浄土真宗に、修行はありませんが、ただ「聞く」ということを大切にします。
お寺で、あるいは、家庭の法要で仏法を聞く・・・ただ、素直に仏さまの仰せを聞く・・・
これは簡単なようで、非常に難しいことです。
特に「素直に聞く」
ってことが・・・
何しろ「自分は、そこそこ教養ある常識人だ」という自惚れ意識があるので、
仏さまのことも自分の頭(理屈)で理解しようとします。
「何だ、お寺で仏法を聞け聞けと言うわりに、ヘタクソな法話をしやがって
」
「実生活に何の役にたたない話ばかりして・・・」
と。
たぶん、精神修養
、道徳論
ならば、「なるほど
」と「理解」できるのでしょうが、
「阿弥陀仏」とか「念仏」とか聞いた途端、「ゲッ
抹香臭~い、自分には関係ないもんね~
」と、なってしまう。
この「自分は常識がある」という「自分の執着心」こそが問題だと、それに気づかないと、さとりには至らないのですよ というのが、「南無阿弥陀仏」なんですが・・・
それを伝える側も、聞く側も、ホント難しいと思います。
お寺で、あるいは、家庭の法要で仏法を聞く・・・ただ、素直に仏さまの仰せを聞く・・・
これは簡単なようで、非常に難しいことです。
特に「素直に聞く」

何しろ「自分は、そこそこ教養ある常識人だ」という自惚れ意識があるので、
仏さまのことも自分の頭(理屈)で理解しようとします。
「何だ、お寺で仏法を聞け聞けと言うわりに、ヘタクソな法話をしやがって


「実生活に何の役にたたない話ばかりして・・・」

たぶん、精神修養



「阿弥陀仏」とか「念仏」とか聞いた途端、「ゲッ


この「自分は常識がある」という「自分の執着心」こそが問題だと、それに気づかないと、さとりには至らないのですよ というのが、「南無阿弥陀仏」なんですが・・・
それを伝える側も、聞く側も、ホント難しいと思います。
