オウム関連の死刑執行に、心のどこかで
「ようやく終わってくれたか」
という安堵の気持ちがあったのは確かだ。あの、激しく異様な事件のことを、忘れてしまいたいと願っていたのも正直なところだから。
わたしの世代には、おなじみの名前が並ぶ。特に、ひとりだけ年長な早川については、どこか他の信者とは違う匂いがすると当時から思っていた。
彼が執行時にどのような思いでいたか、そこは本当に知りたいことだ。プロデューサーであり、フィクサーであった彼が。
ここからは、しかし今回の執行の不気味さにふれる。
それにしても、7人を一気に“始末”したか。平成のうちにこの事件を終わらせたかったとか。わたしは思う。これが21世紀の近代国家がやることなのか。文明国がやることなのかと。しかも、今回は“執行済”のシールがリアルタイムで貼られるようなやり方で。劇場型の死刑。もちろん、死刑とはそういう性格を最初から持っているわけだが。
もちろん、あの事件によってつらい思いをした人たちにすれば、極刑にしてほしいと願ったはずだし、彼らの願いは聞き届けられた。わたしの家族がサリンで死んだら同じことを願ったと思う。
でも、社会全体が犯罪被害者の気持ちと同様になるというのは、やはり感情が優先する国なのだろうと残念に思う。麻原彰晃ではなく、松本智津夫という人間や信者たちが、果たして何を考えていたかはこれで闇の中に消えた。
一気に執行したことで、殉難というイメージもついた。計算づくでありながら、執行する側の軽率さやあせりも垣間見える。実は国家の側も、この措置を少し恥ずかしいと思っているんでしょう。
死刑、という言葉を聞くたびに思い出すのが丸山健二の「夏の流れ」。刑務官のお話。妻との会話から、彼(と妻)の葛藤がにじみ出てくる。
国家が人を殺すということに、もうちょっと意識的でいたい。