いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

1339年のプロパガンダ

2005年02月27日 13時18分27秒 | 日本事情
関東平野。典型的な冬晴れ。気温は低いが、日差しがまぶしい。

常陸の国、筑波山麓の小田城址。

今は田んぼ。つわものどもが夢のあと。

ここで、600年あまり前、北畠親房が、大日本は神国なり、で始る『神皇正統記』を書いた。
別にその場に行っても当時のものは何もない。当然である。が、親房が毎日見ていただろう筑波山はある。



村松剛は『帝王後醍醐』において、後醍醐帝の出現なしに明治維新はなかった、と言っている。もちろん、後醍醐が明治維新の時代に生きていたわけではないから、村松のものいいは隠喩・暗喩である。

後醍醐帝:幕府なしで国政をせむとした、日本史上全く特異な帝。 鎌倉幕府滅亡後日本を統括しようとするも、足利尊氏が別の帝を京都に立て、事実上敗北。吉野にいわゆる南朝をつくる。

村松の言いたいことは、幕府を廃し、自ら日本を統括するという帝モデル、がなければ明治維新のむつひとさんはありえなかった。

◆この『神皇正統記』、岩波文庫などにあるはずなのだが、 品切れ。 原物を読まずして、周辺から情報を集める。

◆親房がなぜ、吉野や京都からはるか遠い関東で、この「神皇正統記」を書いたか?それは東国の武士団に南朝を支持するように工作するためであった。
 親房が筑波山麓に来たときに後醍醐帝の崩御を知る。そして、5年をかけて「神皇正統記」を書く。これは親房が結城親朝を説得するための政治文書と考えられている。
 この書の「天皇」論のポイントは;
・「天皇」は血筋ばかりでなく、その君徳が必要である。
・三種の神器が重要。
・国政では、公家は武士より高い位置で「天皇」補佐する。
(日本の歴史⑥ 永原慶二 小学館 1992)

◆<書かれたもの>の運命。古書検索で『神皇正統記』を検索すると、戦前のものが多い。これは戦争のための国民精神の総動員の政府の施策と共振するものだろう。20世紀前半、14世紀に<書かれたもの>を多くのひとが読み込んだのである。