心の風景 認知的体験

癌闘病記
認知的体験
わかりやすい表現
ヒューマンエラー、安全
ポジティブマインド
大学教育
老人心理

何をしているのだろう?

2007-04-27 | Weblog
散歩道に木から鳥かごがぶらさがり、
ミジロが一匹
何かと思い写真に
おじさんがそっと近づいてきた
このあたりには、メジロはいないなーという
おびき寄せてとらえようというのだろうか
趣味?、それとも、商売?
どっちにしても、あまりおもしろくはないと
思うのだが。

アクセス数 激増

2007-04-27 | Weblog
04/15~04/21 4324 pv 1356 ip -位(765128 BLOG中)
04/08~04/14 3822 pv 1144 ip -位(761102 BLOG中)
04/01~04/07 3204 pv 1055 ip
漸増かな?
一日200アクセス数は、ここ1週間、土日を除いて、安定的に越えている。

4/26(木) 946 pv  268 ip -位(767441 BLOG中)
4/25(水) 1120 pv 237 ip -位(766801 BLOG中)
4/24(火) 738 pv 235 ip -位(766275 BLOG中)
4/23(月) 1018 pv 200 ip -位(765736 BLOG中)
4/22(日) 605 pv  179 ip -位(765128 BLOG中)
4/21(土) 461 pv  169 ip -位(764457 BLOG中)
4/20(金) 739 pv  233 ip

渋滞

2007-04-27 | Weblog
家をいつもより10分遅い8時に出た
渋滞3箇所の状況がいつもより悪い
結局、いつも1時間なのに、10分余計かかってしまった。
10分くらいたいしたことはないのだが、
随分、無駄時間のような気がした。
やはりもう10分早く家を出ることにしよう

今日のひと言

2007-04-27 | Weblog
●20世紀は「大きい、多い、速い、強い」の「4つの”い”」の時代であったのに対して、
21世紀は「ゆっくり、じっくり、しっかり、ぴったり」という「4つの”り”」の時代と言った人(木村政雄)がいます。
こうした21世紀を背負って立つ諸君にこそ、人間力を身につけてほしいと思うからです。

キー打ちによる指の痛み

2007-04-27 | 心の体験的日記
第1間接が痛いと書いた。
早速、ノートパソコンのボードが原因ではないかとの指摘をいただいた。
そこで、昔使っていたキーボードを引っ張り出して使ってみた。
キータッチが深いので、指先への衝撃が弱くなる感じ。
まだ効果のほどは出てこないが、もしかすると、これで緩和されるかも。
教えてくれた方、ありがとう


魔の一瞬

2007-04-27 | Weblog
4.2 魔の一瞬
「To err is human」であるにしても、これほど毎日、うっかりミスばかりしていて、よくぞ60余年も生きてこれたものとあきれてしまうほどである。
たとえば、ドライブが趣味の自分にとって、車の運転は絶えず魔の一瞬との闘いである。ラジオに注意をとられてハンドル操作がおろそかになってしまったり、車内での家内とのいさかいで注意が散漫になってしまったりしたことが何度かある。あるいは視認性の極端に低下した夕方の右側通行の無灯火の自転車、脇をハイスピードで通り抜けるオートバイに何度となくひやりとしたことがある。それでも、魔の一瞬に遭遇せずに、また「注意一秒、怪我一生」にならずにすんだのは、幸運としか言いようがない。
利便性と快適性と引き換えのハイリスク社会で生き抜くのは、幸運(確率)頼みなのかとも思ってしまう。
ミスをおかすのが人間だとしても、100おこなう行為のうち、高々1個くらいが表面に出てくるうっかりミスである。うっかりミスをしてしまったことは記憶に残るので、もっと多いように錯覚するが、それほど実は多くはない。
ミスがたまたま事故や怪我につながってしまったときを魔の一瞬というのである。

4.3 魔の一瞬を作り出すもの
車の運転で脇見をして中央線をはみ出てしまっても、その時、対向車がこなければ、どうということもない。
包丁を落としても、落としたところに足がなければどうということはない。
我々がミスをしても、そのミスが魔の一瞬になるのは、たまたまそうさせてしまう状況があったからである。
中央線をはみ出た時に対向車がたまたま来たので、事故になってしまうのである。包丁が落ちてきた時に、たまたま足がそこにあったから怪我をしてしまうのである。

====>>>「認知と学習の心理学」へ 新曜社刊

写真 海浜幕張の駅前からみた光景

失敗の言い訳の効用

2007-04-26 | Weblog
06/9・5海保 9月20日締切
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30文字133行で4000文字  この書式で23行で6p
「リスクマネジメント TODAY]11月号特集「言い訳のすすめ;
失敗学再入門」
「失敗の言い訳の効用」 東京成徳大学人文学部 海保博之
● はじめに
失敗には言い訳はつきもの。しかし、一般には、言い訳はいけないこととされ、非難、叱責される。本稿では、言い訳にも理も利もあることを述べてみたいのだが、すべての言い訳に理と利があるわけではない。どんな言い訳なら理と利があるのか、それを組織としていかに活かすかを考えてみたい。
● 失敗即罰はだめ
 失敗に厳しいのは、とりわけ安全、信頼が第一の現場では、当然のことである。だからといって、その厳しさが「即、罰」となってしまうのは、好ましい対応ではない。罰は、失敗隠しをさせるし、
仕事を萎縮させるし、失敗の結果だけに関心を向けさせてしまいがちだらからである。
では失敗したらどうするか。敏速な事後対策に一致協力して取り組むことが先決であるが、それが一段落ついたところで、失敗にかかわる人々の「言い訳会議」をおこなって、なぜそんなことが起こってしまったのかを分析してみる。うまくいけば、それは、失敗の原因追及ムム責任追及ではない!!−−の会議、さらには、失敗の未然防止対策の会議にもなることが期待できる。
●失敗の言い訳の3つのパターン
話をすすめる前に、失敗すると、我々はなぜ言い訳をするのかについて考えておく。
1つは、自己保身のための言い訳である。
失敗は自分の弱さがはからずもあらわれてしまった行為である。その弱さを周辺に対して、時には自分自身に対して繕うために、言い訳をするのである。「あの時は、あーする以外になかった」「やるだけのことはやったのだが」となる。
2つは、自分自身の納得のための言い訳である。
我々は、失敗に限らないが、何か際立った事が起こると、その原因を推測して自分なりに納得したい心性が強くある。あいまいなままほっておくことは不安でならないのである。それが言い訳として出てくる。「その失敗(結果)は、自分の怠け心(原因)のために起こった」「課題が難しかったから、失敗した」挙げ句の果ては「運が悪かっから、失敗した」といった類の言い訳が、それである。
3つは、使命観から出る言い訳である。
何かの仕事をする際には、組織あるいは自分の中にその仕事をする使命観(意義)が陰に陽にある。その使命観に従ってやったために失敗してしまったという言い訳である。「あの場ではそうせざるをえなかった」「自分以外に誰がやったか」という、いささか大げさな言い訳となるのが、常である。
 この3つのタイプの言い訳のうち、自己保身のための言い訳は、本人が早く失敗から立ち直るためには必要であるが、組織にとっては、あまり有効ではないので、以下の話からは除外する。
●言い訳会議の意義
会議の名称はともかくとして、この類の集まりを持てるかどうかが、組織の一つの失敗文化になる。失敗した時に、その当事者だけの問題にあえて限定して片をつけてしまって(罰っしてしまって)一件落着が、失敗の定番処理になっている組織は危ない。末尾に付けた、「失敗・言い訳許容度テスト」で、あなたの職場をチェックしてみてほしい。
言い訳会議の意義は、4つある。
一つは、失敗隠しを防ぐことである。失敗、あるいは失敗しそうになった体験をオープンにできる雰囲気は、当事者にとって癒しになるだけではなく、組織にとっても学ぶべきことがたくさんあることの共通認識を生み出す。
2つは、原因分析である。ここで、前述した、「自分を納得させる言い訳」と「使命観から出る言い訳」が役立つ。当事者のこうした言い訳には、どうしても自己保身の色合いがでてしまいがちであるが、それをどれくらい押さえられるかは、その会議(組織)が、どれくらい真剣に原因分析をしようとしているかにもかかっている。
3つは、情報の共有である。「こんな失敗がありました。気をつけましょう」の広報感覚の情報提供だけでは、「自分はそんな馬鹿はしない」で終わってしまう。自分の身に引きつけて失敗情報を理解し、自分の知識の糧にするには、当事者と一緒になってあれこれ考えることは効果がある。
4つは、次の失敗を未然に防ぐ対策が出てくることである。ここまでやらないと、あるいはできないと、会議の意義が半減してしまうことになる。
●言い訳会議をより実効性のあるものにするための4つのコツ
コツ1「明るい雰囲気でやる」
 それでなくとも、失敗は当事者以外の周辺の人々も巻き込んで暗いネガティブな雰囲気を醸し出す。こうした雰囲気では、会議は生産的にならない。へたをすると、責任追及の会議になってしまう。そうならないためには、失敗の事後対策が済んで職場に日常が戻ってきたあたりで、できるだけ明るい雰囲気でやるのが良い。かといって、あまり時間をおくと、事実関係が忘却されたり、妙な編集がおこなわれてしまったりすることもあるので、1週間後あたりがめどであろう。
コツ2「自己保身的な言い訳は、できるだけ排除する」
 言い訳会議は反省会ではない。失敗して反省すること自体はそれなりに有効ではあるが、この会議では、当事者一人が恐縮してみずからを責めてかばりでは、実効性のあるものにならない。そんな時には、当事者に失敗をさせて外部の要因にできるだけ目を向けるようにさせる。
コツ3「後付け推論の罠に気をつける」
失敗の言い訳は、失敗が起こってしまった後から、時間をさかのぼって、あの時どうだった、あの時のあれが原因ではないか、という推論をすることになる。これを後付け推論という。
後付け推論には、次のようなかなり強いバイアスが働くことが知られている。
?自分が納得できる推論しかしない。
?したがって、独りよがりの思い込み推論にもなりやすい。
?他の原因である可能性に思いがいかない。
?真偽の確認がとれないことが多い。
さらに、失敗の当事者の言い訳には、もうひとつ、自己保身への誘惑もある。こうしたバイアスや誘惑に惑わされない周囲の冷静かつ的確な判断が求められる。場合によっては、現場での検証もしてみるくらいくらいのことがあってもよい。
コツ4「使命にかかわる言い訳を引き出す」
仕事の使命にかかわる言い訳は無視できないものがある。組織が無理難題を仕事の達成にあたり設定して押しつけてしまっている可能性があるからである。しかも、やや面倒なことに、仕事熱心な人ほど(使命観に燃えている人ほど)、使命にかかわる言い訳はしない傾向にある。ごく当たり前のこととして潜在化してしまい、それを取り立てて失敗の原因として意識しないからである。時間決め配達を使命として掲げている会社で、それを懸命に守ろうとして事故、というケースを考えてみてほしい。
人、状況、そして、使命の三位一体を意識しながらの言い訳会議になれば申し分ない。
コツ5「会議の結論も過程が大事」
言い訳会議をして、そこから確定的な答え(原因)が出れば申し分ないが、当時者も含めて組織のメンバーが集まってわいわいがやがやすることの中で、書くメンバーが自分なりのものをつかんでくれることも大事である。その趣旨を徹底しないと、自分は関係ない、から欠席、あるいはお義理出席となってしまう。

●おわりに
 ここで述べた言い訳は、ソクラテスの弁明ほどではないが、自己保身の色合いを消した弁明というほうがふさわしい。失敗して頭を昂然とあげて生きられる人はまずいないが、組織として失敗から学ぶことが共通の認識になっていれば、また違ったより生産的な方向に当事者を向かわせることができる。その一つとして、言い訳会議を提案してみた。
 
コラム「あなたの職場の失敗・言い訳許容度は?」*******
それぞれの項目について、○、△、×を入れてみてください。
○が多いほど、許容度が高いことになる。

・失敗には厳しいが、失敗を意識してびくびくして仕事をするようなことはない( )
・失敗してもいざという時はフォローしてもらえる安心感がある( )
・失敗した時、言い訳をじっくりと聞いてくれる( )
・失敗しても頭ごなしに叱責されることはあまりない( )
・失敗した時、なぜ失敗したかの言い訳に耳を傾けてくれる( )
・失敗から学ぶ態勢が組織の中にある( )
・言い訳を言える雰囲気がある( )
・失敗の記録が公開されている( )


出世したい たったの8%

2007-04-26 | Weblog
日米中の高校生の意識調査
何年かに一度やられている。
前から結果がおもしろいので注目している
今回も、日本の高校生は際立った反応をみせている
出世は興味なし、
のんびりすごしたい
と考える日本の高校生が圧倒的に多い
のが気になる

「学力低下論争の背景にあるもの」

2007-04-26 | 教育
04/4/5海保

「指導と評価」臨時増刊号 図書文化社

筑波大学心理学系教授・海保博之
「学力低下論争の背景にあるもの」
 昨今の学力低下論争は、「ゆとり教育」を標榜する新しい学習指導要領に対して、「大学生の理数能力の低下」「大学受験での学力低下」「社会階層による学力2極分化」という3つの視点から挙げられた反対から始まった(市川伸一)。
 いずれも、三者三様のデータに基づいた主張なだけに、それになりに説得力はあるが、不幸なことに、それが「論争」になっていまうのは、いくつかの理由がある。
 最大の理由は、学力の定義が異なるからである。読み書きそろばん能力を最右翼とすれば、最左翼には問題解決能力がある。どのあたりを学力の定義に採用するかで、低下か否かが分かれる。
 学力の定義が異なれば、学力を計測する検査問題も異なってくる。みずからの主張を支える学力データを提出しても、たちどころに定義問題で反論される。仮に定義問題を克服できたとしても、検査問題の妥当性や信頼性といった技術的な論争にさらされることもある。
 さらに、論争に拍車をかける理由として、学力のアカデミックな定義問題と微妙に関係はしているが、産業界や学界などから期待される学力像が異なることを挙げることができる。
 たとえば、産業界では「コミュニケーション能力」をトップに挙げるのに対して、理工系の学界では、基礎基本となる知識や技能を要求する。どんな学力像をイメージするかで、現状認識も改革の方向も異なってくる。
 そしてとどめは、「政治不信と政治的閉塞状況が、常に、学力低下論争に火をつけてきた」(加藤幸次)ということもある。確かに、学力低下論争は、今回だけではない。十年ごとの学習指導要領の改訂をねらっての政治的な動きがあったことも周知の通りである。
 本文40行*****

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02/10/23海保
111112222233333444445
21字 71行 1500字
市川伸一「学力低下論争」ちくま新書

 本書の特徴を、本のカバー裏の惹句用に書くとすると、次のようになる。 
「硬いドグマが対立する論争の世界に、やわらかいドグマを持って乗り込み、丁々発止とやりあい、もみくちゃにされながらも、「みのりある教育」のための「構造化された折衷論」を提案できた、健全な知性を持った教育心理学者・市川氏の奮闘ぶりと主張を描き切った好著」
 これを解きほぐす形で、以下、本書の書評をしてみる。
●硬いドグマが対立する論争
 学力低下論争は、「ゆとり教育」を標榜する新しい学習指導要領に対して、「大学生の理数能力の低下」「大学受験での学力低下」「社会階層による学力2極分化」という3つの側面から挙げられた反対から始まった。市川氏は、これらの論争「者」を、「学力低下に楽観・悲観」「文科省の教育改革に賛成・反対」の2軸で整理してみせる。なお、「硬いドグマ」とは、悲観・反対を意味する。
●やわらかいドグマをもって丁々発止とやりあい、もみくちゃにされながらも
 市川氏は、「学力低下には憂慮・教育改革には賛成」の立場である。対立軸によっては、あちらについたりこちらについたりにみえてしまう。両派から、この「やわらかさ」をつつかれながらも、書き物による論争はもとより、インターネット討論、雑誌対談、TV討論、さらには、文科省の各種会議などでの場で、リアルな論争を繰り返しながら自説を主張している。これがめっぽうおもしろい。
●「みのりある教育」のための「構造化された折衷論」
 市川氏の自説は、「知識の有用性が子どもにも感じられるような、リアリティのある学習環境つくり」(p79)である。総合的な学習などを通しての実践こそ、「みのりある教育」になるとの市川氏の主張は説得的である。この説は、「知識軽視・ゆとり大切」と「知識重視・ゆとり批判」とを足して2で割ったものではない。認知教育心理学の主潮をべースにした「構造化した折衷論」なのだ。これが、本書を、論争の表面的な解説書ではなく、学力論の本に仕立て上げさせている。
●健全な知性を持った教育心理学者・市川氏
 論争は、極端なドグマを抱えた論者が対立するほどおもしろい。しかし、心理学者は人間への観察眼が鋭いためか?、自分がドグマを持つよりことより、ドグマを持った人を観察するほうに興味を抱いてしまう。なぜ、そんなドグマを持つのか、利害、信念、体験、いずれに因があるのかに興味を抱いてしまう。市川氏も「学力低下論者の心理を探る論考」(p186)を用意し、遠慮がちにではあるが、おもしろ話しを披露している。もっとも、これを、健全というかどうかは実は評者にも自信がない。なお、市川氏の知性の健全さは、ぶれそうでぶれない主張、データの読みの深さ、文献と資料の引用の豊富さと巧みさのほうにこそ充分に発揮されているだが。

 本書は、論争の内容を通して、学力とは何か、子どもに学力をつけさせるとはどういうことかを自然に考えさせてくれる好著である。
 さらに、実は、学力低下論争は、今にはじまったものではない。「政治不信と政治的閉塞状況が、常に、学力低下論争に火をつけてきた」(加藤幸次ら、本書より)ような面がある。政治・官僚主導による猛烈かつ性急な教育改革?が進行している今、これをより「みのりある改革」につなげるにはどうしたらよいかについても、本書を読みながら、自然に思いがいく。

指差し呼称

2007-04-26 | 安全、安心、
2ム10
指差呼称



           指先と口先で安全の確認
●指差呼称
危険予知訓練とならんで、指差呼称訓練は、安全研修の切り札の一つである。
注意すべき対象を指で差し、思い(計画)通りの状態になっているかどうかを確認して呼称するだけのことであるが、これが安全確認には効果がある。
旧国鉄の誰かが発明したらしい。それはさておくとして、ここでは、その指差し確認の心理学的な意味づけをしておくことにする。

●確認を確実に===>「安全・安心の心理学」新曜社へ