豊穣、先祖崇拝の儀式といえよう。次はトウル墓という横穴式墓で、これは自然の横穴ではなく人工のものを意味するようだ。次はモーヤといわれる、死体安置の小屋を置いたものである。その後は土葬、あるいは火葬になるわけだが、これは沖縄の墓制とほぼ同一ではないか。徳之島には沖縄に見られる破風墓もましてや亀甲墓も存在しない。しかし墓制と言う意味では同じ系列のものと言ってよいのではないか。八重竿(伊仙町)の付近に石塔の後ろに家型の墓があるのが見られた。これは想像するに洗骨後の遺骨を納めたものであろうか。
 西阿木名付近トモリというところの風葬跡はどこだか解らなかった。当然である、観光地ならともかく風葬地を案内することも無いだろう。しかし明眠の森というところには岩穴墓があるということであったが、結局見つからなかった。
 時々雨の降る暗い道のりを平土野まで来てしまった。目的とするものは何も見られなかった。犬の門蓋だけは見てみたいと、道を引き返し、サトウキビ畑の中を走る。頼りない看板を目印にやっとたどり着く。凄い、こんな波見たこと無い。折からの大時化で恐ろしい波が岩壁を洗っている。冬の日本海でもこんなのは見られない。犬の門蓋はかつて飢饉の時に野犬が増え、人畜に危害を及ぼしたので、つかまえてこの地から海に投げたそうである。どんな犬でもこの海では成仏するしかない。一人で居ると波と風の音で気持ち悪くなってくる。とその時人の声、団体さんがやってきた。興ざめというより、救われた感がした。めがね岩は自然が造った造形とはいえ、芸術的といえる岩のゲートである。その向こうに白い波が打ち寄せてより効果的な画面となっている。団体客が居なくなるのを待ってシャッターをきった。Img_3009 Img_3002 Img_2999






左:全景  中:めがね岩  右:もの凄い波

 帰り道は西阿木名までサトウキビ畑の農道を通る。かつては徳之島では稲作が中心であったそうだが、現金化の容易なサトウキビに転換する農政が行われたという。近年の減反政策が追い打ちを掛け、遂に水田は消滅してしまった。私どもが小学校の頃は二期作、二毛作などと習っていた地域である。各地に残る民俗的な行事や儀礼、風俗、習慣は稲作を基本に形成されたものが多い。稲作の消滅と共にこれらが消え去っているのが現実である。
 夕食をとりながら宿の女将に、聞いてみる。「島の人は火葬にしないって本当ですか?」
「いえ、徳之島町ではほとんど火葬ですよ。何年か前に遺言で土葬にした人がありましたが。」「改葬のことが本に載ってましたけど」「それは伊仙町のことでないですか」なるほど地域によってかなり差があるようだ。「いずれにしてもこの島の人はお墓を大事にしますねえ」「5,15日と節句には必ずお参りします」「ハマオリという行事があるそうですがどんな行事なんですか」「昔は浜で3日間掛けてやっていましたが、亀徳では浜が無くなり、近所の公園でやっています、今はかなり省略されているようです」
 明日は徳和瀬の浜に行ってみよう。

走行距離 72Km    累計 6、854Km   経費473円

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長寿国は今 3/5

2007-03-11 | 旅行記

 2007.3.5(月)雨のち曇り
 5:00 起床 
 6:00 東横イン美栄橋駅前発~7:00那覇港~17:10亀徳港着~
17:50 民宿内田荘着~夕食

 まだ、真っ暗な雨の街を出発する。那覇港までの経路を昨日下見しておいてよかった。
海は時化で和泊港(沖永良部島)などは条件付の乗船となっている。着岸できないことがあるということだ。あまりに揺れるので、一応酔い止めの薬を飲んでおく。
 揺れる船内で日本人の魂の原郷・沖縄久高島(比嘉康雄著)を読み終える。その中でイザイホーが1978年まで行われていたこと、つまり今では書物の中でしか存在しないことがわかった。沖縄の妖怪ヒジムナーのことをお話ししよう。ヒジムナーは沖縄各地に居り、妖怪というよりは遠野村の河童のようないたずら好きの生き物という感じである。伊平屋島のシンボルにアカカナジャーというのがいて、これは赤い髪という意味だそうだ。キジムナーも赤い髪をしており、両者は同一のものである。ヒジムナーは赤土を食べ、火を使い、アコウの木に住み、漁り漁をするという。いたずらをして懲らしめられたり、開発によって住処が無くなったり、やんちゃ坊主といった妖怪である。Img_2981 Img_2982


船上から本部半島と伊江島


 沖縄を去るに当たって最近の沖縄の新聞から沖縄の一面を紹介しよう。それはウチナーンチュの健康問題である。各地に県の「ウチナーンチュの肥満を無くそう」という啓蒙ポスターが貼られている。沖縄は長寿、健康で有名となっているが、その理由はやはり食生活である。昆布の消費が日本一とか豚の消費とかゴーヤなどの高ビタミン野菜など沖縄独特の料理、調理がもてはやされているが、旧来の食生活が崩れてきているそうだ。確かに那覇やその周辺の都市部ではジャンクフードの店が軒並みである。その上沖縄は大の自動車社会で、近所にタバコを買いに行くのも車、学生でも2,3人寄ればタクシーに乗るという世界だそうだ。自転車は普及して居らず、モノレール駅での駐輪問題など起きそうにもない。沖縄での半月間で自転車屋を見たのは一軒だけで、しかも休みであった。そんな状況で肥満が急増しているそうである。確かに街で見かける若い人は肥満が多く感じる。
 さて沖縄タイムス(3月4日)では三大疾病による死亡率の記事があり、ガン、心臓病、脳卒中とも沖縄県が最も低い事を報じている。これは沖縄タイム、なんくるないさ精神などによるストレスの少なさが大きな要因とも言っている。逆に肝疾患、慢性閉塞性肺疾患の死亡率が全国トップクラスということだ。これは飲酒、喫煙、運動不足等が原因ではないかと投げかけている。現在の若者が高齢になったとき、現在の死亡率を維持するのは困難だろう。
 同日の論壇で、自転車に乗って健康に、車社会からの脱却必要という記事も載っていた。
沖縄県は2000年から肥満者割合が全国一なのだそうだ。そこで環境にも健康にもいい自転車文化を導入して、自動車依存を脱却しようという論文である。
 県民の健康問題にいかにして取り組むかが沖縄県の喫緊の課題であろう。
沖縄県の他の特徴は、一人あたり所得が全国一低い、県外からの移入者の率が最も高い、出生率が高いなどが上げられるが、ストレス溜めて高所得を得るよりも、貧しくとものんびり暮らせる社会の方が私は好きだ。
 相変わらず船は揺れ続け、阿波根昌鴻氏の「米軍と農民」を読み始める。伊江島の土地問題に関する農民の戦いの記録だ。沖縄人がこれほど自らの意志を表に出し、戦ったことは無いのではないか。読破するに至らなかったけれど、命のかかった闘争であることがうかがわれる。

走行距離 10Km    累計 6、854Km   経費14,197円

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りっかりっか湯 3/4

2007-03-11 | 旅行記

 2007.3.4(日)快晴
 7:45 起床 
10:10 春海YH発~旧日本海軍司令部壕~りっかりっか湯~
15:30 東横イン美栄橋駅前着

 那覇に着いて、八重山に行くべきか、九州に行くべきか決めなければいけない。当初は八重山に行く予定だったのだが、時期が遅くなった関係で止めようかと思う。卒業旅行を
初めとして来島者がぐんと増えている。今までシーズンオフばかりの行程であったのでどうもしっくりいかないのだ。それにもう沖縄に半月以上居る。すこし飽きてきたのも実情。
いきなり鹿児島に帰らず、徳之島に寄る予定にする。
 今日は休養とブログの作成を兼ねてゆっくりする。那覇で行きたいところは首里城でも国際通りでもない、旧海軍司令部壕なのだ。本当は県立博物館なのだが、新築改装のため今年秋まで休館ということである。誠に残念。旧海軍壕は那覇市ではなく豊見城市(とみぐすくし)にあるが、宿から自転車なら30分ぐらいで行ける。35年前にも訪れているのだが、その時の印象があまりに強烈だったので再度訪れてみたくなったのだ。小禄(おろく)の飛行場を守備していたのだが、米軍の上陸によって司令官の大田少将が自決するという最期を迎えた壕である。この狭い壕内に4,000名もの軍人が居たとは信じられない。最初に訪れたときは壕のみの公開であったが、今は資料館などの建物もでき、沖縄戦の内容を写真等でみることができる。Img_2975 Img_2970 Img_2972





左:資料館 中:作戦室であったろうか、壁の穴は自決の際の手榴弾の跡
右:通路は一般の兵隊の居場所

 那覇に帰ると那覇で唯一の温泉、ゆんたく、あしび温泉りっかりっか湯に行く。沖映通りと国際通りが交差する手前、三越デパートの裏手にある。日曜日とあって入場料は1,200円、えらい高いが、沖縄では珍しい温泉である(日祝以外は950円)。サウナやバブルジェットなどいろいろな湯船があるが温泉は一カ所だけである。お湯は加温、循環式でコーヒー色のお湯である。長万部温泉が丁度このような色をしていたが、ここのお湯には成分表が無く、パンフレットにも載っていない。ゆんたくあしびはおしゃべりしながら、りっかりっかとはみんなで一緒に行こうと言う意味だそうだ。Img_2980
沖縄には温泉がないと言われているが、私の入った三つのお湯の他に以前から有名な山田温泉と西表島にいい温泉があるということだ。私が入った中では断然中之湯がいちおしである。夕方はテレビで女子ゴルフを見ながら、ブログを作成する。明日は荒天が予想されているが、徳之島へ渡ることとする。

走行距離 40Km    累計 6、844Km   経費10,458円

★東横イン 那覇美栄橋駅前 4,095円 他店との差を意識しているのがいい。
 日曜日のサービスはありがたい。

★ゆんたくあしび温泉りっかりっか湯 那覇市内 950円(日祝1,200円)
 ナトリウム塩化物泉(弱アルカリ低張性低温泉) 源泉26.6度 循環加温

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本島一周 3/3

2007-03-04 | 旅行記

 2007.3.3(土)曇り時々雨
 7:40 起床 
 9:45 民宿おおじま発~琉球ゴルフ倶楽部往復
11:00 民宿おおじま発~観音堂~R331~玉泉洞~R331~八重瀬町歴史民俗資料館~R331~県道250号線~県道77号線~幸地腹門中墓(糸満市)~R331
~R58~
16:30 春海YH着(那覇市)

 朝からラジオ、テレビは藍ちゃんで持ちきり、様子を聴きながら準備をする。さあ荷造りというところで大変なことに気付く。荷物の固定に使っているフック付のゴムバンドが無いのだ。昨日ゴルフ観戦にいった際に、往路はザックを荷台に固定して行ったのだ。ところが帰りは下りばかりなので背負って帰ったのである。あの木の下に忘れたに違いない。
たかがゴムバンドなんだが、これがないと荷作りが出来ない。またあの坂道を往復するのはぞっとするが、それでも無かったらどうしよう。バイクショップはそこからまた5Km程の大里にあるという。祈る思いで昨日の坂を漕ぐ。昨日と同じように雨が降ってきた。
最悪。土曜日とあって観戦の車がひっきりなしだ。やっとこさゴルフ場について、昨日の大木の下に行ってみる、無い、無いぞー。草の中や気の茂みを見るが、見あたらない。冷や汗が出てくる、焦ってはいかん、落ち着かなくては、、、、、。よく考えてみたら最初木の北側に置いて、雨が当たらないように南側に移動したのだ。北側に行けばもしかしたら、と思い行ってみる。有ったー、嬉しい。喜び勇んで宿に帰る途中、しっかり雨が降ってきた。雨宿りをしながら、今日はどうするかなーと迷う。雨に当たるぐらいなら連泊して本でも読んでいたら、、、などと弱気になる。宿でコーヒーを頂いている間に雨は上がった。
空は暗いけど、行くぞ、宿には申し訳ないけどもう一泊する気はしないのだ。
 今日島でお葬式がある。午後の出棺だそうで、実は沖縄の葬式って見てみたい気もするのだが、そのために一泊するのもどうかと思う。宿のおばあに沖縄の葬式ってどんなだか聞く。勿論お坊さんは居ない、仏教でないのだから。村中の人(ここでは島中の人)が寄って、昔からのしきたりで式を取り仕切るということだ。
 宿を出て奥武島観音堂に行く。昔蘇州の船が難破し、島民が世話をした謝礼に建てたという説話がある。殿(トウン)が隣にあり島人の信仰も篤いようである。Img_2941
 国道を少し行くと「おきなわワールド」の看板がある。テーマパークかなと思いいくつかやり過ごす。最後の所で看板の端に玉泉洞の文字がある。玉泉洞には行ってみたかったのだ。案内を頼りにたどり着くと、駐車場にもの凄い数の車が留まっている。止めとこかなと思うが、もしかして凄い鍾乳洞だったら悔やまれる。勇気を出して列に並び値段を聞いてまた止めようかなと思う。1,200円である、那覇なら一泊出来る値段だ。「きゃーすごい」などとのたまうお嬢達と入洞する。一体何が凄いのだ、ばかばかしい。洞内は妙に暑くて湿気が高い。鍾乳洞ってたいがい寒くて仕方がないのに、ここは空調しているのかと疑う。階段や通路は完璧に整備されていて、お年寄りでも子供でも大丈夫だ。東洋一といわれているが、一体何が東洋一なのか解らない。長さか、広さか、それともなにかか。鍾乳石は流石に立派である。東北の鍾乳洞のような冒険的要素は無いが、発見者の苦労というか冒険は凄いものが有るかと思う。愛媛大学の探検部が昭和42年に発見したそうである。
Img_2950Img_2947_1Img_2952




左:目のある魚  中:新洞入口  右:イルミネーション

 洞内の水流に魚が泳いでいる。よくみるとしっかり目玉が有るではないか。  周りが人工的 な照明で明るいから、退化した目玉が再度発達したのだろうか。どうもいかがわしい。そのうち、鍾乳石がイルミネーションで飾られているところが出てきた。哀しくなってしまう。愛媛大の探検部に見せてやりたい。最後は地下鉄から上がるみたいな長いエスカレーターに導かれ地上へ出る。そしてここから駐車場へ戻るのが大変なのだ。これでもか、これでもかというほど土産物屋、ビール工房、ガラス工房、民具、ハブ関連etcを通らされる。沖縄学入門に、「沖縄人は商売が下手」とあったがどうしてどうしてしっかりしたはります。いや、ここの経営者はヤマトンチュかもしれない。あの、金剛林山と同じ会社であった。ちなみに洞内の気温について質問したら、自然のままであるということだ。外に出たら涼しく感じたので、おそらく25度前後あるのではないか。湿度は80%ということであった。また、東洋一というのは鍾乳石や石筍の数ということである。Img_2946_1
いやはやおそれ入谷の鬼子母神。

これが東洋一だ。


 玉泉洞から1Km程西に行った農道で妙な看板を見つける。「ガラビ壕の入壕者へ注意」とし、落盤の危険性があるから自己責任で入ってくれという注意と、壕の見取り図が載っている。自然の洞窟(ガマという)が戦時中に病院壕として使われたようだ。おまけに風葬の跡という箇所も二カ所有る。私有地であり云々と書かれているので、照明や通路の整備は勿論有ろうはずもない、しかも落盤の危険があるという。かつての風葬の跡であり、戦時中には多くの傷病兵が死んでいった壕に一体誰が入るのだろう。それでも洞窟オタクの私としては入口だけでも見てみたい気がする。看板の有るところの細い道を登って行くとお墓があり、その横に「私有地のため立ち入り禁止、ガラビ洞所有者」と立て看板がある。がっくりくるよりほっとした。Img_2959 Img_2960

ガラビ洞に関する看板と立ち入り禁止の看板


 八重瀬町の具志頭(グシチャン)に民俗資料館がある。ここならガラビ洞の資料があるのではと思い入館する。この地は港川人の発掘で有名なところだ。教科書で習っても、その地に行かないと理解できないことがよく解った。ガラビ洞についても詳しい説明があり、
戦時中には病院壕として使われており、ひめゆり部隊同様女子学生が看護婦として動員されており白梅部隊と呼ばれていたそうだ。当時の悲惨な状況が証言されているが、ここ以外にも沢山のガマがあり、戦争に使用されていたようだ。資料館には葬制、墓制に関する資料は無く、ガラビ洞の風葬跡の説明も見あたらなかった。
 資料館に入っている間スコールがあったようで、鉄筋の建物でも凄い音がしていた。出てくると小降りになっていたので出発する。ここから国道331号沿いは平和記念堂、平和記念公園、健児の塔、ひめゆりの塔、平和の塔と鎮魂と平和祈念の設備が続く。以前に訪れたということもあるが、今日あたり観光客がキャピキャピ騒いでいるのかと思うと訪ねる気はしなくなり、糸満へ直行する県道を行く。
 観光道路から離れると住民の生活がよく見える。この間は珊瑚の岩石を掘り起こすなんとか鉱業という会社が連立し、白い岩石が山積みされている。そういえば沖縄では建築材料にその岩が多く使われている。港川人の化石もそのような岩から発見されたそうである。
 あっという間に糸満に着き、幸地腹門中(コウチバラムンチュウ)の墓を訪ねる。沖縄最大の門中墓で、幸地腹と赤比儀(アカヒジ)腹の共同墓で5,500体の遺骨が納められている。なお、この墓の面積は1,600坪と言うことである。Img_2966Img_2963 

門中墓入口と本墓(トーシー)全体は写真に入らない。


 糸満から那覇は一走り、今日はユースホステルに泊まることとする。那覇はゲストハウスの激戦区で一泊1,000円を切るものも出てきているそうである。安ければいいというものでもなく、YHはYHの良さがあると思う。2月16日から15日かかって本島を一周した。

走行距離 50Km    累計 6、804Km   経費10,660円

★シティフロント春海ユースホステル(那覇市泊)一泊朝食付き3,780円
 国際通り、おもろまちに近く便利、設備も整って快適。

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レディストーナメント開幕戦 3/2

2007-03-04 | 旅行記

 2007.3.2(金)曇り時々雨
 7:00 起床 
 8:10 民宿おおじま発~琉球ゴルフ倶楽部ダイキンオーキッドレディスゴルフトーナメント初日観戦~
17:00 民宿おおじま着

 長く永く旅を続けているとゴルフトーナメントに出逢うことがある。昨年の夏は新潟県でやはり女子のトーナメントだったと思うが開催されていた。今回は開幕戦でもあり、宮里、横峯、大山の三巨頭が同じ組でまわるという滅多にない日なので観戦することとする。最初は晴れと言っていた天気も曇りの予報になり、出発時にはポツポツ降ってきた。ゴルフ場まではえらい坂なので合羽を着ても汗で濡れる。駐車場は会場入り口から遠く、送迎バスが往復している。歩くと20分もかかるそうで、会場まで乗り付けることとする。整理のスタッフは怪訝な顔をしていたが、入口脇のガジュマルの大木の所に自転車を置かせてもらう。自転車で観戦に来るとは想定外であったようだ。Img_2934 入場するとすぐに1番ホールのグリーンに陣取り藍ちゃんの組を待つ、ちょっと遅刻なので5組米山みどりや山口裕子がパットをしていた。かなり難しいグリーンのようだ。森口、大場、馬場、茂木、城戸、服部、天沼、高、北田、藤野、上原、上田、諸見里、古閑、不動などテレビでしか見られなかった選手が続々と登場し、いよいよ藍ちゃんの組が来る。ギャラリーも知らない間にふくれあがっている。七割はこの組が引き連れているのではないか。結局三人ともパーに終わり、以後はこの組に着いて廻り、ミーハーに徹することとする。Img_2935

撮影禁止なので、遠くからギャラリーの様子を。


 初日とあって鬼気迫るようなプレーもなく、どちらかと言えば三人とも絶好調というわけでなく、淡々とというか我慢のというかまあまあのプレーで18ホールが終わった。後の組を観戦したかったのだが、また雨が降り出したので帰ることとする。出口はバスを待つ長蛇の列、横目にスイスイ、ゴルフ観戦は自転車に限る。Img_2939

終了後バスに並ぶギャラリー達

 島に帰ると、ボリュームで噂の奥武島漁業食堂に行く、安くて旨い、沖縄で食した中では一番である。奥武島はこれと言ってお勧めのものは無いが食べ物だけは美味しい。Img_2943

走行距離 10Km    累計 6、754Km   経費2,380円

★民宿 おおじま (南城市玉城奥武)素泊まり2,000円 おじいもおばあも親切な方で安くていいが、設備はかなり古い。食べ物は廻りに美味しいところがある。

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MMペアに会う 3/1

2007-03-04 | 旅行記

 2007.3.1(木)晴
 8:00 起床 
10:10 小やど さわ発~久高逍遙~徳仁港(久高島)11:00~安座真港11:20~R331~斎場御嶽(せーふぁうたき)~垣花樋井(かきのはなひーじゃー)~
琉球ゴルフ倶楽部~奥武島(おうじま)
15:00 民宿おおじま着~琉球ゴルフ倶楽部往復

 久高島で是非見ておかねばならないものがあったので、出発までに見に行く。久高殿、外間殿である。祭祀の場といえば単純なのだが、ノロ制度の歴史から見てみないとよく理解できない。内地の大きな宗教的建造物なら眺めるだけで完結するのだが、御嶽(ウタキ)がただの広場であるのと同様、殿(トウン)もただの村の集会場の様な建物なのである。
琉球王朝の時代に各間切(町村のようなもの)や各島々に官制の女性神職者を置いたのである。これがノロであり、祭政一致の支配を行っていたわけだが、久高島については始祖家が二つあり、(外間根家とタルガナー家)公式のノロを外間ノロとし、シマノロ(非公式なノロ)を久高ノロとしたのである。そしてそれぞれの祭祀場として外間殿(フカマトウン)と久高殿があるわけだ。
  各殿の傍らにバイカン小屋というイラブー(エラブウミヘビ)を薫製する小屋がある。
イラブーは強精強壮の食べ物として珍重され、沖縄の特産品であるが、ここ久高島では、イラブー漁は久高ノロ家、外間ノロ家、外間根家のみ許された特権なのである。バイカン小屋の前を通ると香ばしい薫製の臭いがする。私も一度粉状のものを買ったことがあるが最後まで食するに至らなかった。Img_2888 Img_2895

久高殿と外間殿、久高殿の左にバイカン小屋が見える。


 最後にピザ浜という東海岸の浜を訪れ、久高島を去ることとなった。沖縄の原点と言うべき祭祀や伝統が残り、柳田国男はじめ多くの民俗学者が通い詰めた久高島も、神職に欠員が出、伝統行事も簡素化されているという。12年ごとに行われる主要な祭りイザイホーは今でも行われているのだろうか。経済の発展、社会の変革が伝統行事の崩壊に繋がっている今日、豊かさとは一体何なのか見つめ直さなくてはいけない。なお、イラブー漁の独占も今日では崩壊しているようである。
 沖縄本島に戻り、沖縄最大の御嶽斎場御嶽にゆく。世界遺産登録ということで、多くの観光客が訪ねている。首里城と同じ名称を使って権威のある御嶽のようである。今までの
何でもない広場と少し趣向が違う。大庫理では老女が一人祈りを捧げている。有名な三庫理(サングーイ)に行く三角岩は荘厳な雰囲気がするところである。森が窓のようにぽっかり空いて、その中に久高島が見えるのは何かの意図があるのだろうか。各拝所への通路は敷石が詰められ、南国の森の中を神女が列をなす姿が彷彿される。
Img_2908Img_2911Img_2912




左:大庫理  中:三角岩  右:三庫理から久高島が望まれる。
  寄満(ユインチ)に行く手前に直径10m程の水たまり状の池がある。説明はないが砲弾池と表示がある。戦時中に被弾した跡なのだろう、沖縄ではどんなところにも戦争の遺物が残っている。Img_2916


砲弾池

 沖縄には多くの井(カー)があり、水が湧いているのだが水量が少ないのか、維持管理が悪いのか、ちょっと飲む気にはならない。ところが南城市の垣花樋井(カキノハヒージャー)は名水百選にも選ばれているというので急坂を登って行ってみる。立派な石畳を100m程降りてゆくと澄んだ水が石灰岩の中からと樋から豊富に出ている。下には池となって溜まっている。名水百選も沢山訪れたがこれほど見事な景色は初めてだ。早速樋の水を賞味する。癖もなくおいしい水なんだが、冷たくない。残念な気持になる。坂を上り返す、川の坂(カービラー)といい、途中に中休みの石(ナカユクイイシ)上休みの平石(イーユクイイシヌヒライサー)というのがあり、戦前水汲みの女性が休んだと言うことである。Img_2922 Img_2924 Img_2927
イキガンガー(男の川)とイナグンガー(女の川) 右は上休みの平石

 県道を南下するとダイキンオーキッドののぼりが増えてくる。明日から3日間女子プロの開幕戦が行われるのだ。ゴルフ場にはいると報道関係、準備のスタッフ、送迎のタクシーなどで大賑わい、沖縄に来て以来トラック以外は錆び錆びの車や軽自動車ばかりが目に付いたがここは大型の美しい乗用車の世界である。自転車のままロビーに横付けし、フロントに行くのは結構勇気が要る。前売りだと1,300円、当日だと2,000円ということで前売りを買ってしまう。近くに宿を探すが、何もなくて奥武島(オウジマ)まで下って宿を探す。大山志保、横峯さくら、宮里藍の人気組は10時27分スタートだ。初戦とあって著名選手が総出場だ。明日はミーハーで行ってみよう。Img_2933

琉球ゴルフ倶楽部入口

 奥武島で宿を探しながら島を一周して、橋の所まで戻ってきたとき、またしても「おはらさーん」の呼び声がする。振り向くと北谷のネコハウスに逗留中のMMペアではないか。なつかしいねえ2週間ぶり、「よくわかったなー」と言うと、「その米軍放出のバッグですよ」なるほど。腹ぺこなので近況を報告しながら、みなと屋の天ぷらを食べる。いつも行列が出来るだけあって安くて旨い。それにしてもうまく会えたなあ。Img_2932

みなと屋に並んでもらってる間におにぎりとビールを買う。

走行距離 40Km    累計 6、744Km   経費2,810円

★小民宿 さわ(南城市久高島)素泊り3,000円 島に数軒ある民宿の内一軒で二部屋のこじんまりした民宿。トイレ、シャワーなど共同だが新しくて新鮮。

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魂の島久高島 2/28

2007-03-04 | 旅行記

 2007.2.28(水)晴
 8:00 起床 
  9:45 ゴーヤ荘発~R330~R329~与那原(よなばる)~R329~安座真港(あざまこう)(南城市)14:00~徳仁港(とくじんこう)(久高島)14:20~
15:00 小やど さわ着~久高島逍遙

 沖縄では気温のせいかゆっくりしてしまう。昨年のように早くも起きないし、あわてて準備もしない。走る距離が短いせいもあるが、どこでも泊まれるところがあるからかも知れない。なんくるないさのてーげー精神かも知れない。コザから与那原まで車が多く、特にダンプが多く走りにくい。歩道は狭くて走りにくい。北部のガラガラ道路に慣れてしまって、やたら疲れる。久々に怒鳴ってしまった。飛び出してくる車、すれすれを走る車、強引に割り込みをする車、この路線はマナーも悪い。途中熱田で熱田マーシリーというのを見つける。Img_2823 文化財と書いてあるのだが一体どうゆうものなのか、てーげーもいいかげんにせいよ。

これが熱田マーシリー、一体何だ。

 12時になると道は嘘のようになる。沖縄ではきっちり昼休みをとるそうだ。
どんな小さな食堂でも必ず座敷の部屋があり、飯食ってごろんと横になったり雑談したり、
内地のサラリーマンみたいに食ったらすぐに出て行くことはないのだ。いくら混んでいてもそうらしい。地獄のような国道が一気にガラガラ天国になる。沖縄に来てからは昼は走り、1時以降に食事をとるようにしている。ところがだ、昨日の博物館同様、港の職員も1時までしっかりお休みである。フェリーはドッグ入りで当面高速艇のみの運航ということだ。果たして自転車は積めるのか、積めないのならさっさと次の所へ行くのだが、、、。
1時に帰ってきた職員に聞くと、タラップを降りられれば大丈夫でしょうというてーげーな返事、でも切符買ってしまえばこっちのもの。今更駄目とは言わせない。てなわけで岡本太郎の沖縄文化論のひとつの舞台、久高島に来てしまった。はっきり言おう、後生(グソー)といわれる風葬とも水葬ともつかない禁断の地を見てみたいのだ。それはどこだか解らない。西海岸、阿旦の森、断崖そして遺体を安置できる場所なのだ。勿論観光案内には載っていないし、村の人に聞く勇気は私にはないのだ。確定は出来なくていいのだ、ひょっとしたらここなんじゃないかな、こんな所なんじゃないかなでいいのだ。久高島が風葬を止めたのは、心ない研究者が洗骨前の死体を公表したことに発するという。それが1967年ということだから昭和42年である。あの奥が火葬を始めたのが昭和16年と言うことであったから、おそらく沖縄最後の風葬であったのではないか。Img_2837_1

西海岸

 伊平屋島に着いた2月20日の沖縄タイムス紙の大弦小弦に岡本太郎のこの書に関する記事が載っていた。聖地御嶽が「空き地」で「何の実体も持っていない」という衝撃的な感動・神秘体験。「何もないことの眩暈」と沖縄文化論で語られたのである。クボー御嶽は男子禁制である。ましてや部外者が立ち入ることは大変なことである。久高島を訪れる人達がこの禁制を守っているだろうか。私は守ることによって、その神に近づけるのではないかと思う。私は無神論者である、入ったからといって祟りだの災いだのは無いと思う。
絶対的な神が本当に存在するならば、沖縄の戦禍はあり得ない。神も先祖も私たちの心の中に実存するのだ。だから私は入らない。そこは神の降臨する神聖な場所だから。Img_2830 Img_2831
 
クボー御嶽の入口、ここから男子禁制。



 グソーは4カ所あるということである。多分ここではないかという箇所を私は見つけたが、それを公表することは何の意味もない。久高の祖先を蹂躙することだけである。私の心の中で、後生を大切にしたい。
 資料館で購入した「日本人の魂の原郷沖縄久高島」比嘉康雄著を読んで、私の探したグソーはとんでもない所で全然違う場所であることがわかった。そしてそのことが私にとって幸いなことであったと思う。グソーはやはり禁断の場所であって、よそ者がみだりに入ったり見たりするところではないのだ。あの西海岸の断崖の中にそういう所があったんだよということで、わたしは充分である。
 カベール岬も重要な場所である。クボー御嶽の少し先から真っ直ぐな土道が続いている。
旧暦の二月の豊漁祈願のヒータチの際にクボー御嶽からカベール岬へ神衣(ウブジン)姿で歩く神女の列の写真がある。これほど鮮烈で神聖なる風景はそうあるものでない。豊漁祈願といえばウンジャミで沖縄北部ではどのでも最も重要な祭祀となっているのだが、中部南部とくるとこれが消えてしまっている。いかなる事なのかいずれ調べてみたい。
 風が吹き荒れ、波が打ち上げる岩礁に一人で立てば鬼気迫る感がする。カベールとは神の原という意味である。寂寥感に打ちひしがれていた私を救ったのは、潮吹きである。岩場には潮吹きとなる部分と完全に潮吹き穴となっている部分があり、波の到来と時間差で吹き上げる。シュシュシュという空気の音と共に潮が一面吹き上がる。内地なら観光名所になるだろう潮吹き穴は誰知られず潮吹きを繰り返している。三陸のそれよりかは吹き上げの高度は足りないが、5,6mは確実だ。しかも近寄って、真上から見られることだ。そんなことどこのガイドにも載ってない、それが無上にうれしい。Img_2854 Img_2853
 

カベール岬とそこへ続く道。


Img_2846Img_2848_2Img_2850




潮吹きとその穴、長年たつと右のようになる。


 帰路は東海岸を行く。シマージ浜、イシキ浜いずれも西海岸の陰鬱さは無い。同じように風は強く、波は高いのだが、この明るさは何なのだ。
 沖縄では終戦後、戦闘機の部品を船や日用雑貨に転用していた。鍋釜もジュラルミンの者が多かったということだ。兜が肥え汲みの柄杓になっていたものもある。久高の畑でそれらしきものを見つけた。水溜に使用されているようだが、戦闘機の燃料タンクのようである。そんなものが現実に使用されているとは、本来なら博物館にでも展示されているはずだが。Img_2860Img_2855 


左:イシキ浜  右:燃料タンクか?


  後で熱田マーシリーというのは城(グスク)であるというのがわかった。そういえば岩の横に石垣が見えていた。畑の石垣かなと思っていたのだが。

走行距離 51Km    累計 6、704Km   経費5,308円

コメント (2)
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