いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

大崎の復活 -仙台参り2006 ③-

2006年09月28日 20時50分52秒 | 仙台・竹雀・政宗


武家家伝 大崎氏 より
大崎氏は中世以来栄えた名門であったが、戦国時代という乱世にあたって優れた当主を得られず、家中の反乱をついに克服することができなかった。さらに、伊達政宗に降ったことで、中央との直接外交の途も閉ざしてしまった。一方、伊達政宗は傘下となった周辺の大名・国人らの頭領的立場で行動したため、大崎氏らとしても政宗に遠慮して独自に小田原に参陣することをはばかったと想像される。いいかえれば、みずからの運命を政宗に委ねたところに没落の要因があったといえよう。

伊達に滅ぼされた大崎の名前が21世紀に復活した。

この「大崎」の復活は、ある意味唐突とも言えそう。なぜなら、新生大崎市の、例えば高校など既存組織名においては、「大崎」の名が付いたものはひとつもない。これは「大崎」が地名ではなかったからだろう。旧地名でもない「大崎」の復活は、かつての領主としての「大崎」の復権を目指すものとしか考えられない。もしそうなら、なぜ?

思いつくところとして、県北人の仙台への対抗意識かな?県北ナショナリズム、というかセクショナリズムというべきだが、のシンボルに、伊達に対抗して大崎を持ち出した。

ウィキペディア(Wikipedia) 大崎市





今回、おいらがわかったことは、新しくできた大崎市は、鳴子→岩出山→古川と江合川という川が火山及び火山起源堆積物山地を侵食して形成した「溝」状の細長い平地上にあること。江合川流域ということ。そして、その流域は平地で広大な米作地帯。

溝」状の細長い平地は上の写真のピンク線で挟まれた地域。


大崎市の概要

政宗が、滅ぼした大崎の名を残したのが、大崎八幡宮。 過去の記事・『覗写・大崎八幡宮 』