僕は、同時代の批評家の義務は、時代を先導しつつある作家を殺すことにあると思う。 蓮實重彦
蓮實重彦、柄谷行人 『闘争のエチカ』 1988
2008年に西尾幹二が『三島由紀夫の死と私』という本を出した。題名通りの内容。その中で、江藤淳への非難が書いてある。江藤淳の有名な文章、『「ごっこ」の世界が終ったとき』が、三島を揶揄しているというのだ。
揶揄というか、江藤は三島を正面から批判している。つまり、「ごっこ」の典型として「全共闘運動」に代表される「左派」による革命「ごっご」、そして、楯の会の「自主防衛ごっこ」(いわゆる、右派)を、江藤は挙げている。
この西尾の本を読むまでうかつにもおいらは気づかなかったのだが、江藤の『「ごっこ」の世界が終ったとき』は1970年1月の発表、そして、三島事件は1970年11月。江藤の『「ごっこ」の世界が終ったとき』の方が先なのだ。
今から思えば、江藤に「ごっこ」と挑発された三島が、それじゃ本当に死んでみせて、「ごっこ」じゃないことを証明しようとしたともみえる。
江藤淳が、三島由紀夫を殺したのか?
江藤のまとまった三島論は1961年の「三島の由紀夫の家」くらいではないか?江藤はフォニイ考で「フランス」系作家を批判するようになったが、そもそも三島のこともいんちきと考えていたのではないのか?
■ なお、西尾の2008年の文章で、江藤が三島を「兵隊ごっご」と云って揶揄したと書いてある。江藤は、「自主防衛ごっこ」と云っているが、「兵隊ごっご」とは云っていない。「兵隊ごっご」とはありふれた表現にみえて、誰でもおもいつきそうな言葉ではありそうだ。でも、楯の会を「兵隊ごっこ」と揶揄する人は当時いたのだろうか?もっとも、江藤の『「ごっこ」の世界が終ったとき』の後に、「兵隊ごっこ」を思いつくことは容易である。
一方、楯の会=三島事件=「兵隊ごっこ」の用例は下記ある;
これがたとえば三島由紀夫がバタイユから読みとったもののすべてであり、その結果があの面白くもない兵隊ごっこだった。 (浅田彰、『構造と力』)
追記:
しかし、『「ごっこ」の世界が終ったとき』の中で"兵隊ごっこ"という言葉は使っていない。些細なことだが、そうなのだ。
でも、最近わかった。江藤淳は別の文章で"兵隊ごっこ"という言葉を使っていた。