本日は、富士フィルムフォトサロン→時計台→道新→芸術の森→市民→スカイホール→さいとうの7か所。芸森で手こずり、力尽きた。
■札幌芸術の森美術館「絵画と写真の交差」。写真と絵画は別の表現でもあり、交差するものでもあり、大変面白かった。しかし、作品保存のために照明が暗く、かつ細かい図版が多い。久しぶりに眼の限界を感じた(←老眼)。それから東京富士美術館の作品が展示の大部分を占めているのだが、古典絵画の部門では見たことのある奴が多かったなあ。少し残念。
カミーユ・コロー「ユディト」:この作品は初見かな? パッと見て分かるコローらしさである。
ギュスターブ・クールベ「水平線上のスコール」:この作品を思わせる写真と並んで展示されており、なるほどなあと思う。
クロード・モネ「プールヴィルの断崖」:モネは「睡蓮」以外の作品が好きだったりする。この風景はなかなか。
ブーグロー「漁師の娘」:これはとにかく上手い。何だか絵画としての意味を失い、写真でもいいじゃないかと思わせる作品だ。
アンドレ・ジルー「無題(倒れた森の木)」:写真は肖像画や風景画の代わりとしてスタートしたような気がするのだが、こういう特に意味合いの感じられない作品はなぜ残ったのだろう。ただ普通の木が倒れているだけで、撮影してもコストに見合わないような気がする。
クリムト「横顔を見せる少女」:クリムトにしてごく普通の画。かえって不思議。
モルテンセン「壺にミルクを注ぐ女性」:フェルメールの作品をパロディ化したような感じ。絵画に比べて作品そのものを作る時間はかからないため、パロディの道具としての写真というのは、意味がありそうだ。
アンドレ・ケルテス「憂鬱なチューリップ、ニューヨーク」:ガラスに入ったチューリップの首が折れ、置台につきそうになっている写真。こうなると単なる記録ではなく、表現作品という感じがしてくる。
佐藤時啓「ホルンド・メロン」:最後のコーナーは「新たなる”光”の考察」となっている。印象派はある意味”光”をとらえようとする試みであったと思う。それならば、写真は印象派の正当な兄弟と言えるだろう。より低コストで誰でも”光”を切り取ることが可能になる手段だからだ。しかし印象派は「気配」「空気感」を描こうとする試みでもあると思う私にとっては、全く同一の目的だけをもつものではなく、写真も絵画もそれぞれに意義があるのだ、と思っている。
→鴨軍団がやってきた。
■市民ギャラリー「北海道抽象派作家協会展」。見る私のレベルが上がっているのだろうか。毎年どんどん面白くなる展覧会である。今年は特に第1室の全体的な作品配置が良く考えられていると思う。
まずギャラリー奥には外山欽平「Liberty?」だ。アルファベットの”L”をモチーフにした100号の作品12枚を一つの展示としてしまうのだから豪快だ。ただ、去年の”k”が非常に人間ぽく感じられたのに比べ、直線主体の”L”は硬い(特に中央部)と思う。
逆サイドが鈴木悠高さん(←”さん”付けは、知り合いのため)の「Yellow2009」。外山作品と見事に対峙する位置に黄色の作品が配置された。私はどうも展示位置が下すぎるのではないかと思ったのだが、鈴木さん曰く「床に黄色が映りこむでしょう」ときた。なるほど市民ギャラリーの黒い床に黄色が混じり合い、さらに世界が広がって見える。さらに「壁に張らないで、天井からチェーンで釣ろうかとも思った」とのこと。常日頃から展示の仕方も含めていろいろと考えている人だ。
2大作の中央床に林教司さんの「news paper」。新聞を固めたものだけに、人類の歴史の堆積物というイメージだろうか。それは何か価値があるものだったのだろうかと思わせる作品だ。
名畑美由紀「混沌A」「同B」「同C」は、ピンクを選択したのが少々不思議な感じだが、堂々たる力作。
第2室へ。ここは私の好みとしては相当分かれるのだが、圧倒的に石川潤の「呼吸」が素晴らしかった。2年前に見てからずっと気になる作品を発表してきた人だが、「All Japan Under 40 Collections in Sapporo」で発表した作品の系列と思われる今回作は本当に素晴らしいと思う。
写真写りに限界があると思うのだが、白色から様々に色づきながら内側へと落ち込んでいくように見える形。これを描けることが羨ましいとさえ、珍しく思った私である(私は全く画を描かないので、技術的に感心しても羨ましくなることはない)。
いろいろと思うところがあり、長文になった2展覧会であった。
■札幌芸術の森美術館「絵画と写真の交差」。写真と絵画は別の表現でもあり、交差するものでもあり、大変面白かった。しかし、作品保存のために照明が暗く、かつ細かい図版が多い。久しぶりに眼の限界を感じた(←老眼)。それから東京富士美術館の作品が展示の大部分を占めているのだが、古典絵画の部門では見たことのある奴が多かったなあ。少し残念。
カミーユ・コロー「ユディト」:この作品は初見かな? パッと見て分かるコローらしさである。
ギュスターブ・クールベ「水平線上のスコール」:この作品を思わせる写真と並んで展示されており、なるほどなあと思う。
クロード・モネ「プールヴィルの断崖」:モネは「睡蓮」以外の作品が好きだったりする。この風景はなかなか。
ブーグロー「漁師の娘」:これはとにかく上手い。何だか絵画としての意味を失い、写真でもいいじゃないかと思わせる作品だ。
アンドレ・ジルー「無題(倒れた森の木)」:写真は肖像画や風景画の代わりとしてスタートしたような気がするのだが、こういう特に意味合いの感じられない作品はなぜ残ったのだろう。ただ普通の木が倒れているだけで、撮影してもコストに見合わないような気がする。
クリムト「横顔を見せる少女」:クリムトにしてごく普通の画。かえって不思議。
モルテンセン「壺にミルクを注ぐ女性」:フェルメールの作品をパロディ化したような感じ。絵画に比べて作品そのものを作る時間はかからないため、パロディの道具としての写真というのは、意味がありそうだ。
アンドレ・ケルテス「憂鬱なチューリップ、ニューヨーク」:ガラスに入ったチューリップの首が折れ、置台につきそうになっている写真。こうなると単なる記録ではなく、表現作品という感じがしてくる。
佐藤時啓「ホルンド・メロン」:最後のコーナーは「新たなる”光”の考察」となっている。印象派はある意味”光”をとらえようとする試みであったと思う。それならば、写真は印象派の正当な兄弟と言えるだろう。より低コストで誰でも”光”を切り取ることが可能になる手段だからだ。しかし印象派は「気配」「空気感」を描こうとする試みでもあると思う私にとっては、全く同一の目的だけをもつものではなく、写真も絵画もそれぞれに意義があるのだ、と思っている。
→鴨軍団がやってきた。
■市民ギャラリー「北海道抽象派作家協会展」。見る私のレベルが上がっているのだろうか。毎年どんどん面白くなる展覧会である。今年は特に第1室の全体的な作品配置が良く考えられていると思う。
まずギャラリー奥には外山欽平「Liberty?」だ。アルファベットの”L”をモチーフにした100号の作品12枚を一つの展示としてしまうのだから豪快だ。ただ、去年の”k”が非常に人間ぽく感じられたのに比べ、直線主体の”L”は硬い(特に中央部)と思う。
逆サイドが鈴木悠高さん(←”さん”付けは、知り合いのため)の「Yellow2009」。外山作品と見事に対峙する位置に黄色の作品が配置された。私はどうも展示位置が下すぎるのではないかと思ったのだが、鈴木さん曰く「床に黄色が映りこむでしょう」ときた。なるほど市民ギャラリーの黒い床に黄色が混じり合い、さらに世界が広がって見える。さらに「壁に張らないで、天井からチェーンで釣ろうかとも思った」とのこと。常日頃から展示の仕方も含めていろいろと考えている人だ。
2大作の中央床に林教司さんの「news paper」。新聞を固めたものだけに、人類の歴史の堆積物というイメージだろうか。それは何か価値があるものだったのだろうかと思わせる作品だ。
名畑美由紀「混沌A」「同B」「同C」は、ピンクを選択したのが少々不思議な感じだが、堂々たる力作。
第2室へ。ここは私の好みとしては相当分かれるのだが、圧倒的に石川潤の「呼吸」が素晴らしかった。2年前に見てからずっと気になる作品を発表してきた人だが、「All Japan Under 40 Collections in Sapporo」で発表した作品の系列と思われる今回作は本当に素晴らしいと思う。
写真写りに限界があると思うのだが、白色から様々に色づきながら内側へと落ち込んでいくように見える形。これを描けることが羨ましいとさえ、珍しく思った私である(私は全く画を描かないので、技術的に感心しても羨ましくなることはない)。
いろいろと思うところがあり、長文になった2展覧会であった。