いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第23週

2024年08月31日 18時03分28秒 | 筑紫洲 (つくしのしま)

▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第23週

■ 今週の筑豊境

▼ 台風一過

■ 今週のメタセコイア

■ 今週の半額:ヤズ刺身

ヤズ:ブリの若魚 [google]

■ 今週の鰂

マイカ(上)とアカイカ

■ 今週の4点

トースト・たね4点;豚ペースト、オレンジジャム、バター、餡子。九州に来て、「お武家さま」=座食からの卒業した。自腹でお米を食べている。お米消費量の削減のため、パンを食べざるをえない。最近は、お米が高騰しているし。

■ 今週の訃報、あるいは、なつかしい本の話

日本近現代史の史料発掘に努めた歴史学者で、東大名誉教授の伊藤隆(いとう・たかし)さんが19日、合併症で死去した。91歳だった。(google

1983年刊行。伊藤隆、『近衛新体制』。おいらは10代の頃読んだ。おいらの《世界像》形成の初期に読み、ビンゴ!と思った本。1980年代初頭、まだ、いわゆる「講座派」史観、端的にマルクス主義思想に基づく「ファシズム」史観が支配する歴史書でつくられる知的雰囲気があった。


1983年刊行の中公新書2冊:『近衛新体制』、『戦略的思考とは何か』

そういう雰囲気の歴史書を読むと、日本が戦争で壊滅したのは「軍部」のせいですというものいいだった。「軍部」や「ファシスト」という悪者が日本を滅ぼしたのだ、と。その象徴が東条英機。素直に、じゃあ、軍部って誰?と調べると、対米戦争に打開を求めざるを得なくなった日本で、そこに至るには、支那事変の拡大、対支那・国民党政府との交渉拒否、大政翼賛会、日独伊三国同盟、国家総動員法、仏印進駐などの諸策が実施されたとわかる。そして、その責任者は首相の近衛文麿とわかった。でも、当時、いわゆる「講座派」史観に染められた素人向けの本には、悪者=近衛文麿=ファシスト!という風には書いてなかった。

さらに、歴史とは別に、当時、現実政治で、左翼は政敵をしばしばファシストよばわりした。実は、ファシストの条件が明確なわけではなく、ただ左翼の気に入らない政敵にファシストのレッテルを貼れば済むと思っていたのだ。実は、ファシズム・ファシストの詳細、定義はあいまいであった。さらに、戦争協力、もっといえば戦争推進勢力について。昔、冷戦時代には日本共産党は同党は戦争に反対した唯一の政党と自画自賛していた(google)。でも、戦争協力、もっといえば戦争推進勢力の少なからずが日本共産党「出身者」=転向者[1]であった。今では、朝日新聞や読売新聞が戦争煽動勢力であったことは周知ではあるが、1983年頃はある種「タブー」であった。縮刷版のダイジェストが図書館にもあり、こういうことは公知であったが、特に朝日新聞の戦争煽動は糾弾されていなかった。

[1] 戦前の日本共産党は委員長や幹部だった佐野学、鍋山貞親などは、転向 (共同被告同志に告ぐる書 (wikipedia))したばかりではなく、日本の戦争を評価し、肯定する理論を喧伝することとなる。確かに、この転向で日本共産党は佐野、鍋山を除名する。ただし、日本共産党の党員の多くが雪崩を打ったように転向する。さらに、転向後「ただの人」になったのではなく、満州国に行ったり、近衛新体制に参加したり、「天皇制ファシズム体制」を促進する人材となっていく(愚記事)。

そうような時代状況で下記文章は印象深かった;

「近衛新体制」運動ー 大制翼賛会の成立は多く日本ファシズムの確立として評価されてきた。 私は本書においてファシズム という言葉を使っていない。ただ「ファシズム」を、党による国家の支配、 政治による経済の支配を中核とする新しい体制をめざす、別な言葉でいえば全体主義を意味するとするならば、それに最も近いものをめざしたのは 新体制運動を推進した「革新」派であったと言ってよい。近衛をはじめとして、軍内の「革新」派、新官僚の多く、そして風見 章、 有馬頼寧、中野正剛、尾崎秀実、社会大衆党の多く、さらに転校した共産党の多く(この大半が戦後再転向して日本共産党を構成する)がそうだということになるが、多くの 論者が彼らを必ずしも 「ファシスト」とよんでるわけではないのは一体どういうわけであろうか。 (伊藤隆、『近衛新体制』)

支那事変が収拾がつかなくなったことについての物語は、「軍国主義/ファシズムと右翼」がやったのだというものがある。1980年頃までは、全くその物語で戦後日本は充満していた。でも、伊藤隆など「ファシズム」概念の再検討の研究などを例として、「軍国主義/ファシズムと右翼」神話の神通力はなくなってきている。

むしろ、支那事変(日中戦争)を煽ったのは、「左翼」(=公然組織としては社会大衆党、非公然としてはコミンテルン) であるという指摘もなされるようになった。そして、何より、支那事変(日中戦争)を煽ったのは、朝日新聞である。(愚記事再録)

▼ 1986年、『重光葵 手記』、伊藤隆ら 編集

『近衛新体制』の3年後に刊行されたのが、『重光葵 手記』。この重光葵の手記を遺族から受けて刊行したのが、伊藤隆。おいらの《世界像》形成に影響を与えた。この年、中曽根自民党は衆議院で300議席を獲得。戦後政治の総決算を謳った。保守回帰の時代。戦後政治の総決算とは端的に「吉田路線/吉田ドクトリン」の修正。社共(社会党、共産党)の時代ではないと世間は知っただろうが、世間の風潮は軽武装経済大国を謳う吉田ドクトリン体制にまどろんでいた、湾岸戦争の現実にぶちあたるまでは。

もっとも、重光が党首だった改進党の代議士として活動を始めた中曽根康弘は自主防衛路線を棄て、陸上自衛隊初めての日米共同訓練(1981年)を是認し、改憲を引っ込めるなど「9条ー安保ー自衛隊(米衛隊、あるいは「永遠にアメリカの傭兵」)」路線を採った。

 

▼ 重光葵ー佐野学

40年前から知っていた重光葵と佐野学 [wiki]だが、同じ城下(大分県杵築)の出だと、今年知った。二人とも東大。⇒ google

重光葵が5歳年上。

▼ 『岸信介の回想』1981年。『歴史と私』2015年

伊藤隆が、矢次一夫と共に岸信介にインタビューした結果できた本が、『岸信介の回想』。おいらは、1986年頃すぎに読んだ。非吉田路線(対米従属路線)の系譜への関心で読んだ。


重光葵と岸信介

▼ 元アカ、坂野潤治

そして、伊藤隆の回想が『歴史と私』2015年。これは刊行時に読んだ。伊藤隆が「元アカ」(アカ=共産主義者。元アカ=かつて共産主義者であり、転向した人)であったことは2001年の『日本の近代16 日本の内と外』をみるまで知らなかった。びっくりした。そして2015年の本で、坂野潤治と若いころは盟友であったこと(ふたりとも「アカ抜け」した後)、そして疎遠になったことも知った。坂野潤治は共産党だけでなくその後ブントまで行った。西部邁の共産党入党を勧めたのが坂野潤治であると西部が云っている。


東京地方裁判所 昭和35年(刑わ)4091号 判決 1965年8月09日

錚々たる「お歴々」。西部邁、加藤尚武、坂野潤治...

▼ なつかしい本の話@1983年

伊藤隆、『近衛新体制』と同じ年に刊行された本。手元にあるもの。41年前だ。『構造と力』と『大衆への反逆』は現在でも文庫として新刊が出ている。

きちんと書かないといけないことは、1983年は米ソ冷戦が厳しかった頃だ。ソ連軍、北海道上陸!とかマジで想定されていた。北海道では「北部方面隊火力戦闘演習」(参考web)が前年に実施されている。そして、大韓航空機撃墜事件(ソ連空軍機が民間旅客気を撃墜、死者269人)はこの年だ。ソ連の「野蛮性」が明らかになってきた。従って、マルクス主義の影響も低下し、さらに共産主義、ソ連を公然と批判してもよい風潮が強くなった。ちなみに、それ以前は、ファシズムとは反共主義であるという「金縛り」があって、知識人・文化人には共産主義、ソ連を公然と批判するには躊躇があった。

そういう背景で、曽野明、『ソビエトウォッチング40年  あたまを狙われる日本人』や『戦略的思考とは何か』が広く世間に受け入れられた。ここで広く世間とは、未だ左翼の風潮が金縛りを与えている大学知識人ではなく、現実的なビジネスマン、官僚など経済成長して形成された中産階級の中の知識的集団に受け入れられたに違いない。

繰り返すと、当時は米ソ連戦が厳しく、ソ連の脅威への対処に緊迫感があったので、岡崎久彦の考えを「対米従属親米保守」と批難するものはいなかった。当時の岡崎久彦への最大の批判者は「吉田ドクトリンは永遠なり」の永井陽之助だ。

曽野明の当時の惹句は「三国同盟に反対した外交官」みたいなもの。実際は『ソビエトウォッチング40年』に書かれているように、外交官採用試験の面接で日独防共協定について意見を聞かれ、「これで日本は潰れます」と答えた。ところで、曽野明は東大生の時、重光葵に講演を依頼した。よい返事がないので自宅に押し掛け、居留守を使っていることを見抜き、結局講演の約束を取り付けたと書いている。そして、重光から「きみたちのようなしぶとい奴は外務省にこいよ」と言われたと。

 



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