いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

岩出山 有備館 -仙台参り2006 ②-

2006年09月26日 21時07分00秒 | 仙台・竹雀・政宗

岩出山 有備館
岩出山は今でこそ宮城県「北部」であるが、江戸時代の伊達領(南は刈田・白石、北は江刺・気仙までの領土であった)の中央に位置した。これは現在の宮城県が旧伊達領より相当小さいことを意味する。

岩出山は政宗の「政庁」が12年間(1591-1603)あったところ。政宗は25才のとき米沢からここへ来て37才の時仙台に去っていった。仙台建都が政宗の権力の結実であるなら、岩出山はその権力を秀吉や家康と渡り合って作っていた時代の「政庁」だったこととなる。

ちなみに、家康は政宗が岩出山に入る前に秀吉の命令でこの地の平定のため来たことがある。岩出山を城にしたらよいと政宗に勧めたのは家康とされている。

その後、岩出山知行地1万5千石は政宗の4男宗泰が初代岩出山伊達家領となる。



岩出山伊達家の3代敏親、4代村泰にそれぞれ、冷泉為清(冷泉家12代1631-1668)の娘於妻、冷泉為綱(13代 1664-1722)の娘伊世が嫁いでいる。この時期に有備館が学問所としてできた。つくったのは上記3代敏親、4代村泰。


冷泉家からの品. 冷泉当主自筆の和歌







明治2年9月1日

最後の岩出山伊達家の当主伊達邦直は家臣を有備館に集め、蝦夷への移住を発表する。

これは戊辰戦争で仙台伊達家は敗北し、62万石が28万石へと激烈に縮減される懲罰が薩長「新政府」に決められ、仙台の伊達宗家は白石の片倉家など片腕をもふくめ親族の大半との主従関係を解消せざるを得なくなったからである。



岩出山旧伊達家家臣たちは、彼らは有備館で学んだ、現在の北海道は石狩の当別に移住するのであるが、開拓地においても邦直とともに歌会をしていたとのこと。

ちんぴら薩長の クロダキヨタカ クン(酒乱で細君を惨殺したとうわさされる)が北海道開拓庁長官であった時代である。