●気持ちが乱れるからエラーをするーー感情特性
夫婦喧嘩した後の車の運転は危ない。なぜなら、気持ちの乱れのほうに注意がとられてしまい、運転がおろそかになるからである。
気持ちの乱れが行動の乱れになるのは、その間に介在する注意資源の配分の乱れがあるからである。次のような流れになる。
気持ちの乱れ 例 怒り
ー>注意配分の乱れ 例 怒りそのものに注意が配分
ー>行動の乱れ 例 頭の働き、手足の動きが乱れる
ー>仕事の乱れ 例 仕事がおろそか
注意は資源である。したがって、限りがある。貴重な資源が仕事以外にとられてしまうのはまずい。
うれしい、楽しいポジティブな感情でも、それが適度なレベルなら仕事の効率を高めるが、それが強すぎると、いわゆる舞い上がった状態になり、仕事が雑になる。緻密さが要求される仕事だとミスが発生してしまう。やっと希望がかなった初デート直前の仕事などは、要警戒である。とはいっても、ネガティブ感情よりは、まだましではあるが。
一方、悲しい、つらいネガティブな感情は、全体的に仕事の効率を低下させる。やるべき水準までできないためのミスが発生してしまう。
したがって、仕事の現場には、感情を持ち込まないほうがよいのだが、それは人間であることをやめよ、というに等しい。
では、どうするか。
当たり前だが極端な方策、しかし、もっと採用してほしい方策は、休んでしまうことである。とりわけ強いネガティブ感情にとらわれている時の危険一杯の仕事をする人にとっては、あってもよい方策だと思う。からだの不調なら休む。それと同じで、心の不調でも休んでもよいはずである。
ただ、「不調」であることを自分で知ることが難しい。不調であればあるほど難しい。注意資源のほとんどが不調な気持ちのほうに取られてしい自分の状態を知るほうに注意が回らないからである。
こんな時は、周囲からの支援が必要である。「今日は調子が悪そうだから、デスクワークにしたら」とか「休んだら」とかの声かけを周囲がしてやれるようなコミュニケーション環境があれば言うことなしである。
ただ、注意すべきことがある。相手の気持ちに配慮するのは、あるいはできるのは、対人関係を良好なものにするには、非常に大切ではあるが、たとえば、昨晩の夫婦喧嘩を引きずっての気持ちの乱れを「どうしたの? なにかあったの?」と問われるのは、「余計なお世話」となりがちである。こうした点への配慮も必要な時があることは、知っておいたほうがよい。
次は、できそうでなかなか難しい方策。
気持ちの自己コントロールである。2つある。
一つは、気持ちの強さを弱めること。強いほど注意資源がそちらにとられてしまうので、気持ちを弱めるのである。
そのための一番有効な方策は、気持ちの強さは、時間とともに弱まるので、仕事の現場に入るまでの時間をできるだけ伸ばすことである。遅出のすすめになる。
もう一つは、気持ちの質を変えること。とりわけ、ネガティブ感情をポジティブ感情に変えようと努力することである。うまくいけば、ネガティブ感情の強さを下げることもできる。
これも、言うはやすいが実行は難しい。とりわけ、これを自分の心の世界だけでやるのは至難の技である。それは宗教的な修練の世界といってもよい。
そこで一つのおすすめは、からだを動かす、あるいは、軽いスポーツをすることである。感情は、自律神経系を経由して身体活動に影響を与えている。そこで、逆に、からだのほうの調子を快適なものにして感情を変えてしまおうというわけである。
夫婦喧嘩した後の車の運転は危ない。なぜなら、気持ちの乱れのほうに注意がとられてしまい、運転がおろそかになるからである。
気持ちの乱れが行動の乱れになるのは、その間に介在する注意資源の配分の乱れがあるからである。次のような流れになる。
気持ちの乱れ 例 怒り
ー>注意配分の乱れ 例 怒りそのものに注意が配分
ー>行動の乱れ 例 頭の働き、手足の動きが乱れる
ー>仕事の乱れ 例 仕事がおろそか
注意は資源である。したがって、限りがある。貴重な資源が仕事以外にとられてしまうのはまずい。
うれしい、楽しいポジティブな感情でも、それが適度なレベルなら仕事の効率を高めるが、それが強すぎると、いわゆる舞い上がった状態になり、仕事が雑になる。緻密さが要求される仕事だとミスが発生してしまう。やっと希望がかなった初デート直前の仕事などは、要警戒である。とはいっても、ネガティブ感情よりは、まだましではあるが。
一方、悲しい、つらいネガティブな感情は、全体的に仕事の効率を低下させる。やるべき水準までできないためのミスが発生してしまう。
したがって、仕事の現場には、感情を持ち込まないほうがよいのだが、それは人間であることをやめよ、というに等しい。
では、どうするか。
当たり前だが極端な方策、しかし、もっと採用してほしい方策は、休んでしまうことである。とりわけ強いネガティブ感情にとらわれている時の危険一杯の仕事をする人にとっては、あってもよい方策だと思う。からだの不調なら休む。それと同じで、心の不調でも休んでもよいはずである。
ただ、「不調」であることを自分で知ることが難しい。不調であればあるほど難しい。注意資源のほとんどが不調な気持ちのほうに取られてしい自分の状態を知るほうに注意が回らないからである。
こんな時は、周囲からの支援が必要である。「今日は調子が悪そうだから、デスクワークにしたら」とか「休んだら」とかの声かけを周囲がしてやれるようなコミュニケーション環境があれば言うことなしである。
ただ、注意すべきことがある。相手の気持ちに配慮するのは、あるいはできるのは、対人関係を良好なものにするには、非常に大切ではあるが、たとえば、昨晩の夫婦喧嘩を引きずっての気持ちの乱れを「どうしたの? なにかあったの?」と問われるのは、「余計なお世話」となりがちである。こうした点への配慮も必要な時があることは、知っておいたほうがよい。
次は、できそうでなかなか難しい方策。
気持ちの自己コントロールである。2つある。
一つは、気持ちの強さを弱めること。強いほど注意資源がそちらにとられてしまうので、気持ちを弱めるのである。
そのための一番有効な方策は、気持ちの強さは、時間とともに弱まるので、仕事の現場に入るまでの時間をできるだけ伸ばすことである。遅出のすすめになる。
もう一つは、気持ちの質を変えること。とりわけ、ネガティブ感情をポジティブ感情に変えようと努力することである。うまくいけば、ネガティブ感情の強さを下げることもできる。
これも、言うはやすいが実行は難しい。とりわけ、これを自分の心の世界だけでやるのは至難の技である。それは宗教的な修練の世界といってもよい。
そこで一つのおすすめは、からだを動かす、あるいは、軽いスポーツをすることである。感情は、自律神経系を経由して身体活動に影響を与えている。そこで、逆に、からだのほうの調子を快適なものにして感情を変えてしまおうというわけである。
「学習力トレーニング」より
9.4 会話の知的機能を高める
電子的コミュニケーションが会話を変える
ここで、少し寄り道をして、対面会話にとって代わりそうな勢いのある電子的コミュニケーションの「危ないほうの」特徴を会話との対比で考えてみます。
1)電子的コミュニケーションには、対面性がない 日常的な会話では、対面の「面」、つまり表情やジェスチャーなどの非言語的メッセージを多用しています。「大嫌いよ!」と「笑って言う」こともできるのが、会話です。 電子メールやチャットでは、文字通り「嫌い」は「嫌い」になりがちです。ですから、電子メールやチャットでは、ちょとした言葉のやりとりが、本当の喧嘩や強烈な恋愛に発展しがちです。
それを警戒してか、あたりさわりのない情報の交換に終始することになります。 2)電子的コミュニケーションは、つながり感欠如の不安がある 対面対話には、言葉以外のメディアからの豊富な情報が得られます。 電子コミュニケーションでは、書かれたことがすべてです。圧倒的に情報量が少なくなります。そのため、絶え間なくメールしあっていないと不安になり、相手とのつながり感を実感をできません。 これが、「携帯をもったサル」レベルの会話(正高信男氏による)に終始することにもなります。
3)電子的コミュニケーションは自閉的 文字や絵を使ってのコミュニケーションは、自分一人の世界での作業になります。表現の現場に人がいるかいないかは、意外に大事なのです。コミュニケーションの公的な部分が支配していますから、たとえば、声の大きさも話せる内容にも一定の制約がかかります。
これが、一人だけの孤立した表現になると、この制約がかかりません。表現が自閉的、一人よがりなものになりがちです。
こうした特徴をもった携帯メールが、もはや高校生の必需品になっています。
「NHK中学生・高校生の生活と意識調査」(NHK出版)によると、2002年段階で中学生で26%、高校生で84%が携帯を所有しています。
これが今の日本の現実です。当然、対面会話が減ります。隣の人にもメールで会話となります。
これが、対面会話の中で自然に学んでいた、会話技能や対人関係の技能を劣化させてしまうことになったら大変です。若者にその兆しがみえるように思えてなりませんが、年寄りの杞憂であってほしいものです。
会話の知的機能ってどんなもの 会話の癒し機能、親しみ向上機能の2つについてみてきました。この2つは、いずれも、会話の感情的効果にかかわるものでした。
これに対してこの節で取り上げる会話の知的機能とは、相手との情報のやりとりをしたり、自分の頭の中にある思い(発想)をより一層豊かなものにすることです。
具体的には、噂話、昨日みたTV番組のことなどちょっとした情報の交換から、「今、こんなことを考えているんだけで、どう思う」と言ったやや重い話題、さらには「君のその意見には賛成できない」といった議論まで含まれます。
近の若者の会話が、電子メールの影響もあってか、どんどん軽くなっているとの指摘があります。
大学紛争がほぼ終った1970年頃までの高校生や大学生になると、人生いかに生きるべきか、世の中をどう変えるかといったハード・プロブレムを夜を撤して語り合うようなところがありました。そのころ会話は「快話」ならぬ「壊話」でした。会話は、知的格闘技でした。 NHK教育テレビの「真剣10代しゃべり場」での討論のようなことが、TVという特別な場ではなく、日常的におこなわれていたのです。 こんな話は今やまったくの昔話になってしまいました。しかし、軽い話題だけが頻繁に飛び交うだけの会話環境は、とても健全とは思えません。
会話を知的にする
会話は相手があってはじめて成立しますから、あなた一人が会話を知的にと頑張っても浮いてしまいます。そうかといって、今の若者コミュニケーションに浸っていては、およそ会話を知的にはできません。ジレンマですね。 これを少しでも打開するためには、友達と共通の文化的サークルや行事に参加することが一つ考えられます。文化祭や部活に文化部を選ぶのです。その場にいけば、自然に、知的な会話をせざるをえなくなります。
本当は、もっとも身近にいる家族との会話を知的にすることもあるのですが、反抗心旺盛な時期ですので、無理かもしれません。しかし、人生の先輩が持っている知識は馬鹿になりません。特定の話題に限って、家族と知的な会話をしてみたらどうでしょうか。
もう一つは、知的会話術を身につけることです。
それに関連して、言語学者H.P.グライスの会話の公準を紹介しておきます。この公準に違反すると、会話が成立しなくなります。
○適度の情報量 必要とされている情報よりも多く提供すればくどいと言われ、少なければわからないと言われます。「必要性」は相手の知識によって変わります。
○真実性 ことわりのない限り、嘘は言わない。ことわりは、言葉だけでなく顔つきやジェスチャーでもよいとされていますが、対面でないと使えません。
○一貫性 これも、特にことわりのない限り、会話の前後は一貫しているとされます。ことわりには、「話は違うけど」「それで思い出したけど」などがあります。
○明瞭性 簡潔にはっきり話します。
学習力トレーニング「慣れ親しんだ人どうしの会話」****** 次の会話は、グライスの公準のどれをおかしているか考えてみてください。* 黒夫1「黒い色のあれ、どこにあるかな?」 妻子1「私、今日、でかけますから」 黒夫2「あった。こんなとこにあったよ」 妻子2「外でお願いね」 ******************
グライスの公準、あまりに当たり前すぎて参考になりませんか。公準ですからこんなものですが、では、もっと具体的な知的会話術をいくつか挙げておきます。 ・自分のほうから、知的な話題を話す
・知的な話題を豊富にストックしておく
・相手が乗ってきたら、聞き役に回る
・一緒に勉強する機会を増やす ・友人の興味関心を知っておく
「喜びも悲しみ一緒に」という友人関係も大事ですが、お互いが知的に切磋琢磨する友人関係を作っておくのもそれと同じくらいに大事です。高校・大学時代にそんな友人をたくさん作れたらいいですね。 質問上手になる 会話力というとつい、自分が話上手になるようなイメージをもってしまいがちです。しかし、知的会話では、相手から情報や知識を引き出す力も大事です。 「質問するのは止めたとき、人は本当の愚か者になる」とさえ言う人(C.シュタインメッツ)もいます。適切な質問ができる力が必要です。
会話では、必ずしも、十全な情報や知識がやりとりされているわけではありません。グライスの公準が平気でおかされます。 そんな時には、適切な質問することによって、不足を補う必要があります。それを、「その時、その場」でできるのが、会話の利点です。 質問力には、具体的には、次のような質問がタイミングよく相手に投げかけられることです。
○用語の意味を聞く 例「会話の公準って、どういう意味?」
○直接たずねる 例「グライスという人はどんな人ですか?」
○自分の考えの妥当性を確かめる 例「グライスの公準は、当たり前すぎると思いますが?」
○話の筋を自分の言葉で確かめる 例「会話の公準というのは、暗黙のルールのようなものです ね」
質問力と同時に、もう一つ、質問されたときの応答力も大事です。
昨日の大学院入試の面接でも、こちからの質問に、時間を無視してとうとうと応える受験生が何人もいました。 だらだらとした話で長くなってしまうのは論外、理路整然と話すのでも結論がなかなか出てこないのでいらいらさせられるのも困りものです。 応答力とは、次のようなものです。
・すぐに反応する。即答が無理なら、その理由を言う
・的確に応える
・結論を先に
・言いたいことの全体を先に
・長くなるときは、最初にその旨の了解をとる
・さらに質問してもらえる程度の答にする
議論こそ会話を知的にする究極の姿
いつも会話が議論になってしまうようだと、おそよ知的ではなくなってしまいます。相手との感情的な交流がうまくいっていないのかもしれません。
しかし、時折の会話が議論になるのは、知的には好ましいことです。場合によっては、あえて、議論を挑むようなことがあっても良いと思います。
議論をすることの利点はいくつかあります。
・自分の考えがはっきりしてきます
・別の考えのあることを知ることができます
・自分の考えの妥当性チェックができます
・新しい発想が生まれます
ただし、議論には、仲間との関係をまずくするリスク(危険性)も一方ではあります。 そうならないためには、一つには、議論は、内容への異論、反論であって、人物への異論、反論ではないことを肝に銘じておくことです。
「自分に反対したからあいつは嫌い」ではなく「あいつは自分の意見には反対したけど、人物の好き嫌いは別」と考えられるようにしておくことです。
もう一つは、議論は知的ゲームなり、と考えてみることです。
ディベート(討論会)はしたこと、あるいは、見たことがありますか。
特定のテーマ、たとえば、「自衛隊のイラク派遣」をめぐって、賛成側と反対側とが一定のルールに従って議論を戦わすゲームです。
自分自身の意見とは無関係に、「反対だとしたら」こんな意見で相手を説得するということで丁々発止とやりあい、聴衆から勝ち負けを判定してもらいます。
議論をこのように、一つのゲームと考えてしまうのも一計です。ただし、いつも自分だけが勝つゲームではなく、相手にも勝たせる配慮、そのためには、とどめの一発は避けるようにするやさしさが必要ですが。 最後に、議論は、対面ですることです。
電子メールの議論では、「文字通り」の解釈が支配的になります。異論、反論をするときに、充分過ぎるくらいに、相手の気持ちに配慮する必要があります。
むしろ、電子メールで議論の約束だけをして、あとは、対面で、くらいが安全なところです。
*慣れ親しんだ人との会話はこんなものです。1->1、2->2では、一貫性違反、4つのセリフとも省略が多すぎて、明瞭性違反。
9.4 会話の知的機能を高める
電子的コミュニケーションが会話を変える
ここで、少し寄り道をして、対面会話にとって代わりそうな勢いのある電子的コミュニケーションの「危ないほうの」特徴を会話との対比で考えてみます。
1)電子的コミュニケーションには、対面性がない 日常的な会話では、対面の「面」、つまり表情やジェスチャーなどの非言語的メッセージを多用しています。「大嫌いよ!」と「笑って言う」こともできるのが、会話です。 電子メールやチャットでは、文字通り「嫌い」は「嫌い」になりがちです。ですから、電子メールやチャットでは、ちょとした言葉のやりとりが、本当の喧嘩や強烈な恋愛に発展しがちです。
それを警戒してか、あたりさわりのない情報の交換に終始することになります。 2)電子的コミュニケーションは、つながり感欠如の不安がある 対面対話には、言葉以外のメディアからの豊富な情報が得られます。 電子コミュニケーションでは、書かれたことがすべてです。圧倒的に情報量が少なくなります。そのため、絶え間なくメールしあっていないと不安になり、相手とのつながり感を実感をできません。 これが、「携帯をもったサル」レベルの会話(正高信男氏による)に終始することにもなります。
3)電子的コミュニケーションは自閉的 文字や絵を使ってのコミュニケーションは、自分一人の世界での作業になります。表現の現場に人がいるかいないかは、意外に大事なのです。コミュニケーションの公的な部分が支配していますから、たとえば、声の大きさも話せる内容にも一定の制約がかかります。
これが、一人だけの孤立した表現になると、この制約がかかりません。表現が自閉的、一人よがりなものになりがちです。
こうした特徴をもった携帯メールが、もはや高校生の必需品になっています。
「NHK中学生・高校生の生活と意識調査」(NHK出版)によると、2002年段階で中学生で26%、高校生で84%が携帯を所有しています。
これが今の日本の現実です。当然、対面会話が減ります。隣の人にもメールで会話となります。
これが、対面会話の中で自然に学んでいた、会話技能や対人関係の技能を劣化させてしまうことになったら大変です。若者にその兆しがみえるように思えてなりませんが、年寄りの杞憂であってほしいものです。
会話の知的機能ってどんなもの 会話の癒し機能、親しみ向上機能の2つについてみてきました。この2つは、いずれも、会話の感情的効果にかかわるものでした。
これに対してこの節で取り上げる会話の知的機能とは、相手との情報のやりとりをしたり、自分の頭の中にある思い(発想)をより一層豊かなものにすることです。
具体的には、噂話、昨日みたTV番組のことなどちょっとした情報の交換から、「今、こんなことを考えているんだけで、どう思う」と言ったやや重い話題、さらには「君のその意見には賛成できない」といった議論まで含まれます。
近の若者の会話が、電子メールの影響もあってか、どんどん軽くなっているとの指摘があります。
大学紛争がほぼ終った1970年頃までの高校生や大学生になると、人生いかに生きるべきか、世の中をどう変えるかといったハード・プロブレムを夜を撤して語り合うようなところがありました。そのころ会話は「快話」ならぬ「壊話」でした。会話は、知的格闘技でした。 NHK教育テレビの「真剣10代しゃべり場」での討論のようなことが、TVという特別な場ではなく、日常的におこなわれていたのです。 こんな話は今やまったくの昔話になってしまいました。しかし、軽い話題だけが頻繁に飛び交うだけの会話環境は、とても健全とは思えません。
会話を知的にする
会話は相手があってはじめて成立しますから、あなた一人が会話を知的にと頑張っても浮いてしまいます。そうかといって、今の若者コミュニケーションに浸っていては、およそ会話を知的にはできません。ジレンマですね。 これを少しでも打開するためには、友達と共通の文化的サークルや行事に参加することが一つ考えられます。文化祭や部活に文化部を選ぶのです。その場にいけば、自然に、知的な会話をせざるをえなくなります。
本当は、もっとも身近にいる家族との会話を知的にすることもあるのですが、反抗心旺盛な時期ですので、無理かもしれません。しかし、人生の先輩が持っている知識は馬鹿になりません。特定の話題に限って、家族と知的な会話をしてみたらどうでしょうか。
もう一つは、知的会話術を身につけることです。
それに関連して、言語学者H.P.グライスの会話の公準を紹介しておきます。この公準に違反すると、会話が成立しなくなります。
○適度の情報量 必要とされている情報よりも多く提供すればくどいと言われ、少なければわからないと言われます。「必要性」は相手の知識によって変わります。
○真実性 ことわりのない限り、嘘は言わない。ことわりは、言葉だけでなく顔つきやジェスチャーでもよいとされていますが、対面でないと使えません。
○一貫性 これも、特にことわりのない限り、会話の前後は一貫しているとされます。ことわりには、「話は違うけど」「それで思い出したけど」などがあります。
○明瞭性 簡潔にはっきり話します。
学習力トレーニング「慣れ親しんだ人どうしの会話」****** 次の会話は、グライスの公準のどれをおかしているか考えてみてください。* 黒夫1「黒い色のあれ、どこにあるかな?」 妻子1「私、今日、でかけますから」 黒夫2「あった。こんなとこにあったよ」 妻子2「外でお願いね」 ******************
グライスの公準、あまりに当たり前すぎて参考になりませんか。公準ですからこんなものですが、では、もっと具体的な知的会話術をいくつか挙げておきます。 ・自分のほうから、知的な話題を話す
・知的な話題を豊富にストックしておく
・相手が乗ってきたら、聞き役に回る
・一緒に勉強する機会を増やす ・友人の興味関心を知っておく
「喜びも悲しみ一緒に」という友人関係も大事ですが、お互いが知的に切磋琢磨する友人関係を作っておくのもそれと同じくらいに大事です。高校・大学時代にそんな友人をたくさん作れたらいいですね。 質問上手になる 会話力というとつい、自分が話上手になるようなイメージをもってしまいがちです。しかし、知的会話では、相手から情報や知識を引き出す力も大事です。 「質問するのは止めたとき、人は本当の愚か者になる」とさえ言う人(C.シュタインメッツ)もいます。適切な質問ができる力が必要です。
会話では、必ずしも、十全な情報や知識がやりとりされているわけではありません。グライスの公準が平気でおかされます。 そんな時には、適切な質問することによって、不足を補う必要があります。それを、「その時、その場」でできるのが、会話の利点です。 質問力には、具体的には、次のような質問がタイミングよく相手に投げかけられることです。
○用語の意味を聞く 例「会話の公準って、どういう意味?」
○直接たずねる 例「グライスという人はどんな人ですか?」
○自分の考えの妥当性を確かめる 例「グライスの公準は、当たり前すぎると思いますが?」
○話の筋を自分の言葉で確かめる 例「会話の公準というのは、暗黙のルールのようなものです ね」
質問力と同時に、もう一つ、質問されたときの応答力も大事です。
昨日の大学院入試の面接でも、こちからの質問に、時間を無視してとうとうと応える受験生が何人もいました。 だらだらとした話で長くなってしまうのは論外、理路整然と話すのでも結論がなかなか出てこないのでいらいらさせられるのも困りものです。 応答力とは、次のようなものです。
・すぐに反応する。即答が無理なら、その理由を言う
・的確に応える
・結論を先に
・言いたいことの全体を先に
・長くなるときは、最初にその旨の了解をとる
・さらに質問してもらえる程度の答にする
議論こそ会話を知的にする究極の姿
いつも会話が議論になってしまうようだと、おそよ知的ではなくなってしまいます。相手との感情的な交流がうまくいっていないのかもしれません。
しかし、時折の会話が議論になるのは、知的には好ましいことです。場合によっては、あえて、議論を挑むようなことがあっても良いと思います。
議論をすることの利点はいくつかあります。
・自分の考えがはっきりしてきます
・別の考えのあることを知ることができます
・自分の考えの妥当性チェックができます
・新しい発想が生まれます
ただし、議論には、仲間との関係をまずくするリスク(危険性)も一方ではあります。 そうならないためには、一つには、議論は、内容への異論、反論であって、人物への異論、反論ではないことを肝に銘じておくことです。
「自分に反対したからあいつは嫌い」ではなく「あいつは自分の意見には反対したけど、人物の好き嫌いは別」と考えられるようにしておくことです。
もう一つは、議論は知的ゲームなり、と考えてみることです。
ディベート(討論会)はしたこと、あるいは、見たことがありますか。
特定のテーマ、たとえば、「自衛隊のイラク派遣」をめぐって、賛成側と反対側とが一定のルールに従って議論を戦わすゲームです。
自分自身の意見とは無関係に、「反対だとしたら」こんな意見で相手を説得するということで丁々発止とやりあい、聴衆から勝ち負けを判定してもらいます。
議論をこのように、一つのゲームと考えてしまうのも一計です。ただし、いつも自分だけが勝つゲームではなく、相手にも勝たせる配慮、そのためには、とどめの一発は避けるようにするやさしさが必要ですが。 最後に、議論は、対面ですることです。
電子メールの議論では、「文字通り」の解釈が支配的になります。異論、反論をするときに、充分過ぎるくらいに、相手の気持ちに配慮する必要があります。
むしろ、電子メールで議論の約束だけをして、あとは、対面で、くらいが安全なところです。
*慣れ親しんだ人との会話はこんなものです。1->1、2->2では、一貫性違反、4つのセリフとも省略が多すぎて、明瞭性違反。
テロには、大義がある
それだけにやっかい
今回の元厚生事務次官殺人も、間違いなくテロだと思う
1件だけならともかく、
2件
無言のメッセージ(大義)がそこには明確だから
幕末はテロだらけ
明治政府の要人に何人のテロリストがいるか
名前をかえている人々が多いのは、過去を隠すためではないかと
思ってしまうほど
大義をこんな形で訴えようとするのは悲しい
かといって大義を与えない社会もありえない
せめて閉塞感を振り払う
変わることを期待させる政治状況になってほしい
リーダーの足をひっぱる政治状況はまずい
それだけにやっかい
今回の元厚生事務次官殺人も、間違いなくテロだと思う
1件だけならともかく、
2件
無言のメッセージ(大義)がそこには明確だから
幕末はテロだらけ
明治政府の要人に何人のテロリストがいるか
名前をかえている人々が多いのは、過去を隠すためではないかと
思ってしまうほど
大義をこんな形で訴えようとするのは悲しい
かといって大義を与えない社会もありえない
せめて閉塞感を振り払う
変わることを期待させる政治状況になってほしい
リーダーの足をひっぱる政治状況はまずい
麻生首相、窮地のようだ
でも、
誤読、
思いつき発言
ぐるぐる変わり
ぶれ
そんなに悪いことではない
おもしろいではないか
こうした形で、政治的なトピックが話題になるのもありだと思う
政治が、無誤謬と思い込んでいる官僚支配になってしまうほうが
よほど怖い
インタビュー応答には、エラーがつきもの
それをことさらに取り上げている暇があったら、
もっと内容のある話をマスコミは取り上げるべきだ
でも、
誤読、
思いつき発言
ぐるぐる変わり
ぶれ
そんなに悪いことではない
おもしろいではないか
こうした形で、政治的なトピックが話題になるのもありだと思う
政治が、無誤謬と思い込んでいる官僚支配になってしまうほうが
よほど怖い
インタビュー応答には、エラーがつきもの
それをことさらに取り上げている暇があったら、
もっと内容のある話をマスコミは取り上げるべきだ