盧溝橋事件が起きたのは1937年(昭和12年)7月7日。南京陥落が12月18日。
敵国の首都が陥落しても、戦争は終わらず。国民政府は重慶に逃避。
この状況に大日本帝国政府の首相・近衛文麿が言った言葉;
「帝国政府は爾後国民政府を相手とせず」
すなわち、蒋介石の政府の存在を認知しないと宣言したのだ。
1938年(昭和13年)1月16日だ。
それに先立つ1937年(昭和12年)9月5日には、近衛文麿は、暴支膺懲!と言っている;
―愚記事; 暴支慫慂 (ぼうし しょうよう)―
本題に戻って、1938年(昭和13年)1月16日には、こうも言っている;
「帝国政府は爾後国民政府を相手とせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、是と両国国交を調整して更生支那の建設に協力せんとす」
帝国と真に提携するに足る
新 興 支 那 政 権 の 成 立 発 展 を 期 待 し 、
両 国 国 交 を 調 整 し て 更 生 支 那 の 建 設 に 協 力 せ ん と す
▼ これか ↓
1972年9月27日 (愚記事:中南海の毛沢東書斎の左右について )
角栄と ぐゎんばった ひとたち
すなわち、蒋介石の政府の存在を認知しないと宣言したのだ。
さらには、新興支那政権と提携。
(第33回総選挙・1972年12月における選挙ポスター)
真に提携するに足る新興支那政権と更生支那の建設に協力!
■ 参考史料: 日帝新聞に現れたる毛沢東、周恩来、葉剣英
1938年1月19日(昭和13年)。 近衛声明の3日後だ。
- 前線で頑張る(ぐゎんばる) ―
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毛沢東去安源 付傘 近衛文麿在軽井沢 付帽子