地形図1.左:等々力渓谷(世田谷区)、右:神田川(千代田区)
「地図に残る仕事」ではなく、「地形図に残る仕事」。「地図に残る仕事」は大成建設のコマーシャルの惹句(web site)。でも、「地図」に残る仕事は案外簡単だ。一戸の家でも、密集地でないところに建てれば、地図に残る。難しいのは「地形図」に残る仕事だ。「地形図」に残る仕事;仙台堀。
東京の唯一の渓谷とされる等々力渓谷(関連記事:東京散歩;等々力渓谷)が上の地形図1の左の赤矢印。武蔵野台地に深く刻まれているのがわかる。この渓谷は自然に形成されたもの。一方、地形図1の右の赤矢印はお茶の水の神田川。台地(本郷台地)に谷ができていることがわかる。これが仙台堀の一部の人工渓谷。「地形図」に残る仕事;仙台堀。
仙台堀は、飯田橋駅近くの牛込橋から秋葉原駅近くの和泉橋の間の神田川のこと。1660年(万治3年)に仙台伊達家が幕府から命じられた(1660年2月1日)。当時は「小石川堀浚(ほりさらえ)」と呼称したらしい。その時の仙台藩主は3代目の伊達綱宗。21歳。3年前に19歳で藩主となった。工事は重臣の片倉小十郎、茂庭周防らが普請総奉行として実務を実施。幕府による小石川堀浚命令が発せられた時、綱宗は仙台にいた。綱宗は1660年3月28日、江戸へ到着。5月30日には(当時の)吉祥寺小屋に出て鍬初めの式を行う。この後7月18日までほぼ連日、工事現場で督励した。そして、7月18日工事現場から屋敷に帰ると幕府からの逼塞命令。藩主の座を追われる [1]。これが寛文事件、そして芝居の「伽蘿先代萩(めいぼくせんだいはぎ)」[2](伊達騒動顛末)として後世に残る事件の幕開けとなる。
[1] 綱宗隠居事件 wikipedia
[2] 伽蘿先代萩(めいぼくせんだいはぎ)wikipedia
その仙台堀(牛込橋→和泉橋)を散歩した。
▼ 「地形図」に残る仕事;仙台堀(牛込橋→和泉橋)
1:牛込橋、2:小石川橋、3:水道橋、4:お茶の水、5:湯島聖堂、6:万世橋、7:和泉橋
■ 1.牛込橋 ⇒ 2.小石川橋
牛込橋付近から西側、外堀方面を望む
牛込橋付近から北側、神楽坂方面を望む
飯田橋から水道橋へ
水道橋駅付近
■ 2.小石川橋 ⇒ 3.水道橋
水道橋交差点。東京都立工芸高校。
北から都内中心へ向かう車群。
■ 3.水道橋 ⇒ 4.御茶ノ水
いよいよ台地を登ります。といっても坂は緩い。
対岸の崖は地表から水面まで20メートルほどある。これだけ掘り込んだろうか?おそらくある程度自然の谷ができていたのだろう(地形図1右の青矢印の部分のように)。
ここら辺が最高地。指圧屋さんがあった。ここからは下り坂。御茶ノ水へ向かう。
お茶の水橋
お茶の水駅
お茶の水は本郷台地にある。まだ高台。秋葉原に向かい下る。
本郷台地を裂いているので地下鉄がこの谷では表に出る。
■ 湯島聖堂
■ お茶の水、5.湯島聖堂 ⇒ 昌平橋、6.万世橋、秋葉原
昌平橋。孔子さまも渡ったことがない倭国の橋(昌平とは孔子さまの生地)。
万世橋
秋葉原
仙台堀はここまで
和泉橋
▲ 以上、散歩おわり。