Q1* 動物にも心はあるのですか--心の進化論
犬もいじめれば悲しそうな振舞いをします。チンパンジーは、声を出して仲間とコミュニケーションをしています。あるいは、最近では、人の振舞いを真似た電子仕掛けのロボットもあちこちで見かけます。そんな振舞いや行動を見ていると、動物も機械も人と同じような心を持っているように見えます。
「人が解釈できるような」言動をするものには心がある、と定義してしまうなら、ほとんどの生物、さらには機械にさえ心があると言ってよいことになります。
この定義は、擬人法的な心の定義とも呼ぶべきもので、比較的、一般に受け入れやすいものです。ペットを飼う人はもちろんのこと、アカデミックな心理学の中でも、かつてはおおっぴらに採用されていたことがありますし、現在でも、たとえば、ロボットに「心」を持たせる試み--人工知能研究---などでは、暗黙裏に採用しています。
これらに共通しているのは、心を直接問題にせずに、「(人のような)心があるとするなら、それは、外部にこんな形であらわれるはず」という前提を置いているところです。「こんな形」が外部から観察できれば、その心は存在することになります。
しかし、擬人法的な見方は、しばしば、正しい認識を妨げることがあることが知られています。20世紀初頭、足し算の答えを足で床を叩く回数で答える賢い馬(クレバーハンス)が有名になったことがあります。よくよく調べてみると、飼い主が無意識のうちに出す微妙なサインを馬が読み取っていたにすぎないことがわかりました。それがわかるまでは、馬にも人なみの知性(心)があるらしい、と人々に信じさせてしまいました。
動物心理学の説明原理として知られているモーガンの公準(Morgan’s canon)というのがあります。「いかなる行動も、より低次の心的機能のもたらしたものと説明できるなら、それを高次の心的機能によるものとして説明してはならない」というものです。
ここで言う、低次、高次は、実は、心の定義に深くかかわっていますし、質問に対するもう一つの答えと関係します。
低次の「心的」機能とは、外部の刺激に応答して起こる行為を支える「心的」機能です。目に強い光を照射すれば瞳孔が収縮します。物が飛んでくれば避けます。こうした反射的な行為の背景にある「心的」機能です。ここでは、「心的」と鍵かっこで囲んだのは、ここでは、ほとんど心を持ち出す必要がないからです。
心の存在を仮定するのにふさわしいと誰しもが考えるのは、高次の心的機能が発揮されるときです。覚えたり、考えたり、判断したり、学んだりすることができるときです。ところが、このあたりに心の存在を認めることになると、ネズミや鳩くらいから心があることになります。ネズミも鳩もかなり高次の心的機能を発揮するからです。鳩でも訓練すればピカソの絵を見分けるそうです。動物を使った研究成果から、人の高次の心的機能のメカニズムを解明しようとする動物心理学の存在価値があることになります。
しかし、どうでしょうか。ここまできてもまだ、動物に人とおなじような心がある、とする考えを素直に受け入れる気持ちにはなれないという人もいるはずです。心は、もっと高次---超高次?---の心的機能に限定すべきと主張したいのだと思います。
その「超高次の」心的機能とは何でしょうか。それは、一つは、志向性とか能動性とか意図性とかが反映された行為を支えるものです。そしてもう一つは、言語行為を支えるものです。心の存在をここまで限定的に考える立場は、心理学では、今は主流ではありません。猿の「心的」機能の研究が進んできて、猿でも、こうした超高次の心的機能を反映しているかのような行為がみられる、あるいは形成できることがわかってきたからです。もっとも、ここまでくると、またぞろ擬人的説明の危うさを感じるようなところもあるのですが。
質問に対する答えは、したがって、「動物にも心あり」ということになります。しかし、それは、あくまで科学的な研究を進めていく上での定義の問題であることを忘れてはなりません。心そのものはどうがんばっても目に見えるものではないのですから。「反粒子」の存在証明に全世界の物理学者が全精力を傾けているのとは問題の質が違います。
渡辺茂氏の「ピカソを見分けるハト」(NHK出版)と「認知の起源を探る」(岩波書店)が参考になります。
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