板付飛行場(現、福岡空港)、1952年 [Itazuke 1952]
The flightline at Itazuke Air Base, Japan, 1950. The F-82 in the foreground belongs to the 69th All Weather Fighter Squadron, and the F-80s are assigned to the 8th Fighter-Bomber Group (出典)
【福田恒存、『平和論にたいする疑問』とは?】
福田恒存に『平和論にたいする疑問』という文章がある。1954年(昭和29年)の雑誌『中央公論』に出た論文である。有名であり、wikipediaにも項目がある。
この『平和論にたいする疑問』の書かれた年は1954年。1951年7月に朝鮮戦争休戦会談開始。1951年9月、サンフランシスコ講和会議。講和条約と安保条約(内乱に米軍が出動でき、米軍の日本に対する防衛義務がない駐兵条約)に調印。1952年4月、講和条約発効、日本国「独立」/被保護国日本 [protectorate-Japan] 誕生。つまり、占領が明けて2年後という時期。一方、朝鮮戦争は、1953年7月に休戦協定署名。よって、この『平和論にたいする疑問』は、朝鮮戦争の記憶が新しい時期のものである。
『平和論にたいする疑問』は、(岩波書店の雑誌)『世界』と平和問題談話会に代表される進歩的文化人を批判した論文である[上記wiki]。論点は、安全保障の政策論そのものではない。文章には、朝鮮戦争も安保条約も出てこない。平和論を唱導する「文化人」批判である。「文化人」の挙動への批判。その「文化人」批判は主に2点ある。第1点目は、「文化人」は何にでもコメントする。第2点目は平和運動としての基地周辺の生活環境改善などに具体的に現地解決せず、目的を平和のための民主統一戦線拡大としている。そのため個別の案件解決に対し無責任となっている。「文化人」の狙いは、「平和」の実現(福田は書いていないが、日米安保廃棄、自衛隊廃止、非武装中立のこと)である。その前提として、共産主義と自由主義の平和共存が可能と「文化人」は考えている。すなわち、共産主義は戦争で攻めてこないという認識を「文化人」はもっている。この2点を「文化人」の特徴として、福田は批判している。一方、福田の安全保障に関する考えは次の通り;
まだまだききたいことはたくさんありますが、最後にひとつ重要なことを平和論者におたづねしたいとおもいます。私は、今日、完全な意味のー十九世紀的な意味のー独立というものはありえないと信じています。そのはっきりした回答を、私は平和論者からいただきたいのです。私はけっして意地悪くいびっているのではありません。私としても、去就を決したいのです。いまのところアメリカと協力したほうがいいとおもっています。しかし、これは絶対的なものではない。まちがいと気づけばいつでも改めるつもりです。もちろん、アメリカと協力することを前提としたうえで、いくらでも注文は出したいとおもいます。その点、平和論者はどう考えているのでしょうか。なんでもかんでも協力はいけない、それは植民地化だというのでしょうか。日本の平和論の影響なしに、二つの世界の冷戦は現在小康を保てそうな気配にあります。すると、アメリカと協力していても、共存絶無ともいえないように、私には思われる。
【板付(いたづけ)に関心を示さない福田恒存】
本ブログ記事の目的は、『平和論にたいする疑問』について論じることではなく、その文章の冒頭の一部について言及することだ。福田は文化人批判として、文化人が何にでもコメントすることを挙げている。さらに、何でもコメントする文化人に加え、文化人に何でも聞くメディアを批判している。その批判の例として、自分の経験を書いている。すなわち、飛行機で羽田から福岡に行った時の経験だ。なお、この経験は1952年(春か夏)のことである。占領明け直後であり、朝鮮戦争はまだ休戦協定調印前の時期だ。
板付の飛行場に降りて、飛行場と福岡との間を往き来するバスに乗りこもうとした瞬間、新聞社のひとが来て、「福田さんですか?ひとつ新鮮なところで九州の印象をきかせてください」という。私は茫然としてその人の顔を眺めました。九州もへったくれもあったものではない。私にはまだ九州なんてものは見えていません。眼のまえにあるのは飛行場だけです。羽田と板付との差がわかるほど、飛行場にたいする私の眼は肥えておりません。第一、私に飛行場の趣味なんかありはしない
福田は、板付の飛行場(現、福岡空港)について、何の印象も、あるいは、コメントしたい衝動に駆られる事物も見聞きしなかったかのごとく書いている。しかしながら、板付飛行場は、当時日本での屈指の米空軍基地である。なるほど、福田が住んでいた東京都にも日本での屈指の米空軍基地である立川や横田があったのであろう。しかし、板付飛行場は、朝鮮戦争への前線基地である。朝鮮戦争の時には、空襲警報も鳴った。ソ連兵が操縦する北朝鮮のミグ戦闘機が飛来する可能性があったのだ。福田が乗ってきた旅客機は、米軍管理の軍事飛行場の片隅に着陸したに違いない。本ブログ記事冒頭に示した画像のように、米軍のジェット戦闘機が多く駐機していたに違いない。そんな、板付飛行場は羽田空港とは大違いだろう。そして、その航空部隊こそが国際共産主義勢力による朝鮮半島制圧を阻止した軍事力の一端である。福田はその阻止こそが重大であり、その阻止を台なしにする「平和運動」を批判しているのだ。したがって、「羽田と板付との差がわかるほど、飛行場にたいする私の眼は肥えておりません」なんてことは言えないはずだ。はたして、思想信条的に米軍に期待しているはずの福田が、朝鮮戦争を戦った米軍の主力である板付航空隊に何の印象も、あるいは、コメントしたい衝動に駆られる事物も見聞きしなかったかのだろうか?本ブログ記事の冒頭は板付の写真。下記添付のyou tubeを見ると白亜の典型的米軍住宅が並んでいたはずだ。飛行機で福田は来たのだから、鳥瞰的にも見分できたはずだ。
「文化人」とにらまれたからにはしかたがない。なにか発言しなくてはならぬとしても、自分にとってもっとも切実なことだけを口にだすという習慣を身につけたらどうでしょうか。ほんとうに腹がたったことだけに怒り、大げさにいうと、これがなければ自分は生きがいなしとおもうことだけを求めるーいわゆる社会の不安など、それでだいぶ落ちつきを得るのではないか。
なぜ、板付飛行場のことを例示するのか? つまり、福田は板付飛行場は「自分にとってもっとも切実なことだけを口にだす」ほどのものではない、と言っているのだ。しかも、『平和論にたいする疑問』でわざわざ。この板付飛行場のことは、文化人のだらしないコメント垂らしとその呼び水のメディア批判の例示として登場する。つまり、新聞記者がコメントを求めてきた例であれば、何でもよいのだ。なぜ、福田は、板付飛行場のことを例示としたのか?
推定するに、福田の思想信条からして米軍の駐留は必要であり、当然。米軍基地や白亜の典型的米軍住宅に興奮するのは、「自分にとってもっとも切実なこと」のはずである。そして、このことを心に秘めて、『平和論にたいする疑問』に、板付で新聞記者にコメントを求められたが、何も言うことはないと言ったことを書いたのだ。
▼ 1954年の板付の様子
Home Movies: Itazuke AB 1954 - 68th FIS "Lightning Lancers"
朝鮮戦争航空戦Ⅰ(MiG15登場)
■ 蛇足 1954年の板付にMarilyn Monroeが来たと知った; google画像