
―2010年6月21日の筑波山麓の夕暮れ―
■『中世の覚醒』の原著"Aristotle's Children: How Christians, Muslims, and Jews Rediscovered Ancient Wisdom and Illuminated the Middle Ages"のアマゾンレビューに書かれた★★☆☆☆の辛口コメントを読んでみた。
ひとつの指摘はアリストテレスのラテン語への翻訳をギリシア語から12世紀前半にベニスのジェームスが行ったというもの。なるほど、wikiにもある→James of Venice
この指摘はアリストテレスのラテン語の翻訳にはアラビア語訳アリストテレス全集が重要であったというルーベンスタインの主張への反論。
■12世紀ルネッサンスのアリストテレスのラテン語への翻訳事情を改めて確かめる。
元ネタ;
1.クラウス・リーゼンフーバー、『西洋古代・中世哲学史』(Amazon)
2. 『哲学の原型と発展 哲学の歴史I (新・岩波講座 哲学)』 (Amazon)
前者は『中世の覚醒』の読後購入、後者は積んどく物件。昨夏、札幌に退蔵していた本をすべて筑波山麓に引き取ったものに入っていた。四半世紀ぶりにまともに読まれる。
十三世紀の諸学問の興隆は十二世紀の西欧における知的関心と研究活動の開花に起因するものであるが、この間のアラブ人の哲学と科学の本格的な受容とアリストテレス全著作の翻訳は、この流れをさらに加速した。西欧では、十二世紀の中頃にアリストテレスの著作の翻訳が組織的に行われるようになるまでは、ボエティウスの訳で伝わった論理学書の一部分(「旧論理学」)以外のアリストテレスの著作は知られていなかった。一方、イスラーム世界ではアラブ人がすでに七世紀からギリシアの哲学と科学を受容し始めていた。ビザンティン帝国の領域であったシリアやエジプト、あるいはその周辺であったペルシアには、ギリシア哲学と科学の研究機関があり、それらにはイスラームによる征服後も存続したため、ギリシアの文献はこのような径路を通じてすぐさまアラビア語に翻訳された。アラブ人学者たちはこうして西洋のラテン世界よりも二〇〇年も早く、十世紀の半ばにはアリストテレスの全著作を手に入れていた。その後およそ一二〇〇年頃まで、アラブ世界はギリシア的な学問研究の中心地となったのである。
(中略)
ラテン的な西方キリスト教世界が、アラブ人の科学と哲学、およびアリストテレスの著作といったアラブ世界の知的富をスペインのトレドやシチリアのパレルモで活躍した翻訳者たちを通じて受け入れ、消滅から救ったのは、ちょうどこの時期であった。また、十ニ世紀後半からは直接ビザンティンからもギリシア哲学の原点がもたらせ始め、それらのラテン語訳も行われた。
―アラブ哲学とアリストテレス受容、 12 十三世紀のスコラ哲学とアリストテレスの受容、『西洋古代・中世哲学史』(クラウス・リーゼンフーバー)―
見た限り、『西洋古代・中世哲学史』にはヴェネティアのジェイムスはみあたらなかった。
一方、『哲学の原型と発展 哲学の歴史I (新・岩波講座 哲学)』の第4章、山本耕平、スコラ哲学の意味には、一 スコラ哲学における「アリストテレス文献」の翻訳の状況というドンピシャの項がある。
ボエティウスの紹介のあと、12世紀の話へ。
ヴェネティアのヤコブ(Jacob de Venetia)は一一二八年頃『分析論前・後書』『トピカ』『詭弁論論』をギリシア語テクストからラテン訳した。
とある。ヴェネティアのジェイムスは出てこない。一 スコラ哲学における「アリストテレス文献」の翻訳の状況ではこの後、トレドのアラビア語からラテン語訳への話となる。合わせて、シシリーのパレルモのヅレデリック二世の宮廷が翻訳所であった話。その後、
アリストテレス文献のギリシア語原典からのラテン語への翻訳はロバート・グロステスト(Robert Grosseteste, 1175-1253)とメルベケのギヨーム(Guillaume de Moerbeke, 1215?-1286)によって完成された。
とある。木田元のいう、”トマス・アクィナスはフランドル出身のムールベーケのギヨームという友人のつくったラテン語訳でアリストテレスを読んでいるんですね。ギリシア語の原文は読んでいません”のムールベーケのギヨームだ。
見た限り、こちらにも、ヴェネティアのジェイムスはみあたらなかった。
▼問題はヨーロッパ人がギリシア語原典からラテン語へ翻訳するときに、アラビア語の註釈書の役割だと思う。現在の日本で古典ギリシア語から現代日本語に直接翻訳がなされている。だから、日本語人はプラトン全集だのアリストテレス全集などが読める。もっとも、ドイツ語や英語から翻訳したものでも日本語のプラトン全集だのアリストテレス全集はできる。ただ、明治初期にはじめてプラトンやアリステレスを知った日本人は直接古典ギリシア語を読めなかったはずだ。だから、ドイツ語なり英語を経由してプラトン全集だのアリストテレス全集の内容を理解したはずだ。
これは、ラテン語人の古典ギリシア語から直接翻訳に至るまでのアラビア語の役割が、日本語人の古典ギリシア語から直接翻訳に至るまでのドイツ語・英語、その他現代西用語の役割と同似である。それにしても、現代の日本人のアリストテレス学者でこの中世のアラビア語文献をも研究している人っているのだろうか?もっとも、このアラビア語の註釈書の大部が失われているらいいとも聞く。
▼ヨーロッパ人がギリシア語原典からラテン語へ翻訳するときのアラビア語の註釈書の役割の話に戻って、12世紀のアリストテレス・インパクトで形成されたのが"ラテン・アヴェロイスト"というグループ。アヴェロエスとはアラブ語文明のアリストテレス学者。そのアヴェロエスに影響うけたラテン語人のアリストテレス学者が,
Siger de Brabant (also Sigerus, Sighier, Sigieri, or Sygerius), (c. 1240 – 1280s),; 『哲学の原型と発展 哲学の歴史I』ではシジェ、『中世の覚醒』ではシゲルス。パリ大学人文学部の教授。信仰の真理と理性の真理の存在を認める「二重真理説」を認めた。カトリック教会とあつれき。のち、異端審問官に召喚される。
