いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

1937-1972の大戦略;文麿と角栄の間

2014年01月08日 19時05分56秒 | 日本事情

盧溝橋事件が起きたのは1937年(昭和12年)7月7日。南京陥落が12月18日。

敵国の首都が陥落しても、戦争は終わらず。国民政府は重慶に逃避。

この状況に大日本帝国政府の首相・近衛文麿が言った言葉;

「帝国政府は爾後国民政府を相手とせず」

すなわち、蒋介石の政府の存在を認知しないと宣言したのだ。

1938年(昭和13年)1月16日だ。

それに先立つ1937年(昭和12年)9月5日には、近衛文麿は、暴支膺懲!と言っている;


―愚記事; 暴支慫慂 (ぼうし しょうよう)

本題に戻って、1938年(昭和13年)1月16日には、こうも言っている;

「帝国政府は爾後国民政府を相手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」

帝国と真に提携するに足る

新 興 支 那 政 権 の 成 立 発 展 を 期 待 し 、

両 国 国 交 を 調 整 し て 更 生 支 那 の 建 設 に 協 力 せ ん と す

▼ これか ↓


1972年9月27日 (愚記事:中南海の毛沢東書斎の左右について
  角栄と ぐゎんばった ひとたち

すなわち、蒋介石の政府の存在を認知しないと宣言したのだ。

さらには、新興支那政権と提携。


 (第33回総選挙・1972年12月における選挙ポスター)
真に提携するに足る新興支那政権と更生支那の建設に協力!

■ 参考史料: 日帝新聞に現れたる毛沢東、周恩来、葉剣英

1938年1月19日(昭和13年)。 近衛声明の3日後だ。

   - 前線で頑張る(ぐゎんばる) ―

   
 毛沢東去安源 付傘         近衛文麿在軽井沢 付帽子