追悼、はする方もされる方もむずかしい。
される方は死んでいるんだから気楽?とんでもない。自らの生涯が、残された知己の追悼文によって“総括”される覚悟が必要になるのだ。特に文学者の場合、追悼する側もされる人間もひたすらに癖が強いので、その混乱、哀しみ、冷徹さなど、すべてが興味深い結果になっている。
平凡社の名編集者だった嵐山光三郎が、明治以来の文学者の追悼文をとりあげたこの書は、だから企画自体のセンスが光っている。もっとも、5年の歳月をかけて完成された労作でもあるので、読む方にも覚悟が要求されるのだが。
嵐山がまとめる追悼文の特徴とは……
①ひたすら残念型
②納得諦念型
③死ねばいい人型
④死んでざまあみろ型
があるが、④の場合は追悼など書かない、と見事なまとめ。
さて、明治35年に死んだ正岡子規から昭和58年に死んだ小林秀雄まで、死んだ年にしたがって並べられた(山田風太郎の「人間臨終図鑑」は死んだ年令順)49の死にざまから、興味深いエピソードをピックアップしていきましょう。
◇尾崎紅葉
泉鏡花にむかって「身体を大切にして、まずいものを食っても長生きをして、ただの一冊一編といえども良いものを書いて世に遺すようにしろ」と遺言。
……このおせっかいとも言える師匠の教えを、弟子である泉鏡花はよく守った。しかしただひとつ、芸者を妻に迎えることをとめられた恨みだけは忘れず、かの「婦系図」(湯島の白梅ですな)として作品化している。
◇小泉八雲
八雲の後任の東大教授は上田敏と夏目漱石。このころの漱石の授業は固い英文法講義で、学生たちにはきわめて不評だった。漱石に人気が出るのは、のち、シェークスピアの授業に切りかえてからだった。
……小泉八雲の日本語力は小学校低学年程度。だから「怪談」などの諸作の芸術的香味は、節子夫人の力が大きかったとか。以下次号「牧水、三重吉」篇につづく。