- 丸顔のうめちゃん -
- - こりゃどうじゃ 世はさかさまになりにけり 乗った人より馬が丸顔 - -
奇兵隊を組織してその総督となり、さっそうと馬を駆ってゆく高杉晋作を見て、だれかがつくり、皆が和したという歌である。
奈良本辰也・『高杉晋作』
■文九3年、1863年は皇室の歴史で区切りの年と言えるかもしれない。なぜなら、その時のすめろぎの おさひと さん(孝明天皇)は、江戸時代ずーと事実上すめろぎさんが御所に軟禁されていたのを「破り」、賀茂社と石清水八幡宮に行幸したからである。
目的は、攘夷祈願。
さて、当時の事実上の最高権力者の官位は、征夷大将軍である。
つまり、『やっちまえ』とすめろぎ様からお武家さまの棟梁に指示。
■順法闘争
このガイキチ行幸の3年前、現実的外交を志向した井伊直弼はテロにより殺害されている。このガイキチ・『やっちまえ』が日本を、そして皇室を動かした瞬間である。その、ガイキチ行幸の第1弾の賀茂社行幸で、町御奉行滝川藩磨守を先頭とする行幸に追従した徳川将軍、つまりはえびすを討つ将軍に向かって、脇から「征夷大将軍!」と大声を投げかけたのが高杉晋作とされる。こういう場面らしい;
晋作が京都に着いて間もなく、三月一一日に天皇の賀茂社があった。これまで禁中の外に一歩も出たことのない天皇が、攘夷実行を祈願するもので、これを演出したのは、久坂玄瑞ら尊攘檄派の人々である。上洛中の将軍家茂と諸侯が供奉を命じられた華麗な行列であるが、これを晋作は群衆の中から見た。
将軍家茂が騎馬で差し掛かったとき、突然晋作が「征夷大将軍」と大声を発した。鴨の河原に陣取る晋作と将軍の距離は、僅かに四、五間、10メートルもなかったというから、目と鼻の先で叫んだことになる。
海原徹 『高杉晋作』
そうなのだ。別に悪いことは言っていない。家茂は征夷大将軍なのだ。
さて、このとき、海原徹・『高杉晋作』には書いていないが、晋作の横にいたのが山縣有朋。伊藤之雄 (犬好き) 『山県有朋』に書いてる。
三月一一日、孝明天皇が攘夷祈願のため賀茂両社(上賀茂神社、下賀茂神社)に行幸した。これに上洛中の将軍家茂が付き従った。高杉と山形は鴨川の河原にひざまずいて拝観した。家茂が二人の前を通過した時、高杉は「征夷大将軍」と大声を発した。将軍のお供の者が高杉の方を見たが幸い何事も起こらなかった。
そして、同書73ページの山縣の写真を見ると、これまた高杉に負けず劣らずの馬面である。
行幸前にちゃんとチェックしたのかよ!? 新撰組! こんな馬面ふたり連れどう見てもあやしいだろう。
→おいらのブログに現れたる 高杉晋作
→おいらのブログに現れたる 山縣有朋
■それはさておき、山縣と高杉の親密さは知らなかったばかりか、山縣は高杉よりひとつ年上なんだ。知らなかった。
高杉は、もちまえの度胸の良すぎさに基づく自在さで上記の順法かちこみをかけることができたのであろうが(この時すでに高杉は上海での大英帝国による酷薄なる支那支配を直接見聞している)、横にいた「本当のサムライ」の子ではない山縣はその余裕のなさで縮こまっていたと空想できる。のちの 枢密院議長議定官元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵 の25歳の姿。
高杉と山縣じゃ、華と雑草だよな、言っちゃいけないけど。
だけんども、歴史はまわる。
高杉は、久坂と違って戦闘死ではなく、病死する。もし、高杉が死ななかったら明治政府、特に初期、は全然違う展開になったであろう。高杉は伊藤や山縣と格が違うから。
でも、高杉の平時の実務、大臣稼業も想像できない。
「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」とか言って、
小原庄助さんみたに、身上をつぶしたでろうことは想像に難くない。