十年かけて行われた村上春樹によるレイモンド・チャンドラーの新訳は、この「水底(みなそこ)の女」で完結。長篇はすべて訳し終えたので。寂しい。
これまでの清水俊二氏や田中小実昌氏(コミさん、のほうがとおりがいいかな)の翻訳ももちろんすばらしいが、自制的で、同時に向こうっ気が強く若々しいフィリップ・マーロウ像は村上春樹が造型したもののように思える。
小説を執筆するためにも(頭の別な部分を使うので)翻訳という作業が村上春樹にとって不可欠らしい。とすれば、ハルキ・ムラカミmeets レイモンド・チャンドラーという企画を早川書房がもうけてくれたのはすばらしいことだった。村上にとっても、早川にとっても、読者にとっても。そしてレイモンド・チャンドラーにとっても。
微妙なタイトルの変更などもあって、いかに村上春樹がこの作業にチカラを入れていたかがうかがえる。以下、列挙します。
The Big Sleep 「大いなる眠り」(清水俊二、村上春樹訳とも同じタイトル)
Farewell, My Lovely 「さらば愛しき女よ」(清水)「さよなら、愛しい人」(村上)
……清水題名もすばらしいが、この作品におけるLovelyはダブルミーニングなので、村上題名の方が正確ではある。
The High Window 「高い窓」(田中小実昌、村上とも同タイトル)
The Lady in the Lake 「湖中の女」(田中)「水底の女」(村上)
……湖中も水底もおよそ一般的な言葉ではないので、また新訳が出るとすれば、「レディ・イン・ザ・レイク」になると思います。「ライ麦畑でつかまえて」を「キャッチャー・イン・ザ・ライ」にした村上にしては古風な。
The Little Sister 「かわいい女」(清水)「リトル・シスター」(村上)
The Long Goodbye 「長いお別れ」(清水)「ロング・グッドバイ」(村上)
……ひょっとしたらミステリのタイトルの最高峰かもしれない。
Playback 「プレイバック」(清水、村上)
わたしは思うんだけど、基本的にチャンドラーって(実は村上春樹も)短篇作家なんだと思う。さあ村上さん、あふれるほどのチャンドラーの短篇がまだ残っていますよ。