母親というのは強いものだと思う。自分の身体から出てきた子どもを、だからこそ身体で理解できるし、愛することもできる(もちろん、憎むこともできる)。
父親はその点、どうもあやふやだ。客体としての自分の子を、どう理解していいかわからないところがある。その不安が、世知を説いたり、強引なしつけを押しつけて自分を安心させるのかもしれない。
ましてや、宮沢賢治という、どうにもこうにも理解不能な息子に、父親としてどう立ち向かえばいいのか……
門井慶喜が、宮沢賢治を描くのに父親の視点をもってきた、この時点で勝負ありだ。直木賞も納得できる。
奇矯な性格、法華経への熱狂、夢想的でおよそ世間というものを知ることのなかった賢治と、時代の流れに敏感で、商売上手な父親の微妙な関係がすばらしい。一種のモンスターである賢治が、はたして「雨ニモマケズ」をどのような気持ちで書いたのか、という考察にはうなった。
でも実はこの本を読むのはあまり気が進まなかったの。宮沢賢治は現代では教科書の定番で、「オツベルと象」を国語の授業で習った人は多いと思う。でもわたしが子どものときは、なんと「永訣の朝」だったのだ。
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」(雨雪をとってきてちょうだい)
死の床にある妹の、兄への最後のリクエスト。こんな哀しい話を中学生に読ませるな(笑)。以降、だからわたしは宮沢賢治を読み込んだことはありません。本人が生きているころはまったく作品が評価されていなかったことも含めて、あまりに哀しすぎる。
この作品で、その妹がめちゃめちゃに優秀な女性で、このリクエストが兄を鼓舞する意味合いを持っていたこともわかった。宮沢賢治、読んでみよう。これからは、彼の父親の気分で。