いか@ 筑豊境 寓 『看猫録』

Across a Death Valley with my own Distilled Resentment

マ元のペット;第1騎兵師団 (1st cavalry division)、朝鮮戦争で苦戦(一部壊滅)し、主なき東京ではなく、札幌へ帰還

2020年04月05日 17時14分25秒 | 札幌

■要旨

1945年(昭和20年)の敗戦時、マッカーサーの東京入城の露払い、同行をしたのが第1騎兵師団。「マッカーサーのペット」と呼ばれた [1]。日本占領の中核部隊だ。その第1騎兵師団がおらほの街、札幌に来たと知る。占領軍のエースが札幌に来た経緯は、1950年朝鮮戦争勃発。押っ取り刀で駆け付けた第1騎兵師団は38度線を越えて北上するも、出てきた中共軍に破れ、一部は壊滅し、師団は疲弊。占領下の日本に帰還するも、主のマッカーサーは解任され東京にはおらず、第1騎兵師団は札幌に移駐した;とおいらは知った。

[1] 栗田尚弥、『米軍基地と神奈川』

■マ元(マッカーサー元帥)のペット;第一騎兵師団

マッカーサーが日本に乗り込んできたとき、護衛をしたのが2組織;空からの第11空挺師団と海からの第1騎兵師団。前者は「厚木」に進駐、後者は横浜港から上陸した。マ元の最初の滞在先の横浜へ同行したのが、第11空挺師団。横浜から東京へ同行したのが第1騎兵師団。

 
自殺した近衛文麿の検死    1st Cavalry Division Twitter

最近、占領軍としての第1騎兵師団の米兵を、10代の頃から目にしていたと気づいた。つまり、敗戦後、戦犯容疑の出頭命令の期限の前日に服毒自殺した近衛文麿の写真を本で見たことがあったからだ。今、改めて見ると検死している米兵の腕の腕章に第1騎兵師団の記章が認められる。

なお、米陸軍の第1騎兵師団は現在もあって、公式Twitterもある。司令部はテキサスにあるとのこと。

■ 東京時代

第1騎兵師団は1945年の9月の東京入城直後は代々木練兵場に駐屯。のちにワシントン・ハイツとなる敷地。第1騎兵師団の司令部と第7騎兵連隊は、朝霞のキャンプ・ドレイク [wikigoogle画像](Camp Drake)に移る。第1騎兵師団の主力部隊のもうひとつの第5騎兵連隊は横須賀のCamp McGillgoogle画像)に駐屯。

東京に来てあと2.5ヵ月で丸5年となる1950年6月25日、朝鮮戦争勃発。

■ 朝鮮戦争

押っ取り刀で駆け付けた朝鮮半島において、プサンから100kmのところまで北朝鮮軍が侵攻。第1騎兵師団の第5、7騎兵連隊は朝霞のキャンプ・ドレイク、あるいは横須賀のキャンプ・マクギル(google)から横浜に向かい、船で出向(1950/7/14)。プサンより北の最前線に近い浦頃(ポハン)に上陸(1950/7/18)。


                         A: 雲山

1950年10月9日、第1騎兵師団は38度線を越える。

1950年10月19日、第1騎兵師団の第5騎兵隊がピョンヤン入城。これは第1騎兵師団にとっての、3回目の一番乗りとのこと。3回目とは、マニラ、東京に続きピョンヤンが3回目ということ。

第1騎兵師団はピョンヤンから北上する。

■ 雲山で1大隊壊滅

ピョンヤン陥落を受けて、中共軍(中国共産党の人民解放軍)は10月18日に秘かに鴨緑江を越え、南進。北進する国連軍(米軍+韓国軍)を迎撃する。国連軍・米軍は当初中共軍の存在に気付かなかった。11月1日になり、やっと国連軍・米軍は中共軍の大群の存在を認識した。

前線からはその後も次々と中国軍大部隊の集結に関する報告が寄せられたが、マッカーサーはこの増大する証拠を承認するのを躊躇った。前線部隊は不吉な前兆を察知しており、第1騎兵師団師団長は先行している第8連隊の撤退の許可を司令部に求めたが許可されなかった。そしてついに11月1日に中国軍が大規模な攻勢を開始、韓国軍第6師団の第2連隊が国境の南90マイルで中国軍に攻撃され、第6師団は壊滅状態となった。

さらに中国軍の猛攻で、右翼の韓国第2軍団が撃破され背後にまで迫ると、第8軍は中国軍の介入を認め、清川江への後退と防御を命じた。この過程で第1騎兵師団第8連隊は退路を遮断され、第3大隊は壊滅的打撃を受けた (wikipedia) (強調;ikagenki)

この雲山の戦いは史上初の米中直接交戦となる。そして、第1騎兵師団は敗退した。

 参考;雲山の戦い: The Battle of Unsan | 1st Cavalry Division Association、 機械翻訳

wikipedia   機械翻訳

その後、第1騎兵師団は立て直しを図り、もう1年朝鮮戦争に従事。

中共軍+北朝鮮軍は38度線を越え南下。1951年1月4日にはソウルを再占領。米軍(国連軍)は37度線まで後退(上左図)。しかし、第1騎兵師団は1月25日から反撃、北上。3月14日にはソウルを再奪還した。その後12月まで任務に従事。1951年12月から占領下日本に帰還を開始。

1951年12月7日~1952年1月に韓国、仁川を出発。

第1騎兵師団の朝鮮戦争での被害は;

12,053人の負傷、3,175人の殺害、670人の捕虜、180人が監禁、そして545人の行方不明者(=事実上死亡)、であった(web site: 1st cavalry Division History, Korean war 1950-1951、 機械翻訳

YouTubeにどんぴしゃの映像があった;

The 1st Cavalry Division In Korea - The Big Picture

■ 日本帰還、札幌へ

「マッカーサーのペット」と呼ばれた第1騎兵師団は、日本でのふるさと・「東京」のキャンプ・ドレイクには戻れなかった。東京には、主のマッカーサーがいなかった。解任されたのだ(1951年4月11日)。

第1騎兵師団は、1951年12月11日、室蘭港で日本に上陸。第1騎兵師団は千歳と札幌に進駐、駐屯した。札幌組がキャンプ・クロフォードに入る、第1騎兵師団本部と第7騎兵連隊。


キャンプ・クロフォード (愚記事より)

第1騎兵師団本部と第7騎兵連隊は札幌郊外のキャンプクロフォードに配置され、蒸気で加熱された赤レンガの兵舎を備えていました。1st Cavalry Division History - Return to Japan 1951 - 1957、 機械翻訳

赤レンガの兵舎ってこれだ;


愚記事より

 

 



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