▲ 今週のみけちゃん
▼ 筑紫洲 (つくしのしま) でもぶどう記録;第18週
■ 今週の筑豊境
■ 今週の定食:魚天ぷら定食
酒に漬けた白身のお魚を大葉で巻いて揚げたもの。
■ 今週のお餅:わらび餅
■ 今週のミルフィーユ
ごろっと白桃のミルフィーユ仕立て(ガスト)
■ 今週の支那文字:鰂
■ 今週の「シオニスト」大集会、あるいは、<野蛮>を駆動する「文明」の呪い
ネタニヤフ首相は、ハマスとの戦闘について「文明同士の衝突ではなく、野蛮と文明の衝突だ」と位置づけて正当性を強調。(google)
▼ 米国とイスラエルは「シオニズム」国家
イスラエルのネタニエフ首相と米議会はとてもよく似合う。両者の根本イデオロギーが一致しているからだ。「シオニズム」。シオニズムとはシオンの丘は約束の地であり、そこに国を創るが当然であるとの思想に基づくユダヤ人の運動だ。これを米国に比喩として当てはめると、アメリカ大陸は白人キリスト教徒の約束の地であり独立国を創って当然だということだ。成功した。ただし、その成功は先住民の駆逐とジェノサイドの結果だ。米国の建国は完了した。一方、イスラエルは現在進行中なのだ。先住民の駆逐とジェノサイドを継続中。お互い存立構造が同じなのだ。
あれだけガザなどで民間人を殺害しているイスラエルを米国が批判どころか、肯定するのは、そうしなければ、自分たちの所業が肯定されないからである。
<野蛮>との闘いは米国建国後も続く。いや、続けないといけないのだ。米国は常に<野蛮>からの挑戦を受けるので、闘い続ける。その闘いでは、「文明」のために<野蛮>を殲滅しつづける。無辜であっても<野蛮>は<野蛮>だ。
ネタニヤフ首相は、ハマスによる襲撃を受けた2023年10月7日は「1941年12月7日(真珠湾攻撃)や2001年9月11日(米国同時多発テロ)と同様に、不名誉として永遠に語り継がれるだろう」と述べた。(ソース)
つまり、ネタニヤフ首相は真珠湾攻撃なぞする<野蛮>には、広島、長崎、東京...のジェノサイドが当然なのだ。事実、ネタニヤフ首相率いる内閣の大臣はガザへの核攻撃を主張した。
広島、長崎、東京...もすべて、野蛮との戦いとして文明国アメリカがやった正統な行為であると主張しつづけないと、自分たちの根本思想が疑われる。ネタニヤフ首相はそれをわかっている。つまり、米国とイスラエルは永遠に「文明」のために<野蛮>を殲滅しつづけるのだ。
<野蛮>な俺たちの末路
現在のイスラエルのジェノサイドを止めさせることは必要だ。でも、ジェノサイド完了の恩恵を受けている成功したシオニズム国家、アメリカ合衆国の 寄生者 既得権者たちのイスラエル批判には説得力がない。
成功したシオニズム国家、アメリカ合衆国で悠々自適、イスラエル批判のユダヤ人
ジェノサイドの街・東京で、旧?<野蛮>人に教えを垂れる米国から来たユダヤ人
▼ 文明
文明の政治には六つの要訣あり[google]。文明の裁きをこえて[google]が出てこなかったので、「勝者」で。
おいらは、「文明」と聞くと身構える。<野蛮>を駆動する呪いの言葉に聞こえる。おいらはずっと長く疑問に考えていることは、なぜ、福沢諭吉は、先住民の駆逐とジェノサイドの結果できたアメリカを文明と考えたかである。さらには、「奴隷貿易は、人類が犯した最悪の犯罪の中でも、最も広く深く行われたもの」とされるが、奴隷主たちが建てた国を文明国と考えたかである。諭吉はインヂヤンに言及しているが(愚記事)、もちろん、アメリカを「鬼畜」よばわりしていない。
さらには、諭吉が英米と対峙していた時期は、イギリスのインド支配、アヘン戦争の時代だ。そういうのが文明だというのだ。諭吉のインド、支那認識は述べられている ⇒同上愚記事。もちろん、イギリスを「鬼畜」よばわりしていない。
■ 今週の発見:東大歴史学教授さま(山内昌之 [wiki])の誤解
ボリシェヴィキを彷彿とさせる長州藩の妥協なき理想追求
幕末長州~松下村塾と革命の志士たち(10)攘夷のリアリズムと実行(テンミニッツTV)
どこか間違いかというと、英米仏蘭の4か国による連合艦隊による報復の戦は、翌月ではなく、翌年のことです。間違いと云っても、ただの翌月と翌年を間違えただけのものかと見えます。しかしながら、さらに間違っています。4か国による連合艦隊による報復の戦で確かに前田砲台は上陸した軍隊に占領されました。しかし、それは英米仏蘭の陸戦隊による占領です。上の山内の文章は間違っています。よく言っても不十分です。襲撃した軍艦は4か国による連合艦隊です。ただし、間違いの原因は容易に推定できます。前田砲台がフランス軍艦(のみ)に襲撃されフランスの陸戦隊(のみ)が上陸し、同地が占領されたことがあります。それは4か国による連合艦隊による報復の戦の前の年(1963年)のことです。上記文章の前半の「5月10日がやってきます。(中略)下関(馬関)海峡、現在の関門海峡を通過していくアメリカの商船、フランスの通報艦、オランダの軍艦に対して、次から次へと砲撃を仕掛けていった」で言及される1963年の戦でのことです。なお、1864年にも前田砲台は占領されました。主流は英国陸戦隊です。
山内が云う「4か国による連合艦隊による報復の戦で下関の「前田砲台」を占領され」たとは下記画像で示される史実に違いない。
写真作品名:「アレクサンダー大佐による砲台の大砲の解体」(google)
フェリーチェ・ベアト(Felice Beato)撮影 [wiki]。
【間違いの原因】 山内昌之の間違いをした理由は容易に推定できる。下関戦争の2年、2度にわたる戦闘を混同し、個別戦闘の詳細を理解していないからだ。例えば、前田砲台は1963年、1964年の2回とも<毛唐兵>が上陸し占領されている。
【下関戦争、1963年の戦い、1964年の戦いの性格の違い】 1963年と1964年の戦闘の性格が違う。長州側の当事者も変わる。1963年と1964年の戦闘の間に京都で政変があり、長州勢は朝敵となる。欧米列強側も当事者が変わる。それらを下記まとめる。
【1863年の戦い】
★
対峙国:米仏蘭
長州側&攘夷派当事者:久坂玄瑞、赤禰武人、中山忠光、光明寺党浪士、毛利能登[wiki]
大義名分:孝明天皇に対する将軍家茂の攘夷実行の約束期限(文久3年5月10日)
軍艦 庚申丸、癸亥(きがい)丸
<第1次攘夷戦> 文久3年5月10日(1863年6月25日)。米国商船ペンブローク号(Pembroke)をいきなり不意に襲う。ペンブローク号は逃走。孝明天皇、褒勅を下す。
<第2次攘夷戦> 5月23日。フランス軍艦(通報艦)キャンシャン号(Kien-Chang)に砲撃。水兵4人死亡。長崎へ逃走。
<第3次攘夷戦> 5月26日。オランダ軍艦メデューサ号(Medusa)を砲撃。死者4名。逃走。
<第4次攘夷戦> 6月1日。米軍艦ワイオミング号が報復のため来襲。庚申丸、撃沈。癸亥丸、大破。長州砲台も艦砲射撃で損害大。米側死者6人、長州側8人。
<第5次攘夷戦> 6月5日。フランス軍艦セミラミス号、タンクレード号が報復のため来襲。艦砲射撃の上、陸戦隊が上陸し前田砲台を占拠。前田村焼討ち。ジョレス少将[wiki]上陸。(現地散歩愚記事)
アメリカとフランスは一方的に攻撃されたので、数日をおいて、報復攻撃を行った。一方、オランダは報復攻撃をしなかった。
【1864年の戦い】
★
対峙国:英米仏蘭
長州側&攘夷派当事者:戦闘;奇兵隊、山縣有朋、赤禰武人、
和平;高杉晋作、伊藤博文、井上馨
<英国参加と襲来まで> 長州の攘夷戦の対象として英国船はなかった。その頃(1963年)、英国艦隊は薩摩襲撃に従事していた。英国は被害を受けていないのにもかかわらず、長州懲罰の主力となった。当時日本近海で最大の海軍勢力は英国海軍であり、その奉じるところのイデオロギーは「自由」貿易の強権的実施である。その典型的成果がアヘン戦争ーアロー戦争の勝利である。
大英帝国の時代
そのイデオロギーからして、下関海峡を封鎖して航行の自由を奪う行為は断固軍事的にでも解決されなければならない(暴「長」膺懲!)。まずは、筋を通して、日本政府である徳川幕府に申し入れをした。
すなわち、6月14日アメリカ公使館から幕府への四か国連盟の公文書において「二十日以内に下関通航の安全に関して現実的変化がみられない場合、またはそれに対する満足な保証が得られないときは、事前協議なしに軍事行動に出る」と。なお、この文書を日本語に翻訳した幕府の官僚は、福沢諭吉である。
実施したのは英国公使のオールコック。本国は日本での戦争に難色しめしたが、訓令の前にオールコックは戦争を開始。
<第6次攘夷戦> 1864年8月5日-8月7日。英米仏蘭総勢17隻、英(9)、米(1)、仏(3)、蘭(4)の連合艦隊が下関に襲来。艦砲射撃で砲台を破壊、陸戦隊が上陸し占拠する(前田地区)。それが上記のフェリーチェ・ベアト撮影の写真。英米仏蘭、死者12、長州18。
山縣有朋の奇兵隊はユーリアラス号艦長のアレクサンダー大佐率いるイギリス海兵大隊と交戦(参考)。銃撃と槍突撃で70数名の死傷者の損害を与えた。
<講和> 高杉晋作が英国艦隊のキューパー司令官と交渉。
①下関海峡の外国船の通航の自由、
②石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、
③悪天候時の船員の下関上陸の許可、
④下関砲台の撤去、
⑤賠償金300万ドル
の5条件で講和が成立。特に、最後の賠償金300万ドルの支払いは幕府が支払うということで、長州と四か国連盟代表英国と合意。この300万ドルというのは当時の幕府の年間予算の1/3であったらしい。当時、10万ドルで軍艦1隻が買えた。軍艦30隻分だ。
【1863年の戦いと1864年の戦いの間】 八・一八政変、蛤御門の変。
<久坂玄瑞の死>
1863年の戦い、文久3年のことを下関事件、1864年の戦い元治元年のことを四国艦隊下関砲撃事件と呼んで区別しているとも云えり。2つを区別している。戦いの性質が違うからだ。前者、1863年の戦い、下関事件は、ほとんどテロである。今でいうなら、フーシ派だ。いきなり、なんの警告もなく艦船に砲撃を加えた。これを実現させたのは久坂玄瑞の意志である。久坂玄瑞は吉田松陰の愛弟子い他ならない。松陰の志を実現した。孝明天皇からお褒の勅を賜ったともある。その後、下関事件の後、そのまま久坂玄瑞は行動し続ける。そして、死ぬ。蛤御門の変。
<奇兵隊誕生>
下関事件が終わらない時点、すなわち、第4次攘夷戦の後、第5次攘夷戦の前、長州毛利家の藩主から命じられて、騎兵隊を創設する。のち日清、日露戦争を敢闘する山縣有朋も一員だ。
■ 今週の「まさかの福沢諭吉」: 長州再征に関する建白書、あるいは、暴「長」膺懲!
2005年からのテーマです:おいらが最初彼らを知って調べたとき、外国船に砲撃するわ、英国公使館を焼き討ちするわ、老中暗殺を企てるわ、こいつら きちがい だな!と思っていた(愚記事:They look just like two Gurus in drag ! 西のグル、北のグル)
福沢諭吉は攘夷派を嫌っていた。暗殺がいやなのだ。当然、テロやクーデターもいやなのだろう。王政復古となり新勢力=薩長が政権を握った時、攘夷派が政権をとったと思い、絶望した。でも、薩長新政府は、「開国・開明」路線に転じた。それでも、福沢諭吉は新政府には出仕しなかった。
そもそも、徳川家には見切りをつけた。でも、明治になって、福翁自伝には、諭吉は薩長のテロとクーデターを非難することもなく、その正統性に疑義を呈することもなく、過ごしていたと見える。
でも、薩長が攘夷戦争をしていた時、諭吉は幕府「直参」としてどう振舞っていたのか?対薩長戦には全然乗り気でなかったことは自伝に書いてある(さて慶喜さんが京都から江戸に帰って来たというその時には、サア大変。(略)君たちは戦うとも和睦しようとも勝手にしなさい、僕は始まると即刻逃げていくのだから 愚記事)。ただし、当時の対薩長観は、あまり書かれていない。
そんななか、平山洋の『福沢諭吉』をみて、知った。諭吉は1866年前後のことを『福翁自伝』で言及していないと。そして、この間、諭吉は「長州再征に関する建白書」という長州成敗をちゃんとやれ!という意見書を書いて、提出していたと。長賊外交の路を絶其罪状を万国へ嗚候事。(全文)「長賊」ですよ、「長賊」。暴「長」膺懲! 攘夷の長州を武断で黙らせて、幕府が開国外交をすすめよ、ということだ。
知らなかったよ、諭吉。すこしは、まともじゃん。
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