いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

ラールキラー参り

2007年10月07日 21時11分59秒 | インド・2・4・5回目


デリーに行けば必ずお参りしたいラールキラー。前回・インド3回目ではお参りできなかったので今回はする。向かいのチャンドニチョークは日曜日のためか驚愕するほどの人出。日本の正月の明治神宮並。チャンドニーチョークから道を渡ってラールキラーの敷地の入り口にチャンドラ・ボースの顔と何か書いてある。ヒンディー語なのでわからん。


ラールキラーはいつもがきんちょ集団多し。


ディーワーネ・ハース。 1857年のインド大反乱の時、最後のムガール皇帝バハードゥル・シャーII世は、ここでメーラットから進軍してきたスィーパーヒー軍のクーデターに担がれることを容認し、大反乱敗北後はここで英軍から裁かれ、ビルマへと追放されていった。ムガール帝国の「市谷1号館」である。



それらを見ていたお花。


カシミール門 Kashmiri gate

2007年10月07日 13時44分39秒 | インド・2・4・5回目


朝1時間ちょっとの時間を使って、カシミール門を見に行く。コンノートプレース近く(ニューデリー地区)からオートリキシャで20分ほど。100ルピー。

途中、トルクマン門やデリー門の通り、すなわち道の脇に露天商が群がる絵に描いたようなオールドデリーの風景がすごかった。さらに、ラールキラー正門前を通って、カシミール門に到着。

案外、目的のカシミール門が、壮厳あるものではなかった。これがホントにカシミール門なのか今もってちょっぴり不安。「仁和寺の本尊」を拝み損なってはいないか。

ここで、1857年、大反乱(セポイの乱)で蜂起したスイパーヒー兵士が60km北のメーラットからデリーに進軍した時、英軍と衝突した所。

石壁に弾痕があるわけでもなかったが、こんなん↓あった。

 

英軍のためのモニュメントらしい。
でもJohn Smithさんって、ほとんど、山田太郎さんだよな。

 

今はカシミール門には地下鉄の駅ができている。

メヒローリー・モーティーマスジッド

2007年10月07日 06時20分20秒 | インド・2・4・5回目








せっかくインドに来てもデリー勤務でアグラの田島春さんの会えない人のための、デリーのなんちって田島春さん(お家没落寸前の末っ子)。

デリーの南のメヒローリー(Mehrauli)にあるモーティー・マスジッド(Moti Masjid)横のムガル帝国末期の皇帝の住居(宮殿)に行った。デリーっ子は誰も知らない。

おいらは、モーティー・マスジッド、というカタカナ日本語の情報だけがあったので、インド人にアルファベットに音感から落としてもらい(Moti masjid)、googleで検索したら果たしてあった。地図検索すると、メヒローリーバススタンドの近くということ。最も拡大したgoogle mapを元に、雇った車と運転手と出かける。

運転手もモーティー・マスジッドなんて知らないけれど、メヒローリーバススタンドなるたぶんバスターミナルに行ってその場の人に聞いてもらってえば行けると思っていた。

メヒローリーという街は、チャンドチョークとはちょっと雰囲気は違うが、ムガル帝国の雰囲気が残る古い街。ステレオタイプでいうと、ペルシアかトルコかって感じ。頭に白い帽子を乗せたムスリム多し。

でも、最初聞いた5人くらい、最後は店をやっている老人経営者などに聞くも、誰も明確にモーティー・マスジッドの場所を知らない。

やっと、事情がわかってそうな50歳すぎくらいの普通のおじさんから運転手が話しを聞く。閉鎖されていると。

そんなことを聞いてもおいらは閉鎖なら閉鎖でその閉鎖を見に行くからということを運転手にいう。その50歳すぎくらいの普通のおじさんを車に乗せ、3人で行く。結果そう遠くないところに車は着いた。ただし、道が狭くでめちゃくちゃなので、外来の人には何がなんだかわからない。ステレオタイプでいうと中世城壁都市内部って感じ。

そこは、ムガール帝の宮廷よりはとなりのイスラム聖者の寺(ダルガ)が現在有名でかつにぎわっている。参詣の狭い通りがあり、両脇にはイスラムの参詣通りの典型のごとく、物乞いはじめいろんな人が座りこんでいる。

イスラム聖者の寺(ダルガ)から、たぶん抜け穴だろう、宮殿と廟に行く。おいらとガイド以外誰もいない。ただ、一人の人が寝ていた。

この宮殿で、ムガル皇帝・バハードゥル・シャー2世 Bahadur Shah IIは、ラール・キラーをイギリスからおん出されたあと住んでいたらしい。大反乱(セポイの乱)の前である。こういう風にイギリスからおん出されたので、大反乱(セポイの乱)のクーデターの御輿に皇帝として乗ってやったと思われる。