保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

陰謀の鐘・方広寺

2005-02-28 23:09:26 | シリーズ・京都を歩く
昨日の書いた京都の大仏が建つていた方広寺は
大仏だけの話で終りにするには少し勿体ない
お寺なのです。

実はこのお寺で、秀吉の死後に日本の歴史を動かした
大きな事件が起こったのです。

その事件とは?

三回目の大仏さんが完成した慶長19年(1614)の
大仏落慶供養の時に起こりました。

大仏さん完成からさかのぼること7ヶ月前、
方広寺の梵鐘も出来上がっていました。

秀吉の子、秀頼はこの梵鐘の表面に
「国家安康・君子豊楽」と刻みました。

これを見た徳川家康は、烈火のごとく激怒したのです。
家康の怒りの理由は「国家安康・・」という文字に
ありました。
家康は「家康という名前の間に安をワザと入れ、
引き離して、亡き者にしようと願っている証拠!」と
言いがかりを付け、落慶法要すら中止にしてしまった。

何と、無茶な言いがかりにも感じるが、
関が原の合戦で勝利して以来、虎視眈々と天下を
狙っていた家康にとって日本一の金持ち大名・豊臣家の
存在は目障りであった事は想像に難くないでしょう。
何か口実があれば、豊臣に喧嘩を売り、葬っておきたかった
に違いありません。
家康がこの梵鐘の銘文を見たときの
小躍りして喜んだ姿が目に浮かぶようです。

そもそも、この大仏さんも建立自体、豊臣の
私財を削減さす狙いから、家康本人が秀頼と淀君に
再建を進めたといわれています。

家康の老獪な陰謀に、時勢を読むのが甘いぼんぼんの
秀頼では太刀打ち出来なかったのでしょう。

この事件を境に、慶長19年(1614)10月に「大坂冬の陣」
翌年5月には「大坂夏の陣」が起こり、秀吉一代で築いた
豊臣家は滅亡してしまうのです。

豊臣家の滅亡により、徳川幕府の基盤は磐石のものとなり
その後、約300年近くも日本国を統治していくことになるのです。

日本の歴史おも動かした、この梵鐘は今も方広寺の
境内に残っています。

*写真が方広寺の梵鐘です。