保津川下りの船頭さん

うわさの船頭「はっちん」が保津川下りの最新情報や、京都・亀岡の観光案内など、とっておきの情報をお届けします。

船のネタが書けない悩み。

2005-02-18 19:06:25 | 船頭
冬に入り‘保津川下りの船頭さん’で
あるはっちんのブログはどうも船下りの
話が少なくなっているのにお気付きだと
思います。

二月は、保津川の船下りの宣伝紹介を
趣旨にHPを始めて以来、川下り情報が
最も少ない月になっています。

理由ははっきりしています。

ズバリ!船の仕事が出来ないからです。

常時、お客さん待ちとして乗船場で張り付いて
いても、仕事にあり付けるのは良くて3日に一回です。

大体、週2~3回の割合で仕事にありつけ、
一ヶ月に8~10回というところでしょうか?

サラリーでない私達船頭は、仕事した回数が
給料です。しかも一回の労働賃金は規定の
最低賃金となります。
詳しい数字は控えさせてもらいますが、
まあ~学生アルバイト程度です。

その分シーズン中にガッポリ(?)稼いで
いるのですけど・・・
船頭生活は年間の計画性を持つことが
一番大事なことなのです。

冬の仕事が少ない分、時間はたっぷりある
訳ですから、趣味に没頭したり、旅に出たり
とシーズン中には出来ない事を目いっぱい
楽しみます。

しかしその為、川下りのネタが無くなって
しまい、その他のカテゴリーネタに
頼ってしまうはっちんなのでした。

皆様、今しばらくお付き合いくださいね。
ヨロシク!







京都のラーメン

2005-02-17 21:21:53 | 京都情報
突然ですが、皆さん、ラーメンは好きですか?

今日、テレビのグルメ番組を見ていたら
はっちんの大好きな京都のラーメン店
「ますたに」が紹介されていてビックリ!

今は郊外の街、亀岡に住むはっちんですが、
京都にいた頃は週の4日はラーメンを食べ、
「京都で知らないラーメン店は無い!」と自負し
「ラーメンのことははっちんに聞け!」
言われるくらいの無類のラーメン好きでした。

そんなはっちんが通いつめ、今も京都に行くと
必ず足を運ぶ店が銀閣寺近くにある、
行列の出来るラーメン店「ますたに」なのです。

鶏がらベースの醤油味に、豚の背油を振り掛けた
濃厚なスープは、はじめはあっさりした食感から
入り、食べ進めていく程に濃厚さを増してくるのです。
麺にまとわり付くようなスープは、麺を食べ終えると
ちょうどいいくらいの量となり、スープも残さず
飲み干す事が出来ます。

スープのあと味も口の中にしっかり残り、勿体なくて
グラスに入った水を飲まずに席を立つのです。

番組ではその「ますたに」の初代店主の人生を
振り返り、今の隆盛の秘話を紹介されていました。

このスープの誕生に、京都大学の食品関係の教授が
アドバイスされていたことは初耳で驚きました。
あのスープは最先端の科学だったとは!
どうやら店が京都大学の近所にあることから、
常連のお客さんに教授がおられたそうですが、
初代店主の謙虚な人柄を感じさせるいい話でした。

京都ラーメンの代表格の「ますたに」は
今でさえ行列が途絶えず食べるのに一苦労なのに
今回テレビで紹介された事で、より一層行列が
長くなり食べることが困難になるのでは
少し心配ですが・・・

京都は懐石料理や精進料理、おばんざいなど
和食が有名ですが、実は日本でももっとも
ラーメンの人気とレベルの高い街なのです。

京都ラーメンは「天下一品」や「第一旭」「横綱」
「新福菜館」などの全国展開しているチェーン店も
多く生み出しており、京都人のラーメン好きが伺える。
しかもそのスープのほとんどが濃厚でこってり味というのも
あっさり薄味の京都のイメージを裏切り面白いです。

観光で京都を訪れたら「一食はラーメン」という
のもいいかもしれませんよ。
けっして期待は裏切らないと思います!

ちなみにはっちんは去年、東京に行った時、
「ますたに」の、のれん分け店である
日本橋の「ますたに」に行ってきました。
結構本店に近いものがあり、満足したことを
ご報告しておきます。













京都議定書発効に思う・・・

2005-02-16 21:45:58 | 船頭の目・・・雑感・雑記
本日16日の午後2時(日本時間)に、
地球温暖化防止のため
先進各国の温室効果ガス削減を義務付けた
国際協定「京都議定書」が発効されました。

四季折々の自然の美しさを誇る日本にあって
‘心のふるさと’として愛される京都で、
世界規模での環境対策案がまとめられたことは
とても意義深いことと素直に喜びたいところです。

そしてこのことが私達、近代科学文明の恩恵に
浸っている者にとって、厳しい選択が迫られている
ことの始まりだという事もしっかり受け止める必要
があると思っています。

議定書では、2008~12年の期間に、温暖化原因となる
二酸化炭素(CO2)などの温室効果ガスの排出を
‘90年水準’と比べて先進締約国全体で5%以上削減するよう
義務付けており、私達の日本には6%削減が義務けられています。

現状は毎年削減どころか約8%単位で上昇しているの
ですから、それをさかのぼって90年水準の6%削減と
いうのだから、半端な政策では目標値をクリアー
することは容易なことではないことが理解できます。

しかし、地球環境は明らかに温暖化の傾向を
みせており、その加速度は留まらず増すばかりです。

去年、日本を襲った10個もの台風、スコールの様な
集中豪雨、長く続いた猛暑などは、日本が亜熱帯地帯
へ移行している現象の表れを示し、また同じく世界規模
で起こっている異常気象も地球環境の異変を
間違いなく証明している気がします。

このまま地球の温暖化を進めば、農作物の不作や
生態系に著しい影響が表れ、私達が生きるうえで
致命的な事態を招く事は、世界中の多くの識者が
指摘しているところです。
そしてそれは、けっして科学技術では、問題を
解決することは不可能とも、科学者の立場で
付け加えております。

私達は今、本当に重大な選択を迫られている気がします。

地球には天の計らいによるものか?本来、
二酸化炭素と酸素のバランスは自然に保たれ、
生命の存続に最適の環境を維持してきました。
また、余分な二酸化炭素は海が処理してくれました。

そのバランスが崩れて温暖化現象が起こるほどの
二酸化炭素はいったい何処からでてきたか?
それは拡大再生産の経済活動の産物であるのは
皆さん異論のないところだと思います


温暖化の原因の二酸化炭素(CO2)の排出量に
規制をかけるということは、工業的成長の抑制、
世界レベルでの経済成長の規制となり、
資本主義経済の停滞を意味することは、
今回の議定書に資本主義経済の雄
アメリカが意義を唱え、離脱したことからも
明らかです。

「資本の自由」「個人の自由」という
「無限に純粋な人間の欲望」に支えられた
資本主義経済の停滞は、不況を促進させると
供に快適で便利な生活を 享受する私達、
先進国の生活スタイルの変革を意味します。

私達はいったいどのような選択をするのでしょうか?
否、私はどのような選択をするのか?ということでしょう。

自分の事として足元から考えていきたいと
今日の議定書発効に際して思った次第です。








保津川は来年で400年!

2005-02-15 17:37:05 | 京都情報
私達の仕事、保津川下りは来年で創業400年を迎えます。

その歴史は慶長11年(1606)に嵯峨にすんでいた
豪商・角倉了以によって開運され、京都に丹波地域の
物資を運ぶ運搬船として始められました。


明治時代の末期、西洋近代技術の発達に伴い京都と丹波間に
鉄道網が開通、大正にはいるとトラック会社が設立されるなどで
運搬は陸送が主流となり船運は衰退し、現在の観光船に
移行してきたのです。

古い文献によれば運搬船の時代から大名や京の旦那衆が
船と船頭を雇い、保津川渓谷の川下りを楽しんだ記録が
残っています。また明治末期ごろからは夏目漱石などの文化人や
英国をはじめとするヨーロッパの皇室の方々に贔屓され、
観光船としての地位を築く基になったようです。

第二次大戦中は国中が観光どころではなく、遊船の
乗船客は減少の一途をたどり、また船頭衆の徴兵も加わり
ついに閉鎖という事態に陥ったこともありました。

戦後は日本の高度成長に伴い、一般国民の
観光への感心が高まり遊船事業も再開されましたが、
船頭達にはまだ力がなく、事業の権利は京都の交通会社が
取得する事になり、代々川を守ってきた船頭達には不信感
残りました。
その後、会社と船頭達との間もしっくりいかず
船頭達で組織する組合「保津川遊船労働組合」が結成されことで
対立は表面化し、会社側は船頭になんの相談もなく大手鉄道会社
に船頭ごと経営権を売却したのでした。
大手鉄道会社は経営合理化を推し進め、組合の廃止案など
船頭達にとっては厳しい労働条件が求められました。

この間、4年間。会社側に押さえこまれていた船頭も
ストという強行手段で対抗したものの、一切の要求は排除され、
会社側は営業停止通知とロックアウトを宣言し、全船を倉庫に
収納し閉鎖するという手段で対抗しました。

まる一年の休業を余儀なくされた川下り。時に英国の
エリザベス女王が保津川の訪問を強く要望されましたが、
受入れが取れなかったという日本の恥をさらしたことで
会社側は社屋や造船所を売却、事実上の撤退となったのでした。

その後、船頭達は生活と先祖代々の船事業を守る為、
自己負担で20隻の船を新造して、春の観光シーズンと供に
自主運行に踏み切ったのです。
これが昭和44年(1969)のことで「涙の自主運行」と
いわれ、今の「保津川遊船企業組合」の誕生だったのです。


その保津川下りが来年で400年の節目を迎えます。

今では年間30~40万人の観光客に来て頂いている
保津川下りも、そのほとんどの歴史が船頭の涙と
汗で受け継がれてきたものばかりです。

平和な時代に安定して隆盛を極める保津川に
勤める私達若い船頭ができることは、この400年の
節目を盛大に祝う事だと思うのです。

どの様なイベントを企画するかは、今のところ
まったく白紙ですが、船頭皆が協力して是非、
やり遂げたいです。

このブログをご覧の皆様も何かいい案が御座いましたら
是非、気軽にお寄せ下さい。参考にさせて頂きたいです。

はっちんとしては、北島三郎さんに記念の歌を
つくってもらい、年末の紅白に歌って欲しいと
勝手に願ってますが、実現は難しいですね。

*写真は保津川の記念写真です。前で棹をさしているのが
 私です。これ何年前かな?~

こんな、バレンタインデーのおはなし~

2005-02-14 22:36:22 | 船頭の目・・・雑感・雑記
今日は恋人達の記念日、バレンタインデーでしたね。

皆さん、今年のバレンタインはいかがでしたか?

愛する人に告白できた人、愛する人との愛を確かめ
あえた人、義理のみに終始した人など色々だった
のではないでしょうか?

はっちんの年になるとそれほどの盛り上がりを
感じないバレンタインデーも、若い人たちにとっては
やはり最高にロマンチックな記念日に違いないでしょう。

はっちんの青春時代はこの日があまり好きでは
ありませんでしたね。

なぜ?って、いっぱいチョコを貰い過ぎて食べるのが
めんどくさくて・・・というのはウソ!です。

自慢ではないですが、小学生から大学にかけての学生生活の
間に一個もチョコをもらった記憶がありません。

中学の時にちょうどバレンタインデーという行事が
巷に流行でした頃で、学内でも盛んにチョコ&告白と
いうのが大流行!
思春期のはっちんも誰かがくれるのかな?と内心、
微かな期待をしておりましたが、そのような気配は
微塵もなくその日が暮れていったものです。
結局、3年間なにもないバレンタインデーでした。

そのショックからか?高校は男子校へ行き、まったく
無縁の状態。

大学でもこの時期はもう春休みで、クラスメイトと
顔を合わす事もなく、義理チョコもなし!

世の中はすでにバブル全盛の時代。
クリスマスと同じくバレンタインデーも
学生の身分でも、高級ホテルで最高のディナーを
食べるやらなんやらで最高に盛り上がっておられたご様子でした。

そんな盛り上がりを尻目に、同じ境遇の野郎達と
ガード下の寂れた居酒屋で冷酒を傾けながら
「なんで俺達にはバレンタインがないんだろ?」と
真剣に語ったものです。

仕舞いには「バレンタイン・デーは、英語では『Saint Valentine’s Day』
や。キリスト教徒でもない奴らがお菓子メーカーの陰謀にはまりやがって・・」
とひねくれたことをいう奴も出てくる始末。

改めて振り返ると、こと恋愛に関しては本当に
寂しい青春だったな~とおもいます。





いつの時代もラブソングは最高!

2005-02-13 12:32:13 | 船頭の目・・・雑感・雑記
昨日の夜、夕飯をいただいていた時のことです。

テレビから懐かしい歌の調べが聞こえてきて思わず
箸をとめて見入ってしまいました。

番組はバレンタインのラブソング特集。
観られた方も多いのではないでしょうか?

80年代~2004年までの冬のラブソングを
集め、幾つかのテーマ別に紹介されていました。

80年代~90年代に青春を過ごした、私はっちんに
とっては懐かしい歌もたくさん流され、楽しませてもらいました。

やっぱり歌はラブソングがいいですよね!

どんなに古いラブソングでも、いい詞と調べには
心にグッと響くものがあります。

たとえ時代が変わり科学技術が進歩しても人を好きに
なる感情、本質というものは変わらないだな~と感じます。

遠い昔に詠まれた小倉百人一首なんかも、当時のラブソング
だったと思います。平安の昔の人達も激しい恋に身を焦がして
いたのがその詞から伝わってきます。

小倉百人一首は平安時代に藤原定家が嵯峨の小倉山ふもとに
庵(今のニ尊院か常寂光院だといわれている)を設け
自分の気に入った歌を編集したものですが、恋の歌も多く、
人を好きになった時の切ない激しい感情が詠まれていて
時代を越えて共通する感情が心に迫ります。

京都にはそのほかにも「源氏物語」や「平家物語」など
恋心を描いた作品があり、近代でも川端康成や森鴎外、水上勉
などの作家が素晴らしい文学を残しておられます。
京都の自然と風情が人の最良の心情である恋心に響き、
時代を越えて愛され共感をおぼえる作品を生んだのでしょうか?

このような‘恋心’を現した文学が多いのも京都の雅を
引き立てている魅力となっているのでしょう。

人を好きになるとありのままの自分を見つめることにも
なります。素直で純粋な感情と自分の方を見つめて欲しい
という自我の感情とが心の中でぶつかります。
その都度、自己嫌悪に陥り、切なく魂が揺さぶられます。
でも最高の恋人とは、そんな自分の最良の部分を引き出して
くれる人であると信じます。

あなたがいたから、君と出会えたから自分の人生に意味が
生まれ、生きる意味、目標がわかったと素直に思える
それが最高の恋人なのでしょう。

人の最良の心情、やさしく繊細な心を引き出す
素敵なラブソングはこれからも多くの人の心を
引き付けて離さないことだとでしょう。

はっちんはそんなラブソングが大好きです!






冬の保津川、久々に二ケタの流船です。

2005-02-12 21:20:27 | 船頭
一月の末から2月の初旬は保津川下りに
とって最も厳しい季節です。

何が厳しいかって?

もちろん身を切る様な渓谷の寒さも厳しいのですが
それ以上に厳しいのは川下りにお越しいただく
来客数が著しく減少することです。

シーズン中なら百隻近くの船が流れることも
珍しくない保津川下りですが、この時期は最悪で
予約がない日には一隻も流がれない日
すらあるのですから、さびしいものです。

そんな状況の中、今日は何が起こったのか、
11隻もの船が流れたのでした。

確かに予約が6隻入っていたのですが、
その他のお客さんで約ダブルスコアに
持っていけたことは特筆に値する出来事です。
天気も先日の様な小春日和でもなく、相変わらず
頬に当たる風が冷たい日でしたから
よくわかりません。

これが本当の水商売というものでしょうか?

今日の保津川周辺は、朝がたまで相当冷え込んだ模様で
愛宕山もすっかり雪帽子を被っていました。

朝一番の船なら山の雪景色が見られたかも
しれませんね。

明日は予約が3隻入っています。
もし今日ぐらいの来客数ならはっちんにも
出番が回ってくるのですが・・・

予測がまったくたたないこの時期の仕事。
明日も贅沢な?待ち時間を堪能したいと思います。



日本武道の殿堂・旧武徳殿

2005-02-11 22:19:43 | シリーズ・京都を歩く
平安神宮の西隣に建つ旧武徳殿は、
平安遷都1100年を記念し武術の振興を図る目的で
設立された大日本武徳会によって、
明治32年に建設された武道場です。

観光客で賑わう平安神宮の喧騒をよそに、その建物周辺には
人通りも少なく静かにひっそりたたずんでいます。

現在は向かいに建つ京都市武道センターの併用施設として、
合気道・剣道・長刀・柔道等の武道道場として
用いられています。

武徳殿は、伝統的な形式に則りながら変化に富んだ外観を持つ点や、
演武場と観覧席からなる簡素な空間構成、四方に大きな開き扉
を設置し外の明りを広く取り入れる工夫が凝らしてあるのが特徴です。

我が国の武術の振興とその近代化に大きく貢献した
近代的武道施設を代表するものとして貴重な武道場なのです。

重要文化財に指定されている旧武徳殿は建物保存という見地から
一時期、一般に使用されることを控えられておりましたが、
近年また演武会や大会に使用されるようになったようです。

空手という武道をたしなむはっちんにとっても
この建物は特別な思い入れがある、まさに聖地なのです。

明治の時代、武士の技術と精神を継承する為、時の政府の肝いりで
京都に大日本武徳会が組織されました。
武徳殿はその本部道場でした。また隣には、武徳会が
後進の育成を目的に創立した「武道専門学校」があり
学生達の練習場でもありました。

武道専門学校は京都では略して武専と呼ばれ、剣道、柔道の
選りすぐりの猛者たちが日本中から集められたまさに武道の
エリート学校です。
そのバンカラさは当時の京の町衆達の目を引く存在だったようです。

武専は漫画「龍(ロン)」で主人公の龍が剣道の修行をした
ことでご存知の方もおられると思います。

厳しい世情を背景に武道を極めんと志した先人達の
血と汗と涙が染み付いた建物がこの武徳殿なのです。

はっちんが初めてこの武徳殿の門をくぐったのは今から10年前、
ある空手組織の来賓として招かれ時でした。
当時では武徳殿を使用することが珍しいこともあり
その時の記憶は決して忘れることはないくらい衝撃的でした。

武道に青春を燃やした先人達の熱情と鼓動が武徳殿の柱一本一本から
伝わってくる様な気がして背筋に張り詰めたものを感じずにはいられません。

今は武徳殿を使った空手の大会も珍しくなくなってきています。
はっちんは現役時代に一度もこの武徳殿で
戦うことができませんでした。
悔いは確かに残ってますが、その思いはわが道場の弟子達が
引き継いでくれることだと楽しみにしています。

*写真は武徳殿正面です。資料によると設計は京都府技師だった松室重光。
 その後大正2年に同技師亀岡末吉の設計により、北側上段に玉座が設置し
 皇族用に車寄を増築しました。観覧席も二段から三段に改造しています。
 和風の外観ですが,洋式トラスを用いた構造です。
 中央部分を武道場に,周囲のもこし部分をお座敷型の観覧席に当てています。

京のおばんざい。

2005-02-10 23:35:02 | 船頭
京都を訪れる観光客に人気の食べ物といえば、
「おばんざい」を思い浮かべる人も
多いのではないでしょうか?

このたび京都府では、府内のデパートやコンビニで
売っている弁当の中で、健康や栄養のバランスの
とれた物には「京のおばんざい弁当」として
名乗ること認め、販売促進に役立ててもらおうと
いう計画まで立っているほどの人気料理なのです。

そもそも「おばんざい」とは京都の人達が
日頃食べていたご飯のおかずのことをそう呼びます。

京都の家庭では炊きもののことを「炊いたん」
煮物のことを「煮たん」などという独特の京言葉で
呼んであたり前に食べている料理ですけど・・・

核家族化と即席惣菜物の増加ともない、昔からの手間ひまかけた
和の家庭料理を食べる機会が少なくなった事情と
ヘルシー志向が相まっての流行だそうです。

京都以外でも昔はおばあさんやお母さんがつくって
食べさせてくれた物ではあるのでしょうが、
戦後の西洋料理の流行におされ、最近では
食卓に上ることもめっきり少なくなりました。

「おばんざい」は地元京都の野菜など素材の
旨味を生かし、丁寧に仕込んだダシでしっかり
味付けします。だしは京風の薄味なので健康的で
ナチュラルなのです。

はっちんなんかは子供の頃、いわゆる「おばんざい」
というおかずばかりを母に食べさせられました。
子供にはその料理の良さはまったく理解できずただ
「身体にいいから残さんと食べとき!」と
母に叱られいやいや食べていたものです。

でも、ふと、おふくろの味が恋しくなり実家に
帰って食べたくなるのも「おばんざい」で
あることは確かです。

「おばんざい」を求め京都に来られる方の
気持ちもこれに似ているのかも知れませんね。

毎年多くの方々が、古きよき日本を求めて京都に
お越しくださいます。寺院や風習などと同じく
食の歴史にも癒しの精神が残るのも京都の魅力ですね。

でも、やっぱり西洋料理の方が好きなはっちんです。




京の五条の橋の上

2005-02-09 23:33:03 | シリーズ・京都を歩く
京都の繁華街の中心、四条河原町の交差点を
約1kmほど南に下がると五条通りが通ってます。

その通りの東方に鴨川に架かる橋「五条大橋」があります。

片側2車線の大きな橋で、この五条通りも西国と関東を
結ぶ国の大動脈です。一部昔の東海道とも重なります。

この五条大橋こそ、平安の昔、牛若丸と弁慶が決闘した
ことで有名なあの「京の五条の橋」です。

もっとも今の五条大橋は後年、豊臣秀吉が架けたもので
平安の頃はすぐ上流に架かっている松原橋の位置に架けて
あったそうですので、厳密には今の橋ではないのですが、
名が残っているからなのでしょうか?
京都では五条の橋いえば今の橋をいうようです。

先日、NHK大河ドラマの「義経」で決闘の場面が
やっていたので、久しぶりに行ってきました。

はっちんがこの橋を徒歩で渡るのは二度目で、
幼き頃、母に連れられこの橋を渡った記憶があります。

母はこの橋の上で牛若丸と弁慶の話をしてくれました。
「都の人達に恐れられた弁慶というこわ~い荒法師が
夜な夜なこの橋に現れては、平家の人達などから
太刀を奪っていた。その数999本」
「その夜も千本目を奪おうと待っていました」

もうすっかり聞き込む幼きはっちん。

「そこへ牛若丸がやって来たのです」
「牛若丸は稚児姿の美しい少年で、笛を吹きながら
橋までやって来た。女の人の様な美しい牛若丸でしたが
鞍馬の山で天狗を相手に剣術の修行をしていたから
腕に覚えありです」

幼きはっちんにとって、牛若丸の登場シーンは
まさにヒーロのそれとすっかりかぶったのです。
「それでどちらが勝ったの?」
話の先を急かす幼きはっちん。

そこからは皆さんご存知の通り、弁慶の大なたを
するりとかわし、あちらと思えばばまたこちら
橋の欄干の上を飛び交わす飛燕の早業で弁慶は降参したのです。

話を聞き終わっ時「この欄干に立ったのか~すげ~な」と
感心して大きな欄干を見上げたことを覚えています。

今、その同じ欄干と再会してきました。
しかも同じ目線に立って。
その目線を静かに閉じると、遠い日の親子の
姿が明々と浮かんできます。
感慨深くって、しばらくその記憶に浸ってしまいした。

本当に年月の経つのは早いものです。

もう、「欄干の上に立った」など信じることも
出来なくなった自分に少し寂しい気分です。

幼きはっちんのヒーロだった「牛若丸」も
後に学校の歴史の時間に「源義経」として
学び、学術的という名で検証され
その実像を知識として知るに至りました。

弁慶との出会いや五条の橋の決闘の内容も
史実的には?が付くといわれ、幼き頃の夢も
覚めてしまいましたが、兄頼朝に追われ、落ちていく
義経と最後まで離れることなくお供した弁慶。
その男気の事実だけは、はっちんの胸を今も熱くしてくれるのです。

*写真は五条大橋の西詰めにある「牛若丸と弁慶」の石像です。
 橋のシンボルとして、今から40年ほど前に造られたものだそうです。