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● 裁判員制度がはじまる
平成21年5月までに裁判員制度が導入される。Wikipediaによると、次のように紹介されている。
裁判員制度は、市民(衆議院議員選挙の有権者)から無作為に選ばれた裁判員が裁判官とともに裁判を行う制度で、国民の司法参加により市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映するとともに、司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上を図ることが目的とされている。
ちなみに、これだけの内容を1文で書いている。こんなわかりにくい悪文を書く人々が裁判員制度を運用するのかと思うと、はじまる前から絶望的になってしまう。
それはさておき、法曹界は、ほとんどの国民にとってその重要性は認識できていても、みずからがその当事者になるとはまず思ってもいなかった世界である。それが、突然、裁判所になかば強制的に呼び出されて、判決の決定にかかわる一人になるのである。
これは、法曹界にとってのみならず、市民にとっても、いろいろの意味で画期的なことである。
わかりやすさに話を限定しても、この制度の画期的なところーーそれはまた克服しなければならない課題でもあるのだがーーを2つ挙げておく。
一つは、法律の壁で強固に守られていた法曹界が、その外にいる市民を受け入れるにあたり、どのようにコミュニケーションをはかるかを考えざるをえなくなったことである。
日本弁護士連合会では、素人が耳で聞いてわかる言葉使いを公表しているが(朝日新聞、07年12月20日朝刊)。言葉の言い換えだけで事が済むほど、ことは簡単ではない。しかし、とりあえずは、ささやかだが、有効な試みだとは思う。たとえば、
・ 冒頭陳述――>検察官や弁護人が証拠調べの最初に述べる事件のストーリー
・ 教唆犯――>他人をそののかして犯罪を行わせた人
・ 未必の殺意ーー>必ず殺してやろうと思ったわけではないが、死んでしまうならそれでも仕方がないと思って○○した。
これまでは、法律知識とその運用技術を共有していた人々の間でのコミュニケーションで済んでいたのが、ほとんど知的な共有基盤を持たない人々とコミュニケーションをしなければならなくなったのである。考え方のくせや視点の違いなど知的基盤のもっと大掛かりなところでのギャップにまで思いをはせなければならなくなった。
これと関連するが、2つは、そのコミュニケーションも、広報などのような一方的な流れではなく、市民の側に、コミュニケーションの内容が単にわかるだけでなく、それに基づいた妥当な判断まで要求することである。
「わかった」おしまい、というのではなく、「わかった、それならこうしたらどうか」までを要求する「深い」コミュニケーション事態に誰もがさらされることになるのである。かなりきつい状況が思わぬところで発生したのである。
● 裁判員制度がはじまる
平成21年5月までに裁判員制度が導入される。Wikipediaによると、次のように紹介されている。
裁判員制度は、市民(衆議院議員選挙の有権者)から無作為に選ばれた裁判員が裁判官とともに裁判を行う制度で、国民の司法参加により市民が持つ日常感覚や常識といったものを裁判に反映するとともに、司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上を図ることが目的とされている。
ちなみに、これだけの内容を1文で書いている。こんなわかりにくい悪文を書く人々が裁判員制度を運用するのかと思うと、はじまる前から絶望的になってしまう。
それはさておき、法曹界は、ほとんどの国民にとってその重要性は認識できていても、みずからがその当事者になるとはまず思ってもいなかった世界である。それが、突然、裁判所になかば強制的に呼び出されて、判決の決定にかかわる一人になるのである。
これは、法曹界にとってのみならず、市民にとっても、いろいろの意味で画期的なことである。
わかりやすさに話を限定しても、この制度の画期的なところーーそれはまた克服しなければならない課題でもあるのだがーーを2つ挙げておく。
一つは、法律の壁で強固に守られていた法曹界が、その外にいる市民を受け入れるにあたり、どのようにコミュニケーションをはかるかを考えざるをえなくなったことである。
日本弁護士連合会では、素人が耳で聞いてわかる言葉使いを公表しているが(朝日新聞、07年12月20日朝刊)。言葉の言い換えだけで事が済むほど、ことは簡単ではない。しかし、とりあえずは、ささやかだが、有効な試みだとは思う。たとえば、
・ 冒頭陳述――>検察官や弁護人が証拠調べの最初に述べる事件のストーリー
・ 教唆犯――>他人をそののかして犯罪を行わせた人
・ 未必の殺意ーー>必ず殺してやろうと思ったわけではないが、死んでしまうならそれでも仕方がないと思って○○した。
これまでは、法律知識とその運用技術を共有していた人々の間でのコミュニケーションで済んでいたのが、ほとんど知的な共有基盤を持たない人々とコミュニケーションをしなければならなくなったのである。考え方のくせや視点の違いなど知的基盤のもっと大掛かりなところでのギャップにまで思いをはせなければならなくなった。
これと関連するが、2つは、そのコミュニケーションも、広報などのような一方的な流れではなく、市民の側に、コミュニケーションの内容が単にわかるだけでなく、それに基づいた妥当な判断まで要求することである。
「わかった」おしまい、というのではなく、「わかった、それならこうしたらどうか」までを要求する「深い」コミュニケーション事態に誰もがさらされることになるのである。かなりきつい状況が思わぬところで発生したのである。