【要旨】敗戦後の米軍占領の費用は、実は、日本の税金であったと江藤淳は1986年に指摘している。その指摘は、米軍の占領の寛大なものではなく苛酷なものであったことを主張する証左(エビデンス)としてである。一方、小島信夫の『アメリカン・スクール』(1954年、芥川賞)には、少なくとも、占領軍の学校施設(アメリカン・スクール)は日本の税金で賄われていると書いてある。
おいらはがきんちょの頃から占領軍施設を見て来たのだが、それらが「われわれのお金」でできたとは江藤の1986年の指摘まで知らなかった。そして、最近、小島信夫の『アメリカン・スクール』を読んだら、そのことが書いてあった。
江藤の代表的評論は小島の作品を扱っている。ところで、占領史の本は多いが、「日本占領米軍に払ったわれわれのお金」について言及している他の例をおいらは知らなかったので、興味深く思った。
【本文】
陸上自衛隊第11旅団(札幌市郊外、旧Camp Crawford)GoogleMapよりコピペ。
同じく。
1951年5月20日撮影。キャンプ・クロフォード⇒真駒内駐屯。現在までに残存、サイロ隊舎。
■ 占領軍遺構/現行施設
横浜に来て5年、歴史探訪がてら散歩する。横浜は大きく占領された地域なので史跡はある(愚記事群;今週のレコンキスタ史跡探訪)ので探訪している。さらには、東京は立川も行った。でも、実は、占領軍遺構、ましてや現在も使用している施設はほとんど残っていないのだ。東京の占領軍遺構(ワシントンハイツ)の例は、昨日の記事で書いた。
ワシントンハイツ唯一の遺構
一方、先日札幌に行ったら、旧Camp Crawford跡地、現自衛隊第11旅団の占領軍遺構/現行施設はまだあった。遺構ではなく、現役施設なのだろう。地下鉄からみた。自分でデジカメで画像は撮らなかったので、Googleで上記画像を得た。
■ 旧Camp Crawford跡地とおいら
がきんちょの頃から見ていた。昔は札幌雪祭りの会場は2か所。大通公園と自衛隊第11師団(当時)駐屯地であった。すなわち、旧Camp Crawford跡地は雪祭り会場であり、一般人も入れた。あと、年一回の一般公開でも一般人も入れた。上記(上)の白壁青屋根の建物は元来映画館として建てられ、雪祭りの一般公開のときも入れたような気がする。確かな記憶は赤レンガの建物(上画像(下)と同一)のひとつが史料館となっていた。雪祭りにも一般公開していた。旧軍に関する展示もあった。
今思うと1980年代では、少なからず、もしかして大半が占領軍時代の建物だったような気がする。一方、がきんちょの頃から断続的に自衛隊基地以外の占領軍時代の建物は次々と取り壊されていった。大人になるまで、なんとなく、こういう建物は進駐軍が建てた、物量に勝る勢力で日本を敗戦に追い込み進駐してきた米軍が建てたと無意識に思っていた。すなわち、別に特に意識はしなくても、まさか日本が費用負担していたとは思わなかった。というか、焼け野原になったとされる日本がそんな負担をしたとは思わなかった。違った。
■ 1986年に知った
江藤淳に『日米戦争は終わっていない』という本がある。1986年刊行。穏やかでない題名なのだが、なんと、江藤はこの本を昭和天皇に贈ったというのだ [1]。この『日米戦争は終わっていない』をおいらは仙台で買って読んだ。札幌から仙台に来たのだ。やって来た場所が山城である仙台城本丸のとなりの一段低い段丘面にある旧二の丸の地区。やって来て目についたのはいくつかの占領米軍の建物であった。つまり、日帝陸軍第二師団が占領軍に接収された故、当時建てたものの生き残りであった。もっとも、普通の人にはおいらには「目についたのはいくつかの占領米軍の建物」は、特に目にとまらなかったであろう。なぜなら、数は少なく、「占領米軍の建物」なぞ特に気にしないだろうから。今から思うと、旧占領接収地から旧占領接収地へとピンポイントで移ったにもかかわらず、昔から視野狭窄のおいらは、日本は戦争に負けたのだとつくづく思った。そして、無意識に、物量で戦争に勝った米占領軍が余裕で基地群を建設したと思っていた。そして、その後日本がもらったと思っていた。札幌のように自衛隊がもらって使うならともかく、大学が米軍から建物をもらって使っていたと知って、情けない気がした。でも、違った。
日米戦争は終わっていない―宿命の対決 その現在、過去、未来 (NESCO BOOKS) (Amazon)
その江藤淳の『日米戦争は終わっていない』に書いてあった;
(米国による日本占領は寛大どころではなかったことについて)ひとつのわかり例をあげると、当時の予算ー昭和二十一年度から二十六年度までの日本の国家予算の一般会計のなかには、終戦処理費という費目がありました。これは占領経費です。
昭和二十年九月二日に降伏文書調印が行われて、公式の日本占領がはじまったのですが、その当初から日本政府は、占領当局から占領費用の調達を要求されていて、九月七日には政府は、日本銀行に占領軍の預金口座を開設し、とりあえず一億円交付しています。十月二日までに、この口座の残高は十億円に達しました。そしてこれは、各地に進駐してきた占領軍残って経理担当将校に宛てて、GHQからそれぞれ分配されています。十一月になると、占領将兵宿舎二万戸の調達が命じられました。この経費はだいたい当時の金で百億円でした。
このためには、日銀券を刷り増す以外に方法がなかったので、非常なインフレ要因になりました。もちろん日本政府は降伏を予定していなかったのですから、昭和二十年度予算には、なんらこのような経費は計上されていなかったのです。
というようなわけで、昭和二十一年度の予算を編成するときには、新たに終戦処理費という費目をたてなければならなくなりました。参考までに数字をあげておくと、昭和二十一年度で、三百九十六億円、一般会計の三十三パーセント。(江藤淳、『日米戦争は終わっていない』第3講 日米関係の構図、その(二)日本占領米軍に払ったわれわれのお金)
■ 小島信夫、『アメリカン・スクール』
小島信夫の『アメリカン・スクール』を初めて読んだ。その存在は知っていた。評論などで言及されていた。占領下日本での対米挙動、対米感情を写すものとして。でも、その内容は、敗者の屈辱を含むものだろうし、読むおいらの敗者の屈辱を惹起せしむると察せられた。正視に堪えないだろうと、弱っちいおいらは思い、若いころから忌避してきた。でも、年を取ると面の皮も厚くなり、感受性も衰えて来たのでもう大丈夫と思えてきた。今年は、平山周吉の『江藤淳は甦える』を読んで、江藤淳を改めて読み直してみて、小島信夫の『アメリカン・スクール』を読んでみようと思った。江藤は小島信夫をよく語っている。上野千鶴子は云っている;「小島は江藤という読み手を持つ幸運によって、六十年代を代表する作家として長く記憶にとどめられることになった」。
『アメリカン・スクール』を読んだら、書いてあった;
ウイリアム校長というより、通訳者山田の第一声は、次の如きものであった。
「私たちのアメリカン・スクールの校舎は日本のお国のお金で建てたものです。お国の建築屋が要求通りにしないのとズルイために、ごらんの通り不服なものなんですが。(後略)」(小島信夫、『アメリカン・スクール』)
小島信夫の『アメリカン・スクール』は、1954年の作品。「日本占領米軍に払ったわれわれのお金」というのは公知だったのだ。でも、「日本占領米軍に払ったわれわれのお金」について言及している他の例を、あんまり、見ないような気がするのだが。
なお、以前(2013-2017年のいつか)、孫崎享がラジオ("おはよう寺ちゃん 活動中")で「日本占領米軍に払ったわれわれのお金」に言及していたと記憶している。
[1] もちろん、勝手に贈ったわけではない。平山周吉の『江藤淳は甦える』(Amazon)に書いてある;
雨中の園遊会での(昭和天皇からの)お尋ね「江藤かい、いまでも漱石やってるの」に何と答えたかを江藤は語ってはいない。漱石は一休みして、陛下の御時世に取りかかっております、とはまさか言上できなかったであろう。ただ幸いなことに江藤の近業が「天覧」を賜わる機会が二年後の昭和六十二年に訪れた。福田派の重鎮代議士・田中龍夫(田中義一の長男)を介して届けられた江藤の著作は『日米戦争は終わっていない』と時務評論『同時代への視線』であった。どちらも最新刊でありますと説明可能だが、「天覧」に相応しからぬ危険な選択である。前者はタイトルからして物騒である。後者には、小堀桂一朗との対談「「大東亜戦争」と「太平洋戦争」」、上山春平との対談、「大嘗祭の意義」、そして江藤の靖國神社擁護の論考「生者の視線と死者の視線」が収録されている。江藤としては御進講の代わりにという心づもりだったとしても、どれも機微に触れる、刺激的なテーマであり過ぎる。高齢の天皇のお手元まで確かに届いた可能性は低いのではなかろうか。江藤の尊皇は「ラディカル」な側面を有していたのである。(平山周吉、『江藤淳は甦える』、第四十三章 天皇崩御ーその喪失感と大河昭和史の中絶)